ゆりかごの森
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<V>









「ずいぶん日に焼けてないか、おまえ」
「へへへ、地中海焼けさ。彼女と」
「くっそ〜! うらやまし過ぎ!」
 オフ明けの少々ネジの弛んだ空気の中、バイエルン・ミュンヘンの選手た ちは再び最前線に戻って来ていた。
「お、シュテルン。調子良さそうだな」
「ああ、チューンナップはしっかりしてきたぜ」
 スパイクの紐を結びながらシュテルンは白い歯を見せる。と、その背後を 大きな影が通った。
「よう。ミューラー、どうだった田舎は?」
 振り向いて今度はそちらに声をかけるシュテルンだった。
「おまえもリフレッシュが必要な時があるんだなあ」
「なんだ、それ」
 隣で別の選手が笑う。ミューラーは足を止めて二人を見下ろした。無口で も不機嫌なわけではないことは今ではよく知られていて、最初の頃のように 怯える者はいないようだ。
「……ずっと雨か霧ばかりだった」
「へえ、山だもんなあ。天気もそんなもんなんだ…」
 休暇の感想が天気だけ、というのもいかにもミューラーらしい、とシュテ ルンは思った。
「――選手でシュナイダーっての、他に知ってるか?」
「え…?」
 それで話は終わるかと思って立ち上がりかけたシュテルンは、いきなりの 問いに驚いた顔をした。
「プロの選手で? うちにいたあいつじゃなく?」
「そうだ」
 あんなふうにエージェントまで巻き込んだ移籍トラブルが起こるような選 手というなら、プロでそれもそこそこ名の知られた選手に間違いはない。ミ ューラーはそう考えたのだ。
 故郷の山で出会った不思議な男。
 木から転落して気を失ったところを介抱して…。
 男が意識を取り戻しそうになったその時、ミューラーは突然自分が別の所 に立っているのに気づいたのだ。――まるで夢から覚めたように。
 気がつくと自分は樫の幹に手をついて立っていた。男が横たわっていた所 には何もなく、急いで調べて回った小屋の中にも外にも、男がいた痕跡すら なかった。
 そればかりか、再び村に下りてみた時、村人はいつもの彼らに戻ってい て、ミューラーが問いただしても追っ手の男たちのことも何も知らないと言 うばかりだったのだ。
 それとも、本当に夢だったのだろうか。
 何かわかるかもしれないと思ったミューラーは、その後、町に住む姉のフ リーダに尋ねてみたのだったが。
『ああ、山で迷って怪我してた人? 覚えてるわ。もう12年以上前のこと になるかしら。あんたが学校に上がる前の話よ』
 電話の向こうで、姉は意外なことを語り出した。
『少ししてからお礼にってあんたにボールを送ってきてくれたでしょ。忘れ ちゃった? サッカー始めたのってあれからだったじゃない』
 言われてみればボールのことは覚えていた。しかし、そんな男と本当に会 っただろうか。いくら思い出そうとしても、そこだけハサミで切り抜いたよ うに記憶がない。
 現在の俺が助けて、その礼が過去の俺に届いたとでも言うのだろうか。そ れこそ夢みたいな話だ。まして、それがきっかけでサッカーを始めたという のなら余計に。
「そうそう、シュナイダーって言えばさ」
 その名前を聞きつけて誰かが声を上げた。見ると、同じユース代表のFW マーガスだった。ミューラーに向かって手を振ってみせる。
「オフの間にあいつ見かけたぜ。ミュンヘンに来てたらしい。引越しの後始 末とか最後の手続きがいろいろあったんじゃないのか?」
「まあ、急な話だったからな。でもこれであいつも古巣に戻ったってわけだ なぁ」
 シュテルンが感慨深そうに頬をさすった。
 つい先日電撃的な移籍を発表したカールハインツ・シュナイダーは、優勝 も決まったシーズンの残りわずかな期間をレンタル移籍という形であわただ しくハンブルガーに移ってしまった。チーム合流は来シーズンという契約だ ったのに、なぜそこまで急いだかは本人は多くを語らず不明なままである が。
「親父さん、ってゆーか、シュナイダー監督も一緒になるんだよな」
「あの人もついにブンデスリーガ復帰か。流浪のサッカー人生ってやつだよ な、つくづく」
「……」
 一人でしみじみしているシュテルンの言葉を聞きながら、ミューラーはじ っと考え込んでいた。













