ゆりかごの森
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KEEPERS シリーズ外伝:ミューラー編 











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 コーナーキックはニアに入ってきた。
 頭で合わせようとする選手とそれを阻止しようとする選手がヘッドで競り 合って、ボールはエリア正面にこぼれる。そこへ何人かが突進して激しい当 たりになった。
「あ〜!」
 声にならないため息を上げたのはゴール裏に陣取るサポーターたちだ。
 交錯する中で横に転がり出たボールはディフェンス側がかろうじてクリア し、大きく相手陣内へと蹴り込まれたのだ。センター付近に残っていたFW がサイドに逸れていくそのボールをあわてて追い、まだ戻り切っていない他 の選手たちがそれ以上にあわてて守備に走る。
「なんだなんだよ、皆んな薄情だな…」
 たちまち空っぽになったゴール前で、一人だけ取り残された選手がいた。 DFのシュテルンである。エリア内に座り込んだまま、顔をしかめている。 「……ヒザ、か」
 そこへ近づいてきた大きな影にシュテルンは顔を上げた。
「おまえ、見てたんなら早く来てくれよな、ミューラー」
 10才も年上の選手にタメ口をきくこの新人GKに、しかしそれが単に生 来の無口ゆえだとシュテルンも理解しているらしく、気にせずに答える。ミ ューラーは黙ってその側にしゃがみ込んだ。
「……」
「またやっちまったかなぁ、参ったな」
 前シーズンの数ヶ月を怪我で棒に振っただけに、シュテルンの表情は厳し い。が、動かそうとしてまた痛みが走ったらしく、小さく声が出た。
「ここだな」
 オンプレーだというのに実に落ち着き払った様子で、ミューラーはその膝 のあたりにそっと手を近づけた。
「おーい、傷んだのかぁ!」
 ベンチから声が飛んで、ミューラーは顔を上げた。来い、という合図のつ もりらしい。
 向こうのゴール前では攻防が切れずに続いているので、トレーナーはゴー ルの裏側に駆けつけて来た。
「痛み、ひどいのか、シュテルン」
「そうだな…、いや、さっきほどは…」
 まだ大きなキーパーグラブの手がかぶさったままの自分の右膝をシュテル ンは見下ろして、そしてトレーナーのほうを、それから頭上のミューラーへ と順に目を移した。
「…動かすな、まだ」
 何をしてるんだ、と問おうとしたシュテルンはホイッスルに顔を振り向け る。相手ゴール前でファウルがあったらしく、審判もこちらの怪我人に気づ いてプレーを止めたようだった。
「さ、見せてみなさい。まさか去年と同じ所かい?」
 それを待ち構えていたトレーナーが、すぐさまラインを越えて駆け寄って 来る。ミューラーは静かに手を離すと、治療の邪魔にならないように立ち上 がった。
「どうだ、一度出したほうがいいだろうな」
「えーと…。どうかな」
 シュテルンはトレーナーに診てもらいながら、痛みを探り当てようとして 眉をしきりに動かしていた。それからおそるおそる膝を曲げてみて、自分で 首を傾げる。
「う〜ん、大丈夫みたいだなぁ、なんか」
「そうか? 無理するなよ」
 コールドスプレーも断り、シュテルンはトレーナーの手を借りて立ち上が った。トレーナーはもう一度膝の様子をチェックすると、ベンチに向かって 手を上げ、親指を立ててみせた。
 ホイッスルが鳴って、相手ゴール前のフリーキックでプレーが再開され る。
「うーん、気のせいだったかな。さっきまであんなに痛かったんだがな…」
 シュテルンはその場で軽く足踏みをして確認すると、もう一度ゴールを振 り返った。そこにはゴールマウスを埋めんばかりの巨大なGKがいつものよ うに悠然と立っている。
「…だよな。気のせいだったんだ、きっと」
 そのミューラーに軽く手を上げてから、シュテルンはゆっくりと走り出し た。ミューラーはもちろん特にこれといった反応もせずに、黙ってグラブを 直していただけだった。












「明日から雨らしいぜ。せっかくのオフなのに、盛り下がるよなあ」
