<V>
◆
「ずいぶん日に焼けてないか、おまえ」
「へへへ、地中海焼けさ。彼女と」
「くっそ〜! うらやまし過ぎ!」
オフ明けの少々ネジの弛んだ空気の中、バイエルン・ミュンヘンの選手た
ちは再び最前線に戻って来ていた。
「お、シュテルン。調子良さそうだな」
「ああ、チューンナップはしっかりしてきたぜ」
スパイクの紐を結びながらシュテルンは白い歯を見せる。と、その背後を
大きな影が通った。
「よう。ミューラー、どうだった田舎は?」
振り向いて今度はそちらに声をかけるシュテルンだった。
「おまえもリフレッシュが必要な時があるんだなあ」
「なんだ、それ」
隣で別の選手が笑う。ミューラーは足を止めて二人を見下ろした。無口で
も不機嫌なわけではないことは今ではよく知られていて、最初の頃のように
怯える者はいないようだ。
「……ずっと雨か霧ばかりだった」
「へえ、山だもんなあ。天気もそんなもんなんだ…」
休暇の感想が天気だけ、というのもいかにもミューラーらしい、とシュテ
ルンは思った。
「――選手でシュナイダーっての、他に知ってるか?」
「え…?」
それで話は終わるかと思って立ち上がりかけたシュテルンは、いきなりの
問いに驚いた顔をした。
「プロの選手で? うちにいたあいつじゃなく?」
「そうだ」
あんなふうにエージェントまで巻き込んだ移籍トラブルが起こるような選
手というなら、プロでそれもそこそこ名の知られた選手に間違いはない。ミ
ューラーはそう考えたのだ。
故郷の山で出会った不思議な男。
木から転落して気を失ったところを介抱して…。
男が意識を取り戻しそうになったその時、ミューラーは突然自分が別の所
に立っているのに気づいたのだ。――まるで夢から覚めたように。
気がつくと自分は樫の幹に手をついて立っていた。男が横たわっていた所
には何もなく、急いで調べて回った小屋の中にも外にも、男がいた痕跡すら
なかった。
そればかりか、再び村に下りてみた時、村人はいつもの彼らに戻ってい
て、ミューラーが問いただしても追っ手の男たちのことも何も知らないと言
うばかりだったのだ。
それとも、本当に夢だったのだろうか。
何かわかるかもしれないと思ったミューラーは、その後、町に住む姉のフ
リーダに尋ねてみたのだったが。
『ああ、山で迷って怪我してた人? 覚えてるわ。もう12年以上前のこと
になるかしら。あんたが学校に上がる前の話よ』
電話の向こうで、姉は意外なことを語り出した。
『少ししてからお礼にってあんたにボールを送ってきてくれたでしょ。忘れ
ちゃった? サッカー始めたのってあれからだったじゃない』
言われてみればボールのことは覚えていた。しかし、そんな男と本当に会
っただろうか。いくら思い出そうとしても、そこだけハサミで切り抜いたよ
うに記憶がない。
現在の俺が助けて、その礼が過去の俺に届いたとでも言うのだろうか。そ
れこそ夢みたいな話だ。まして、それがきっかけでサッカーを始めたという
のなら余計に。
「そうそう、シュナイダーって言えばさ」
その名前を聞きつけて誰かが声を上げた。見ると、同じユース代表のFW
マーガスだった。ミューラーに向かって手を振ってみせる。
「オフの間にあいつ見かけたぜ。ミュンヘンに来てたらしい。引越しの後始
末とか最後の手続きがいろいろあったんじゃないのか?」
「まあ、急な話だったからな。でもこれであいつも古巣に戻ったってわけだ
なぁ」
シュテルンが感慨深そうに頬をさすった。
つい先日電撃的な移籍を発表したカールハインツ・シュナイダーは、優勝
も決まったシーズンの残りわずかな期間をレンタル移籍という形であわただ
しくハンブルガーに移ってしまった。チーム合流は来シーズンという契約だ
ったのに、なぜそこまで急いだかは本人は多くを語らず不明なままである
が。
「親父さん、ってゆーか、シュナイダー監督も一緒になるんだよな」
「あの人もついにブンデスリーガ復帰か。流浪のサッカー人生ってやつだよ
な、つくづく」
「……」
一人でしみじみしているシュテルンの言葉を聞きながら、ミューラーはじ
っと考え込んでいた。
|