COUNTDOWN O'CLOCK
四つ子の事件簿・第5話






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 大韓航空531便は高度を下げ始めていた。最後の機内サービスを少しで も早く完了しようと、キャビンクルーの皆さんはどんどん動きがスピードア ップしていく。
「お客さま、そちらよろしいですか?」
「……」
 成田−ソウル間の便に必ず乗り合わせている日本人乗務員の一人である彼 女がちゃんと日本語で話し掛けたにもかかわらず、相手はぽかんとした顔で 見上げるばかり、反応がない。指差しているのが飲み終えた紙コップである ことにも気づいていないようだ。
「あのう…」
「おい、翼!」
 隣の席からつつかれて、そのとぼけた乗客――いや、大空翼はくるりと振 り返った。
「若林くん、この人、なに言ってるの?」
「あのなあ…」
 とりあえず代わりに手を伸ばして紙コップを乗務員さんに渡しておいてか ら、若林は改めて翼に説教を始めた。
「一応日の丸つけてんだから、日本語くらい思い出しとけよ。変な評判が広 まるぞ」
「だって、『そちら』とか『よろしいですか』なんて、何を指してるのかわ からないんだもん。そのゴミを私にください、とか言ってくれないと」
「しょうがないな。状況で考えろよ。言っていることよりもその裏にある意 図を読み取るのが日本語ってもんだ」
「そうか、難しいんだねえ、日本語も」
 ちょっとため息をついておいてから、翼は若林を見上げてにこっと笑い返 した。
「でもさ、若林くんもあの人にドイツ語で返事してたじゃない、ビッテ、と か…」
「そうだったかな」
 若林は鷹揚に受け流して、読みかけだった新聞を広げ直す。
「まあいいからテーブルしまえ。どうせもうすぐ着陸だから」
「うん」
 素直にテーブルを戻してから翼は新聞を横から覗き込んだ。機内の備え付 けではなく、成田で若林があらかじめ買い込んでいた日本の新聞だ。
「…日本語の読み方、復習してんの?」
「読み方じゃなく、一般教養のほう。最近日本がどうなってるのか、政治や 経済以外さっぱりニュースが伝わって来ないからな」
「ブラジルは日本の流行はちゃんとわかるよ。ヒット曲もかかるし。ただ、 演歌ばかりなんだ」
「――くく、ダブル浦島太郎かよ〜」
 一列後ろの席で、反町がその会話に聞き耳を立てて楽しんでいた。
「こういう人たちが日本代表を名乗ってていいのかなーっと」
「おまえ、ヒトのことが言えないくせに」
 シートの背に深く沈んでいた松山が、目を閉じたままぼそっと答える。反 町はぱっと跳ね上がると、その松山に向かって猛烈抗議に出た。
「なんでなんでー! 俺は帰国子女なだけだもんね。ちゃんと日本国籍ある もん」
「そうだっけか」
 あくびをしながら松山は隣の席で起き上がった。
「ほっといたら、なに人にでもなっちまうからなあ、おまえは」
「ひかる〜」
 松山が皮肉っているのが去年のインドネシアでの事件であることに思い当 たって、反町は情けない声を上げた。皮肉られても仕方のない事態だったの は確かなのだ。
「そんなの反則だー。カオのこと言うなら光だって人のこと言えないんだか ら」
 それはもちろんそうだ。基本的に同じ顔をしているゆえに兄弟に間違えら れること数知れずな方々である。
「それはどうかな、一樹。今頃別の国の代表選手になっていたかもしれない んだよ、君は」
 こちらは同じ顔な上に自ら積極的に兄弟を名乗っている方だった。
「淳までひどいよー」
 反町には微笑みだけで応じて通り過ぎ、三杉はその前の列で足を止めた。 自分の席に戻ろうとしていたのではなく、用事があったらしい。
「翼くん、その後、彼から何か言って来たかい? いつ現地入りするのか、 協会にも連絡がないんだ」
「うん? 俺のほうには何もないけど」
 翼は顔を振り向けた。誰の話かはすぐにわかったようだ。
「そうか。やっぱり…とは言いたくないけど、ほら、こんな記事を見つけた んでね」
 三杉が差し出したのは英字新聞だった。翼は受け取って文字に目を走ら せ、それから若林を振り返る。若林はやれやれと言うように自分の新聞を脇 にやってそれを広げた。
「また新聞ざたになってんのか、あいつは」
「名指しはしてないけれど、フランスが今度のEU蔵相会議に先駆けて諮問 機関を立ち上げたって、この話、わざわざ会場がソルボンヌだって言うから には――」
 16才にして最高学府にスキップ入学してしまったばかりか、その後も独 自のデータ解析を駆使したレポートを次々に発表して内外に衝撃を与え続け る匿名の天才少年。その余波は、身内である彼らのところにもたびたび届い ていた。時にはかなりはた迷惑な形で。
「ふうん、岬くんなんだ、これって」
 読めない文字の向こうにその存在を確信したのか、食い入るように新聞を 覗いておいて、翼は顔を上げた。
「でも俺、心配してないよ。だって約束してくれたもん、絶対オリンピック に出るって」
「それはそうだけれどね…」
 代表選手としてではなく、一個人として交わされた約束。それは三杉にと っても確かな意味を持っていたが、やはり無条件でそれを信じるには過去の 実績が重すぎた。なにしろ当人がそう希望していても状況が許さないという ことも大いにありうるだけに。
「絶対、絶対大丈夫だよ」
 しかし翼の信頼はまったく揺るぎないものだった。その自信っぷりに、反 町までが背もたれ越しに身を乗り出してくる。
「なんでさー。なんでそこまで言い切れるわけ?」
 翼はにこっと笑顔を見せた。
「岬くんが俺のこと信用してないからさ。約束は最低守っておかないと、俺 が何するかわかないって思ってるんだ、岬くんは。だから、絶対大丈夫」
 ずるっ、と隣の若林が肩を落とした。日本語の理解力はともかく、サッカ ーに関することだけは間違いなく天才児と呼ぶべき男だった。









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