「――おい! シュナイダー、戻るぞ」
「……」
 近づいて声を掛けてきたのは若林だった。
 フィールドの前でたった一人、ぼーっと立ったままのシュナイダーを、他 の選手たちは遠慮がちに見やりながら黙って通り過ぎて行く。触らぬ神に、 というわけではないが、出戻って来たこの注目選手にそうそう気安く声を掛 けられないらしい。遠慮しないのは同じユース世代のこの若林と、あとはカ ルツくらいだった。
「何をさっきから見てるんだが。早く上がれよ」
「……」
 じろりと若林を睨み返してから、シュナイダーはゆっくりと歩き始めた。 妹のマリーが見に来ていないかをチェックしていたという説もあるが、どち らにしても若林にそれを説明する気はないらしい。
「あっ、シュナイダーくん、ちょっと!」
「ほーら、やっぱりつかまった…」
 若林が口の中でつぶやいたが時すでに遅く、クラブ担当の雑誌記者が二人 に駆け寄って来てしまった。
「古巣に戻って来た感想はどう?」
 その古巣時代からの顔見知りである記者だけに、シュナイダーに対しても 世間話感覚で通せるようだ。
「…特に」
「なるほどねえ」
 それで納得してしまえる記者を感心して見下ろす若林であった。
「監督は君よりブランクが長いわけだけど。久々の現場に戸惑ったりとかそ ういうのはないのかな」
「さあ…」
 親子といってもそのへんは関知していないだろうことは、実は記者もちゃ んと心得ているようだった。シュナイダーの素っ気ない返事にもめげる様子 はない。
「コンディションは良さそうだね。君のお父さんは現役時代にずいぶん怪我 に泣かされたからなあ。君も気をつけるに越したことはないよ」
「そうですか…」
 反応しているのかいないのか判然としないシュナイダーから、その時記者 は少し遅れて歩いている若林に目を移した。いたずらっぽく苦笑してみせて から、また質問に戻る。
「泣かされるって言えば、君の今回の移籍で振り回されたあのクラブ、ずい ぶん泣かされたらしいね、噂だと。ほら、ワカバヤシが行く行かないのガセ だけでもダメージ大きかったわけだし」
「ああ、あれは父のリクエストです」
 そこだけさらりとシュナイダーが言ったので、メモの手を宙で止めたま ま、記者はぽかんとした。
『昔、現役最後のクラブに移る時に奴等にはほんとに世話になったからな。 たっぷり礼をしておこうってことさ』
 いつかそう話した時の父親はそれはもう楽しそうな口調だった。ニヤリと 笑ったその笑顔も含めて、シュナイダーはしっかりと覚えていた。
『危うく殺されそうになったこともあったんだからな。ま、俺のほうもずい ぶんいい加減な対応をしてたから、自業自得だったんだが』
 そしてシュナイダー氏は、その時に出会った『本物の恩人』にいつか会う のが夢だと息子に告げたのだった。
『あの時ちゃんと礼を言えずに別れたのが気になっててな。せっかく友人に なれたのに…』
 迎えに来てくれたチーム関係者に頼んでサッカーボールを礼代わりに置い てきただけで、直接会えなかったのが心残りらしい。
『――その、会った場所に行ってみればいいだろう』
『それがなあ、忘れちまったんだよ』
 一度行った場所でもわからなくなる、行こうとしても迷ってしまう――そ のへんは似た者親子と言うしかなかった。
「どうせならこそこそ戻るより、派手に演出したいってことかい?」
 記者はどうやら方向性に誤解があるようだが、シュナイダーはまた無関心 の殻に戻り、話もそれきりとなってしまった。
「だからって俺を復讐のダシにするのは今回限りにしてもらいたいな。こい つも、監督も…」
 その横で、若林が日本語で本音をつぶやいていた。














「ミューラー? 行くぞ」
 いつまでもじっと立ったままなのを不審に思ってシュテルンが背中をどん と叩く。
「あ、ああ」
 グラブケースを急いで取り上げ、ミューラーはその後を追って歩き出し た。
――いつかシュナイダーに会うことがあったら聞いてみようか。何か手掛か りを。
 彼は気づいていなかった。彼に力を与えてくれる故郷の自然。あの樫の木 が、その力が必要とされる場へ、時には時間をずらしても彼を送り込んでし まったということに。
 偶然ではなかった出会いは、偶然ではない再会をきっと生む。ミューラー は、そのことにもまだ気づいていない。
「あの、握手、いいですか…?」
 グラウンドに出る途中でファンに声を掛けられてミューラーは振り向い た。中学生くらいの少年たちがもじもじと手を出して見上げている。
「ん、どうしたんだ、ミューラー」
 サインに応じていたマーガスが不思議そうに顔を上げた。
――あの時、あの人はあんなにそーっと握手をしてくれた。
 小さい子供を驚かさないように。壊さないように。
――あの人にとって、俺は本当に小さい子供だったんだ。
 今、初めてミューラーはそう納得した。
 その小さい子供を友達だと言ってくれたことも、改めて嬉しく思い返す。 「礼は、俺のほうが言わないとな」
 大丈夫。それは絶対に叶うはず。たぶんそう遠くないうちに。
 ドイツも夏の盛り。ユース代表チームが召集されるのはもう間もなくのこ とだった。


【ENDE】






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あとがき
あくまでGKシリーズの中の設定で すので。話の流れは若林編「ウィズ アウト」の続きです。時間的に。
ミューラーはGKたちの中で唯一自 分の「力」がよくわかっていませ ん。仲間がいることもね