COUNTDOWN O'CLOCK






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 ソウル郊外のオリンピック選手村は、日に日に人口が増えて来ていた。
 種目とその日程によっては、開会式後にソウル入りするスケジュールも珍 しくはないので、その人口は大会期間中もずっと変動し続けることになるは ずだ。
 そして今日、日本選手団の第2陣が到着してその人口がまた一気に跳ね上 がった。サッカー代表チームもその数の中に入っていることになる。
「おいおい、嘘だろ――」
 入村手続きが済んだところで宿舎に向かおうとしていた彼らを、突然取材 陣が襲ってきた。
「なんでこっちばかり来るんだよー!」
「うわ、翼も日向も囲まれちまって埋もれてるし。…えっ、こっちにも来る の? わわ…!」
 カメラのフラッシュを閃かせながら日本人記者の皆さんが荒波のように押 し寄せてくる。人垣があっちにもこっちにもできて、最初は傍観モードだっ た者も見落とされることなくその犠牲になっていく。
「今大会への意気込みを聞かせてください」
「メキシコ大会以上の成績を狙っていますか?」
「特にマークしている国は? 選手は?」
 くらいまではまだよかったが、
「好きなファッションは?」
「女性のタイプは、有名人で言うと誰ですか?」
「ズバリ、彼女はいますか?」
 などとなるともう絶句状態である。現地韓国をはじめ、各国のプレスもい るにはいたが、この日本語だけで飛び交う騒ぎに弾き出される格好になり、 結局役員が見かねてストップをかけるまでこの無秩序な混乱は収まらなかっ た。
「――よく無事だったな、お互い」
「ああ、なんとか…」
 それでも宿舎の入り口までしつこく追ってくるカメラがあったりして、選 手たちがようやく一息つけたのはロビーの中に入ってからだった。
 兄弟で体を支え合ってゼイゼイ言っていた立花たちの横で、こちらは新田 と佐野がうつろな顔で声をひそめている。
「どうなってんだよ、いきなり。なあ?」
「成田では普通だったのにな…」
 あまり身長に恵まれていないこの4人は体力の面でもかなりのダメージを 受けたようだ。それをかばおうと体を張っていたらしい次藤と高杉が、こち らも疲労困憊の態で壁にぐったりもたれていた。守るのが本職の彼らでも、 慣れない相手にはどうしようもなかったのだ。
「いつの間にワシらはこんなに人気モンになったと?」
「ああ、絶対変だ。金浦空港に着いた時から、なんかカメラが多いなとは思 ってたけど。…なんでだよ、もう!」
「――高校生、っていうのがキーワードだね、おそらく」
 2階の窓際に立っていた三杉が笑顔で振り返った。もちろん、下のロビー のチームメイトたちに答えたわけではない。
「体操の高校生コンビの人気がこちらにも飛び火しているんじゃないかな。 現地に来ているマスコミほどテンションが高くなってるようだから」
「一緒にされても迷惑だよな」
 ベッドの上に腹這いになって、松山は一人うなづいていた。
「あのねえ!」
 いきなり割り込んだ抗議の声は反町だった。ドアの内側にぺたりと背中を 貼り付け、手にはまだ荷物を下げたままだ。
「おまえたちさあ、そーゆーの反則だって思うんだけど? いつの間にちゃ っかり抜け出してたんだよ!」
「余裕で逃げられたのに自分から進んで取材につかまってた奴に言われる筋 合いはないぞ」
 ごろんと天地逆さに振り向いて、松山がにやりと笑った。
「カメラアングルまで計算しながら受け答えしてるみたいに見えたけどな、 俺には」
「ここからずっと見てたわけ? シュミ悪いよぉ、自分たちだけ高みの見物 なんて」
 部屋の中まで来て、反町はバッグをどさっと床に落とした。
「アイドルとかじゃないんだからさ。こーゆーのやめてもらいたいよね。の っけに疲れるったら」
 ぶつぶつ言いながら、そのバッグの中から愛用のノートパソコンをさっそ く取り出している。
「光が誘導してくれたんだ。まあ、急ぎの用もあったしね」
「ああ、太郎ちゃんの情報探しね。何か収穫あった?」
「メールが来ていたよ」
 三杉はあっさりと答えた。反町は手にしていたパソコンを一瞬落としそう になる。
「う…嘘っ!」
「僕宛てじゃなかったけど」
 宿舎のフロントでプリントアウトしてもらったらしい用紙をひらひらと見 せる三杉だった。顔は笑顔のままである。
「じゃ誰! 翼宛て?」
 反町は身を乗り出してその紙を奪い取った。目が素早くその上を走り、そ してがばっと顔を上げる。
「俺宛てじゃん! これ、本物?」
「わからないね。だから君に見てもらいたかったんだ。発信元をチェックし てもらえるかな」
「あ、うん。――わかった」
 妙に素直に反町はうなづいた。LANに接続するのももどかしく、さっそ く自前のメールソフトを開く。
「岬からメールをもらえるなんて、おまえら、よっぽど仲良しになったんだ なあ」
「やめてよー、光」
 キーボード操作をしながら反町は口を尖らせる。
「どっちかって言うとパシリだよぉ。あいつ、自分がもう一人いるつもりで 最初から仕事の量を決めてんじゃないの?」
