ゆりかごの森
・・・・・・・・・・・・・・・











<U>









「へえ、これが効いたんだ」
 男は言われるままにベッドに足を投げ出し、乾いてぱりぱりになった大き な葉をミューラーが一枚ずつ剥がしていくのを見ていた。
 小屋の近くで採ってきた新しいジギタリスの葉を重ねながら腫れた足首に 貼り付ける。そのままではなく、少しだけ火にあぶってあるのがミソだ。
「熱を取ってくれるからな。薬はないけど、こういう草ならいくらでもある から」
「すごいな」
 男は感動した顔でミューラーの手元を見つめている。確かに一晩で腫れは かなり引いて挫いた痛みも和らいできたように思う。
「その歳でよくそこまでいろいろ知ってるもんだ。山の子供は都会っ子とは 生活力が違うんだなあ」
 奇妙な発言をいちいち気にしていてもしかたがない、とついに開き直った のか、ミューラーは黙って立ち上がった。
「じゃあ、俺は村に行って来る。このまま足は動かすな」
「わかった。おとなしくしてるよ」
 ベッドの上から男は手を振ってミューラーを見送る。
 外に出ると朝のひんやりした空気が彼を迎えた。昨日のような雨模様では ないが、薄い霧が相変わらず森をぼんやりと包んでいる。
――妙なことになったなあ。
 シュナイダーと名乗る何だか知らないが逃亡中らしい男。身の上話もいろ いろ聞かされたものの、どこまで本当かは確かめる術もない。何しろミュー ラーのことを小さな子供だと思い込んでいるあたり、普通じゃないのだ。
 しかし怪我人を放り出すわけにいかない、というのがミューラーには最優 先だった。人間を拾ったのは初めてだったが、森では小鳥のヒナや野生の動 物たちが弱っていたり傷ついていたりするのを見つけるたびに面倒を見てや ってきた彼なのだ。
 しかも故障に苦しむサッカー選手というのが事実なら、ミューラーにとっ てもある意味身内になる。
 しかもシュナイダーという名前。同姓の人間などいくらでもいるとは言え …。
――気になるのは気になるよなあ…。
 あれこれ考えながら、昨日登って来た山道をどんどん降りて行く。車が駄 目なのはもちろんオフロードのバイクでさえ無理、という細い山道だ。もっ ともここを使うのはミューラーと姉のフリーダくらいだからそれで特に支障 はなかった。年にほんの数回くらいの割で郵便屋さんに苦労をかけるのが例 外だったくらいで。
 そんな山道の途中で、谷のほうからふと聞き慣れない音が響いた気がして ミューラーは足を止めた。だが、耳を澄ませてもそれ以上の気配はなく、結 局そのまま村まで下りてきてしまった。
 シュバルツバルト地方の典型的な村であるここは、鉄道駅がある以外は特 に他と変わったところもない小さな集落だ。この地方独特の大きな三角屋根 の家が並び、昔ながらの静かな時間が流れている。
「あれ…?」
 しかしミューラーは気がついた。
 どこか変だった。
 何が、と具体的に言えないものの、村の様子にほんのわずかずつ感覚を裏 切るものがある。久し振りに帰って来たから…とも違う、そもそも昨日着い た時に見た村の風景とも何か違うのだ。道沿いの農家の生垣の形とか、それ とも教会の鐘楼の崩れ具合とか、そんな些細なことではあるのだが。
「おや、デューター、一人か。今日は姉ちゃんは一緒じゃないのか」
「え?」
 いぶかりながら歩いているところで声をかけられて、ミューラーは振り向 いた。肉屋の主人のザーツスがにこにことこちらを見ている。やめたと言っ て自慢していたパイプをくわえて、しかも姉ちゃんがどうしたって?
「一人でお使いとはえらいぞ、デューター。そういえばおまえも秋には学校 じゃなかったっけなあ」
「ちょ、ちょっと、何言ってるんだ! 俺がなんで…」
 あせるミューラーにさらに追い討ちをかけるかのように、隣から丸顔の老 人が顔を出した。村でただ一軒の宿屋を兼ねた居酒屋のハンスじいさんだ。
「なんだ、デューターだったのか。相変わらず元気もんじゃなあ。小さいく せにあんな山の中から平気で下りて来るんだから」
 昨日は確かに白髪だった頭が赤毛に戻っているのを呆然と見つめながら、 ミューラーは思わず後退りした。
「ああ、そうだそうだ。ゆうべうちに客があってな。おまえの家のあたりの ことをあれこれ尋ねておったよ。山越えの道とかな。知り合いだったのか ね、あれは」
 しかし続くハンスじいさんの言葉がミューラーをはっとさせた。
「えらく立派な車だったなあ。でも車じゃ無理だって言ったら今朝早く出て 行ってな。どこかですれ違ったりしなかったかね?」
「……あ」
 ミューラーはその瞬間気づく。下りて来る途中で聞こえたあの音!