「どうせどこにも行かないで飲んでるだけだろうが。天気なんて関係ないく せに」
 練習後のクラブハウスは、いつも以上の開放感に満ちてざわめいていた。 チャンピオンズカップの日程がずれたせいで、翌日から1週間、臨時のオフ が出ていたのだ。これで盛り上がらないわけがない。
「おまえもうちに来るだろ。騒ごうぜ」
「大丈夫か、こいつって、他人ちの酒はキリなく飲むぞ」
「そりゃひでえなぁ」
 独身組の数人が声を張り上げている。と、そこへドアが開いて、ミューラ ーがバッグを手に出て来た。
「おい、ミューラー、おまえも来いよ。マクスのとこで集まるんだ。部屋が 空いてるから泊まりもOKだって」
 陽気な誘いに、しかしミューラーは困ったように頭をかいた。
「…ああ、俺は家に帰るんだ。悪い」
「なんだ、珍しいな。おまえがオフに遠出なんて」
 追いつきざまにシュテルンが声を掛けてきた。車のキーをくるくる回し て、こちらも楽しそうである。
「田舎に帰っても誰もいないって言ってなかったっけ」
「…疲れたから」
「えっ?」
 思わぬ言葉にシュテルンの足が止まる。
「ゆっくりしてくる」
 いつどんな場合でもマイペースそのものの頑丈さが売り物のはずのGKで ある。練習や試合のハードさを愚痴ったり怠けたりすることもなければ、怪 我や病気という言葉とも縁がない。
「ミューラー…?」
 まさか、ホームシック? シュテルンはぽかんと口を開けて、ミューラー が歩み去るのを見送った。原因が他ならぬ自分であるなどとは夢にも思わず に。













 ミューラー自身はあまり自覚していないのだが、これまでにも似たような ことが何度もあったのだ。
 駅員が一人詰めているだけの小さな駅に降りて村を抜け、あとはどんどん 山道を登っていく。その静かな道筋はただ歩いて行くだけで気持ちのいいも のだった。霧雨が降りかかってくる中を、しかしまったく気にすることなく 歩き通して、ミューラーはようやく自分の家の前に立った。
 入り口に打ち付けてあった横板を素手で難なく外し、ドアを開ける。沈澱 していた空気がそのドアの動きで揺すられて、煤けた匂いが微かに漂ってき た。
 まずは火だ。
 その匂いに、ミューラーは大事なことを思い出す。暖炉はかまどの役目も 兼ねている。何日かここで過ごすなら、まずその暖炉に火を入れなくてはな らない。
 薪は小屋の裏手に少し残してあったはずだ。それを取りに再び外に出たミ ューラーは、そこでふと足を止めた。
「ただいま」
 彼が声を掛けたのは、小屋の裏手の大きな樫の木だった。幹に両手を当て て耳を澄ます。雨に湿った樹皮から、トクトクと鼓動のような響きが伝わっ て来る。
 この人里離れた森の中で、ミューラーは子供時代のほとんどを過ごした。 最後の数年間はしかもたった一人で住んでいたのだ。しかし寂しいという感 情は彼には覚えがない。
 ここにはたくさんのものがある。
 そしてそれが自分を守ってくれている。――ミューラーはいつもそう感じ ていたのだ。
 幹に手を当てたまま木の梢を見上げると、微かにざわめく緑の間に淡い光 がちらちらと目をかすめた。滴が、光を反射しながら落ちてくる、その光ら しい。
 じっとただ動かず、ミューラーはしばらくその光に目を奪われていた。
 体のどこか奥深い所から、その光の動きに呼応するように湧き出てくるも のがある。澱んでいた水が突然流れとなってあふれてくる――そんな感覚が ミューラーを満たした。
 体のエネルギー、そして心のエネルギーの水源。
 疲れ、と表現していた自分の消耗は、そこにあったのだと、ミューラーは 自分で今思い知る。
 そう、このために彼は故郷に帰ってきたのだ。
――ああ、もう雨はやむな。
 近くでカササギの甲高い声が響いて、ミューラーは周囲を見渡した。雨の 後まっ先に飛び出して来るのがこの鳥である。程なく他の小鳥たちもその後 に続いて賑やかになることだろう。
 森はそんな空の変化を予感するかのように、音もなく霧を流していた。そ の霧の間の濃淡が、刻々と変化していく。
――何だ?
