COUNTDOWN O'CLOCK










「佐倉苑子…?」
 メモを見ながら田島は首をかしげた。
「なんですか、これ」
「女子体操の選手だよ。おまえはサッカー以外には全然興味ないのな」
「なーるほど」
 東都新聞社で3年先輩にあたる笠元の皮肉は聞き流して、田島は膝の上に ノートパソコンを開いた。
 ホテルのロビーはまだ閑散として彼ら以外に会話の声は聞こえてこない。 数人の従業員が音もなく行き来しているだけで他の報道関係者の姿はまだ見 えなかった。
 今回のオリンピックの日本代表選手リストを呼び出して、体操のページに 飛ぶ。笠元は一緒に覗き込みながら画面を指差した。
「個人総合はあまり期待されてないが、跳馬ではそこそこ入賞圏内を狙える 選手だ」
「跳馬だけ…。つまり、スペシャリストってわけですね」
 一人だけ名前の横にチェックが入っていないのを確認して田島は顔を上げ た。笠元はうなづく。
「まだその子だけコメントを取れてないんだ。田島、今日のうちに頼むわ」 「――サッカーの連中、今日着くんですけど」
「知ってるさ。午後の便だろ。俺は朝イチでお出迎えなんだ。そのまま常務 と挨拶回りだぞ。代わってほしいなら喜んで代わってやるけど?」
「ははあ、ご苦労さまです。先輩、行ってらっしゃい!」
 本当にそのまま空港に向かう笠元を見送っておいて、田島はひとつ息を吐 いた。そして画面に目を戻す。
「体操ってもねえ、何を訊きゃいいんだ?」
 東都スポーツの過去の記事を検索して体操関係のインタビューを順に呼び 出している。質問事項のカンニングをするつもりらしい。
「なんだなんだ、ほとんどあのコンビの記事じゃないかぁ」
 なるほど、さっきから見出しには同じ名前ばかりが躍っている。
「樫と大江。同じ高校生でも扱いが段違いだな」
 今回の日本の選手団で話題の中心となっている体操男子の2人は、男子で はこれまで例のなかった現役高校生の日本代表ということもあって、ここの ところ人気っぷりは過熱を通り越してほとんど大嵐の状況だった。
 現役高校生日本代表、という部分でまったく同じ立場のサッカーのほうと 比べて、知名度の差をちょっと悲しく思い知る田島であった。が、騒がれる のも良し悪し。限度を超えると当人は大迷惑以外の何物でもないことを、こ の後、彼も実感することになる。
「ま、いいか。とっとと済ませて、俺も空港行かないと。いい場所キープし ときたいもんな」
 オリンピックの先行取材チームに入ってずっと帰国していない田島は、選 手たちとも久しぶりの顔合わせとなる。つい浮かれ気味になるのは無理もな かったが、仕事に私情を持ち込みすぎるのは――ああ、いつものことか。
 ともあれ、オリンピックという大舞台を前に、またもスリリングな嵐の予 感が渦巻き始めていたのだった。











「京子さん、急がないと遅れますよ、さあ」
 ドアのところで山本があせっている。迎えの車がさっきから下で待ってい るのだ。
 が、小泉京子は理事室のソファーに身を沈めたまま動かない。不機嫌な顔 で宙を睨んでいるばかりである。
「ストライキしたって駄目ですよ。会合はあなた抜きじゃ始まらないんです から」
「なんだって今日なのよ!」
 さっきからこれでもう何度目かの台詞を吐いて、小泉京子は立ち上がっ た。が、まっすぐドアのほうには向かわず、デスクまで歩いて行って、そこ に置かれていた分厚いファイルを乱暴に取り上げる。
「ソウルに飛ぶ当日になって召集がかかるなんて、あんまりじゃないの!」  与党の有力会派のリーダーが今日未明にぽっくりと亡くなってしまったこ とが、彼女にとっての不幸の始まりだった。次期総裁選びが目前だっただけ に、各勢力がここまでかろうじて保っていた微妙なバランスが一気に崩れて しまい、政財界のあらゆる有力者をあっちでもこっちでも呼び集める大騒動 となっているのだ。
「しかたないでしょう。緊急事態なんですから。さ、早くお願いします」
「楽しみにしてたのに。楽しみに…」
 ファイルはずっしりと重くその手に抱えられていた。小泉さんが今回のオ リンピックに向けて集めてきた資料、データ、切り抜きがどっさりとスクラ ップされているのだ。山本はさすがに同情の色を浮かべたようだった。
「開会式は週明けですから、うまくすればちゃんと間に合いますよ。開会式 が駄目でも試合までには…たぶん」
「和久さん――」
 ちらりと視線だけを上げて、小泉さんは口を開いた。
「あなたでいいわ」
「…は?」
 突然つかつかと一直線に向かってくる小泉さんに、思わず一歩下がる。
「私の代わりにあなたが行ってくださる? 今日、今からすぐに!」
「ちょ、ちょっと待ってください、京子さん。いきなりそんな無茶な…」
 うろたえる山本の前でぴたりと止まり、小泉さんはにっこりと微笑んだ。 「授業だってあるし、とにかくそんな急な話は…」
「航空券は手配させるわ。それと教務部にもね。学校はあなた一人がいなく てもちゃんと動くから」
「そ、そんなぁ」
 あんまりな言葉にくらりと来そうになった山本だったが、意識が遠のくに はまだ早かった。
 目の前でその笑顔が伸び上がって来たかと思った瞬間、ふわりと唇が重な ったのだ。
「――でも、あの子たちは違うの」
 離れてから、小泉さんはさっきと違う表情を見せた。
「京子さん?」
「これ、ことづけといてね、あの子たちに」
 そう言った途端、山本氏の脇をすり抜けてさっさと一人で歩いて行ってし まう。
「ことづけって、まさか、キスをですかぁ?」
「そうよ」
 振り向いて小泉さんは元気よく手を振った。
「でも口紅はちゃんと拭いてから行ってね。あなたには似合わないから」
「京子さんってば!」
 もう姿が見えなくなった婚約者に向かって、山本ははーっと大きく息をつ いた。思い立ったら誰が何と言おうと止まらない行動力がすなわち小泉京子 さんそのものであるが、それに付き合わされ、さらにフォローする立場の人 間はどうなるのだろう。
 山本はぐっとこぶしを握った。
「ことづけなんてしないからな。俺が着服してやる」
 懲りないのはやはりお互い様かもしれなかった。









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