「去年のジャカルタのアレ、とか」
 松山は懲りない。三杉までが畳み掛けた。
「年明けのFIFAの緊急発表も、かな」
「もー、あれは違うんだって。淳も知ってるくせに」
「でも、発端になったのは事実だろう?」
 反町の隠された趣味は、コンピュータ・ネットワークの重箱の隅つつき、 と自ら呼んでいる通り、以前のような不法侵入からむしろその通路の自主的 開発のほうへと宗旨替えをしてきている。岬による誘導が多かれ少なかれあ ったのは間違いなく、目に対する足、頭脳に対する指先の関係が成立してい るとも言えたが、反町のほうも負けずに、利用される分はこっちも利用し返 すもんね的精神でいて、言わば共生関係にあるのだ。
「思い出したように突然依頼が来るばっかりでさ、もう半年くらい音沙汰な いままなんだぜ」
「そこが不思議だね。あえて選手村気付にする必要はまったくないのに、ど うしてこういう連絡のしかたをしたのか――」
 三杉も一緒に画面を覗き込む。
「君個人のアドレスはわかっているんだよね、岬くんは」
「うん、もちろん。まあ素直に普通のメールをよこすってことはめったにな いけどさ」
 通信内容が内容なだけに警戒の意味もあるのだろうが、突拍子もない場所 にカムフラージュされたメールがひょっこりと現われたりするのはいつもの ことだと言う。それをまた期待にたがわずきっちりと受け取ってみせるこの 反町も只者ではないのだが。
「なるほど、このメールボックスには何も届いていないな。じゃあ、これは 一体どう考えればいいんだろうね」
 三杉が振り返ると、さっきの紙は松山の手に渡っていた。ベッドに仰向け になって読んでいる。
「『その子をよろしく。いろいろ教えてあげて。岬』…たったこれだけじゃ あな。その子ってどの子だよ」
「翼じゃないけどさ、『よろしく』とか『いろいろ』じゃ、どうしようもな いよなぁ。具体的に何をしろっての、もう」
「少なくとも岬は日本語の精神をちゃんと忘れずにいるってことだな」
 全然慰めになっていない。
「肝心なのは、岬くんがいつ来るのか、だよ。心の準備からしておかないと ね…」
 三杉がつぶやいた時、ドアがノックされた。顔を覗かせたのは若島津であ る。
「やっぱりここか。おい、反町、自分の部屋でやれ、そういう真似は」
「あれっ、俺、どこの部屋だっけ?」
 パニックの中で部屋割が発表されていたようないないような…。ちゃんと 確かめる前にここに駆け込んだ反町はどっちにせよ聞いていなかったのだ。 「ポジション別だからな。おまえは211号室。日向さんと同室だ」
「わーお」
 それで若島津が探しに来たのか。
「一樹、じゃあ荷物だけでも先に置いて来たまえ。日向にはとりあえず心証 を良くしておかないと後々大変だからね」
「わかったわかった」
 パソコンだけそのまま残して床の荷物を拾い集める。若島津はと振り返る と、待ってやる気がそもそもないのかもうドアの向こうに消えてしまってい た。
「あー、健ちゃーん、待って待って! 211号室ってどっちさ!」
 反町の声が廊下の向こうへ遠ざかっていく。松山はベッドからひょいと起 き上がった。
「ところで、俺たちはここでよかったのか?」
 部屋割を見ていない人間が実はここにもいた。
「もちろん。僕たちはいつも同室になるようになってるんだよ」
「そっか」
 にっこりしている場合ではないと思うが。相方がどういう手を使っている かまでは気にしていないに違いない。
「で、若島津はそう言えば誰となんだろう。まさか…」
「大丈夫。心証を良くしておく必要があるのは彼も同じだから」
 ポジション別、というコーチ陣の決定は尊重しつつ、しかし自分たちの都 合もちゃっかり通しておく――ということらしい。
「そか。若林とはちゃんと分別してあるんだな。よかった」
「光。ゴミじゃないんだから」
 漫才をしつつもパソコンの画面からは目を離さない。
 反町が作り上げたネットワークの複雑な回路の間を、検索ソフトが辿って いく。該当項目なし、の表示が点滅しては自動的に次のリストへ移る。
「翼がああ言うんだから、来るのは間違いないさ。それでいいと俺は思うけ どな」
「そうだね」
 松山の言葉にようやく三杉が肩の緊張を解いた。
「僕もそれは信じているよ。ただ、岬くんには貸しがある。それだけはきち んと返してもらわないと」
「なんか物騒な話じゃないだろうな」
 目を丸くする松山に静かに微笑み返して、三杉は窓の外を指差した。カー テンが半分開いている向こうに広がるのは、緑に縁取られたオリンピックメ インスタジアム。
「あそこで返してくれるはずさ、岬くんは」
「そっか」
 松山は嬉しそうに笑った。
 噂が大きく世界を駆け巡るミステリアスな天才少年。しかし、結局彼らに とっては、それは虚像でしかないのだ。実体はフィールドの上にある。いつ も。
「翼くんが教えてくれたじゃないか」
「――サッカーさえできればあとは気にしない、ってね」
 それはそれで平和な結論であった。









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