 森の、ある一角にしんとした静けさを感じて、ミューラーは凝視した。そ こにだけ、木々の気配に空白がある。誰か、いるのか…?
 薪は後回しにして、ミューラーは小屋の前の斜面をゆっくりと降りて行っ た。木立の間に入り、その気配の方向へ進んで行くと、一本の木の根元に男 が一人、ぐったりともたれかかっているのが目に飛び込んできた。
「おい、大丈夫か」
 肩を軽く揺すると男は薄く目を開けた。
「――水を、くれ。水…」
 弱々しい声でうわ言のように繰り返す。ミューラーは男の様子をじっと眺 め、それからいきなり肩に担ぎ上げた。男は低くうめいたが、まだ意識がは っきりしないらしく、そのまま小屋まで運ばれた。
「…ほら、水だ」
 ベッドに下ろされた男は、ミューラーのその声に目を開いた。泳ぐように 頼りなくさまよった視線が、差し出されたコップに止まる。まず半分ほど直 接飲ませてもらってから、ようやく自分でコップをつかんで残りを飲み干し た。
「――もう一杯、くれ」
 2杯目をゆっくりと飲み終えて、男は大きな息を吐いた。まだ30才にな るかならないかの年齢だろう。しかし、薄く伸びた無精髭や憔悴した表情 が、実際の年齢より男を年上に見せていた。
「…ありがとう。助かったよ、坊や」
「………」
 ミューラーは一瞬固まったが、空のコップを差し出す男の笑顔に冗談で言 ったのではないことを見てとって、その妙な呼びかけは聞かなかったことに したようだ。
「どこから来たんだ」
「スパだ。クアハウスに来てたんだが」
 男が言った鉱泉町の名は、ミューラーにも覚えがあった。ここからはしか しけっこう距離がある。ずっと歩いて来たというのだろうか。
「何か食うか? 腹も減ってるんだろう」
「あ、ああ。そうだな、確かに…」
 男は苦笑してまたずるずるとベッドに倒れ込んだ。暖炉に向かってやかん を火にかけているミューラーの姿を、なぜか嬉しそうに眺めている。
「今、パンくらいしかないんだ。スープを作るから、少し待っててくれ」
「坊やが作ってくれるのか。小さいのに、偉いな」
「……別に」
 ミューラーは他に答えようがなくてもごもごとつぶやく。もしかするとち ょっと危ない人なのかもしれない、と思い始めながら。
「名前は?」
「デューター」
「そうか。おじさんはシュナイダーだ」
 シュナイダー?
 ミューラーは今度は驚いて顔を上げた。あのインパクトの強い元チームメ イトと同じ名をこんな時に聞けばいくら彼でも驚くだろう。もちろん、ドイ ツではごくありふれた名前ではあるのだが。
「俺にも君と同じくらいの歳の子供がいるんだ。まあ、いた、って言うか」 「あんたは…」
 そこまで聞いて、ミューラーは思い切って尋ねることにした。
「俺がいくつくらいに見える?」
「そうだなあ。6、7才くらいだ。当たってるかい?」
「……」
 ミューラーはまっすぐに男の表情を見返す。冗談を言っている顔でないの が困るのだ。では、やっぱり、どこか変になってる…?