 二人の村人にくるりと背を向けて、ミューラーはいきなり今来た方向へ駆 け出した。
 頭の中が混乱する。
 どうなってるんだ。ここは何なんだ。あっちでもこっちでも俺を子供扱い なんかして、どうにかなってしまったのか?
 しかし今の気がかりはそれよりもあの男のことだった。彼があんなに恐れ ていた追っ手がすぐそこまで迫って来ているのだ。
 村はずれの橋のところで一度立ち止まる。道路をたどるならこのままだ が、ミューラーの家へはここから道を外れて土手沿いにしばらく進み、そこ から森へと入っていく。当然ここから先は徒歩のみ、である。
 追っ手はおそらくまだここでは道路を離れていないはずだ。行ける所まで 車で乗り入れるつもりで、森の端を周って行こうとしたに違いない。
 ミューラーはそう判断すると、最短距離となる徒歩のルートで家を目指し た。聞こえたあの音はエンジンの音に違いない。しかもその後完全に途絶え たということは、追っ手はそこで車を諦めて乗り捨てたのだ。
 あの時、もっとしっかり確認してさえいれば、追っ手に先回りされること もなかったはずだ。そう思うとミューラーは後悔に胸が痛んだ。
「あ、あれは…」
 家まであとわずか、というあたりで、ミューラーはその気配に目をみはっ た。鳥の群れが一斉に飛び立つのが見える。木立の向こうから激しい人の動 きが伝わってきた。
「やめろ!」
 駆け込んで行くと、若い男たちが数人、彼の家とその周囲を荒っぽく調べ 回っているところだった。ミューラーの声に揃って振り向く。
「俺の家に触るな! 帰れ!」
「なんだぁ、ここんちの奴か?」
 うちの一人が胡散臭そうにじろじろ見ながら近づいてきた。
「おまえ、シュナイダーの奴をどこに隠した。ここに来てたのはわかってん だ。奴はどこなんだ!」
 手を伸ばしてミューラーの腕を乱暴につかむ。が、次の瞬間、男は地面に 投げ出されて呆然としていた。ミューラーは軽く振り払っただけだったのだ が。
「こ、このガキ〜! 何するんだ!」
 まただ。
 ミューラーはうんざりしたように男を見返した。まさかここにいる全員が 俺を子供だと思ってるっていうのか。
「チビだからって許さねえぞ。正直に吐かないと、こっちも本気出すから な!」
 なるほど、油断さえしなければ勝てると言いたいらしい。しかしミューラ ーのほうは本気を出すつもりなどまったくなかった。追い払いさえできれば 相手に怪我までさせる気はないのだ。
 別の一人が飛び掛ってきたが、ミューラーのリーチのほうが当然長い。触 ることさえできずにやはり転がされてしまう。
 ここでミューラーはあることに気がついた。
 この男たちはあくまでミューラーを小さい子供だと思っているようだが、 そのくせ視線はちゃんと上に向けて、つまり2メートル近い身長に見合った 高さに上げて対している。つかまえようとする身体の動きと、頭でとらえて いる感覚と明らかにズレができているということだ。これではまともにケン カもできないだろう。
 ついには4人で一度にかかってきたが、ミューラーを押さえ込もうという つもりがこのため動きが思うにまかせず、しかも実際の体格の差から考えて も、これでは虫が身体にとまっている程度にしかならない。顔色一つ変えず に、ミューラーは彼らを払いのけた。
「おまえら、その子に手を出すな!」
 その時、頭上から声が響いた。
「大人が寄ってたかって、そんな小さな子に暴力をふるうなんて! 早くそ の子を放せ!」
 男たちとミューラーが見上げると、なんと樫の木の高い枝に男がいるでは ないか。
 暴力も何も、ミューラーには一切触ることもできずにいた状況がどう見え たのか、とにかくその危機を見過ごせない一心で隠れ場所から声を上げてし まったようだ。
――そんな足でよくそこまで登ったもんだ、おとなしく待ってると言ったく せに…。
 呆れるミューラーだけを残して、男たちはドタバタと木の下に駆けつけて 行った。
「おいっ、シュナイダー! とっとと下りて来い!」
「あんたらがおとなしく帰ってくれたらもちろん下りるさ」
 男は座っている枝から足をぶらぶらさせながら余裕で下を見下ろしてい る。