「こう見えても、おじさんはサッカー選手なんだぞ」
「サッカー…」
 今度は声に出してしまった。あまりにぽかんとした顔をしてしまったせい だろう。男のほうが笑い出した。
「こんな様子じゃ信じてもらえないかもな。まあ、ずっとプレーもしてない しね」
 笑いが次第に低くなる。ミューラーは改めて男をまじまじと見つめた。
 クアハウスにいたと男は言っていた。とすれば療養が目的なのか。アルプ スに近いこのあたりには特にスパが集中しており、一般の療養、保養客はも ちろん、スポーツ関連の利用も多い。サッカーでも、クラブチームが強化キ ャンプを張る例は珍しくない。
「…どこか、悪いのか」
「ん、まあね」
 もう笑いは顔から消えて、男の表情にまた疲れた色が浮かんでいた。
「脚を悪くして、長く休まなくちゃいけなくて――その間にいろいろあった んだよ」
「……」
 それ以上は語り切れない、いや、語りたくない、という感じで男は黙り込 む。
 その気持ちは同じプレーヤーとしてミューラーにも理解できた。同僚のシ ュテルンも、古傷を抱えて綱渡りをしているようだ、とよく漏らしていた。 今度同じ所をやればもう終わりかも…という周囲の声さえあったのだ。
 だからあの時――。
 ミューラーは試合で倒れた時のシュテルンを思い出す。怪我の痛みより先 に、そういう不安の塊が一気に爆発したようにただ呆然としていたあの姿 を。
「熱いから、気をつけて…」
 テーブルの上にスープ皿を置いて男に勧める。男はうなづいてベッドを出 ると、テーブルまでゆっくりとやってきた。
「おいしいよ。ありがとう」
 パンを口に運びながら男はミューラーに笑いかけた。
「タマネギのスープは好物でね」
「……」
 向かい側で自分の皿を置きながらミューラーもうなづく。
「今はこれしかないけど、明日、下の村へ行って何か材料を買ってくるか ら」
「村…」
 男はぎくっとした顔になった。
「いや、俺はもう行かないと。ごちそうにもなったし、元気出たからもう大 丈夫。それに君の家族だって帰って来るだろ」
「……」
 ミューラーはパンをちぎって口に入れた。しばらく沈黙が流れる。
「家族はいないから心配するな。親はずっと昔に死んだし、姉ちゃんも町に 住んでる」
「えっ、君一人…?」
 男は本気で驚いたようだった。ミューラーを幼い子供だと思っているとす れば無理はないが。
「だからもっと休んでいかないとダメだ。それにその足じゃ長く歩けないだ ろ。ここに来るまでに無理もしてるようだし」
「え…」
 男はスプーンを持ったままぽかんとする。
「さっきベッドから出る時に右足を引きずってたな。もともと悪いほうの足 をかばって挫いたか何かだろう」
「あ、あはは」
 男は当惑したように笑い声を上げた。図星というところだろう。そのまま 力なく肩を落とす。
「山道で霧が深くなってどこを歩いてるのかわからなくなって…。しかも雨 で滑っちまってね」
 一つ息をついてから男は目を上げた。
「おじさんね、追われてたんだ。あ、いや、警察とか、そういうんじゃない よ。でも、また見つかると困るんだ。だから…」
「…わかった」
 ミューラーは男のスープを目で指した。どうせ村に下りて言いふらす気は ない。
「さあ、いいから食べろ。冷めるからな」
「ありがとう、デューター。なんか、大人と話してるみたいだよ、君といる と」
 男は再び笑顔になった。
 ミューラーは心の中であきれつつ、またゆっくりとスープを口に運び始め る。みたい、じゃない。大人なんだ。選挙権はまだないけれど。
「でも、君は家族はお姉さんだけって、友達はいるのか? ここに」
「ここに…? いや」
 人間の友達は少なくともいなかった。小さい頃からずっと。
「じゃあ、おじさんと友達になろう。少しの間だけでも。いいだろう、デュ ーター?」
「……」
 友達が欲しいのはむしろこの男かもしれない、とミューラーはふと思っ た。男の笑顔の陰には、いつも疲れたような孤独な色が見えている。
 ミューラーが無言でうなづくと、男は嬉しそうに手を出した。
「じゃあ俺たちはこれで友達だ。よろしくな、デューター」
 握った男の手を、ミューラーは見つめる。触れば子供の手でないことは気 がつくはずだ。そう思って男の反応を窺うが、ミューラーの大きな手をふわ りと優しく握って、特に不思議がっている様子はない。
「俺のことはルドルフ、いや、ルディって呼んでくれ」
――ルドルフ・シュナイダー?
 ミューラーは握手の手を離しながら一瞬動きを止めかけた。聞き覚えのあ る名前だった。
 それは、彼の元チームメイトが今度移籍したチームの新監督と同じ名前だ ったのだ。






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