「ふざけるな! 交渉権はまだウチにあるんだからな。逃げ回って時間切れ を狙おうったってそうはさせないぜ」
「クラブとエージェントの間で決めた、本人の意思を無視した交渉権ね。こ っちにも選ぶ自由はあると思うぞ」
 4人の男たちは顔を見合わせてうなづき合い、うちの一人が幹に飛びつい た。下りる気がないなら迎えに行く、というつもりらしい。
「こら、諦めて下りろってんだ。行き止まりなんだ、逃げられないぞ」
「どうかな」
 男は追っ手が登って来たのとは反対側の枝にくるりと移った。かなり高い 場所なので、枝もあまり太くない。二人分の重みで木全体が大きく揺れて、 何やら気味悪い軋み音まで聞こえ始めた。
「それ以上は登るな、折れるぞ!」
 ミューラーは思わず叫んだ。追っ手の男はしかし腕を伸ばして、自分のす ぐ上の枝にいる男の足をついにつかんでしまう。ミューラーはとっさに男た ちを押しのけて木の側に駆け寄った。
「危ない!」
「おい、ガキは引っ込んでろ。邪魔するな」
「……デューター!?」
 下でももめているのが聞こえたのだろう、男が覗き込もうとした。それと 同時に足を引っ張られ、瞬間、ふわりとバランスが崩れる。
「うわぁあああ!」
 地上から5メートルはある枝先から、男の声が宙に響いた。地上の男たち も思わず絶句する。
「シュナイダー!!」
 大きな衝撃音が地面を揺るがした。男たちが血相を変えて駆け寄って来 る。
「やっちまったか…?」
「……おい、な、なんだ?」
 男たちがそこに見たものは、地面に倒れている二人の男だった。巨大な体 の大男と、その腕に抱き止められた格好でぐったりしているもう一人。
「し、死んだのか…?」
「それより、誰なんだ、そいつ。いつここへ――」
 さっきまで一緒にいた子供が誰よりも先に飛び出して行ったのは彼らも見 ていた。しかし、そこにいたのは子供ではなく、突然降って湧いたとしか思 えない見知らぬ大男…。
「う、うわああ!」
 木から慌てて下りてきたもう一人も加えて男たちは走り出した。恐怖にか られた顔で、怪我人のことも役目も放り出して、斜面を転がるように逃げて 行く。
「………」
 しかしそんな連中のことは気にも留めずに、ミューラーは静かに体を起こ した。そして胸に抱えた男をじっと見つめる。間一髪受け止められたもの の、この高さだ。打ち所によっては危険な状態になっているかもしれない。
 注意しながら草の上に静かに男を下ろし、ミューラーは樫の梢を一度見上 げた。それで心を決めたように再び男に向き直るとその額に手をそっと当て た。
 前にもこんなことがあった。
 ミューラーは思い出す。――何度もあったはずなのだ。
 学校の前で車にはねられていた猫。
 通常4匹で生まれるノウサギの5番目の仔。
 隣人の部屋で枯れかけていた鉢植えのゼラニウム。
 そして、チームメイトのシュテルン。
 特別な力だと思ったことはない。助かる命は絶対助かるのだと、そう信じ るだけでいい。彼はいつもそう思っていた。その信じる力を、触れることで 相手に伝えるのだと。
 横たわる男はまったく動かない。顔の色は蒼白なままである。ミューラー は手をかざしたまま目を閉じた。
 目を閉じると、今自分の上に枝を伸ばしている樫の姿が浮かんできた。故 郷の山で何十年も、何百年も根を張り葉を繁らせている大木。ミューラーを 見守り育んでくれた山の自然の象徴のように、いつも彼に力を送り込んでく れるのがこの木だった。
 生きる力が、彼の手を通じてそのまま相手に注がれていく。そんな感覚が ミューラーに勇気を与えた。
 ゆっくりと目を開く。
 空気がひんやりと湿って、朝の霧が地上近くまで下りて来ていることを教 えていた。森全体を包むその霧がすべての音を吸い取ったように、あたりは 静まり返っている。
「………」
 男が僅かに体を動かした。ミューラーは手を離してその顔を覗き込む。目 元がぴくっと動いて、意識が戻ろうとしているのがわかった。顔色もわずか だが赤みを帯びてきたようだ。
「……シュナイダー」
 ゆっくりと名前を呼ぶ。
 頭上でざわざわっと葉の揺れる音が重なった。






<< 1 | MENU | 3 >>