さて、若林はまた新たな試練を目の前にしていた。
「――ワカバヤシ、どういうことか、説明してもらおうか」
「いや、落ち着け、シュナイダー」
試合中以外ではめったに見せない青白い炎を背に、シュナイダーが迫る。それだけでも迫
力があるのに、タキシードで正装し、なおかつここはケルンの一流ホテルのロビーだった。
「マリーは無事に学校に戻ったんだし、もう細かいことはいいじゃないか。な?」
「無事だと?」
またぐいっとシュナイダーが顔を近づける。自分も正装した姿で、若林は周囲の好奇の目
にも耐えなければならなかった。どうしたところで、本国での知名度は高い彼らなのだ。
「あの家出は、友人のためにその恋人を奪還するためだった――おまえはそう言ったな」
「ああ、そうとも」
若林はちらりと背後を気にしながらまた一歩後ずさった。これ以上は下がれない。もうそ
こは壁際で、豪華なドレープのカーテンがあるだけなのだ。
「なら、なんであんな話が広まっているんだ。マリーはおまえ恋しさに家出して日本の合宿
所に押しかけた、なんて!」
「へ、変だなあ、俺は第一あの時はハンブルクにいたし、合宿所になんていなかったぞ」
「ワカバヤシ……」
シュナイダーの目にまたギラリと鋭い光が閃いたその時、若林の救いの神が現われた。翼
である。
「若林くん、何してるの、もうレセプション始まってるよ。ああ、シュナイダーも早く」
今朝ブラジルから大西洋を斜めに渡って来たばかりとは思えない元気さで手を振り回して
いる。さすがのシュナイダーも停戦に応じるしかなくなった。
「ねえ、若林くん、聞いた? 森崎だけ奥さん同伴なんだよ。少し遅れて来るんだって言っ
てたけど、俺、一度も会ったことないから楽しみだなあ」
「そ、そうか? 俺は春に会ってるからな…」
少しばかり不吉な予感が若林の胸に湧き始めていた。
「ボクも、楽しみだな」
「わあ、岬くん!」
レセプション会場の入り口で、翼の来るのを待っていた岬がにこにこと話に加わる。ちな
みに、日本メンバーは若干の例外を除いて、お揃いのブレザー姿だった。アウェーだからこ
んなもんだね。
「ボクもあの時はすっごい迷惑を受けたんだもんね。この間ちらっと見ただけだから、ちゃ
んと会っておきたいんだ」
ついでに文句も言うつもりかもしれないが、いくら岬でもあの奥さん相手では無理だろう
な、と若林はこっそりと考えた。
『おい、聞こえるか』
その時、若林の頭の中に不機嫌な声が聞こえてきた。
『俺は帰る。後は任せるからな。森崎をせいぜい守ってやるんだな』
『若島津! どうしたんだ、おまえ、さっきまでいたじゃないか』
『しづ姉が来るなんて聞いていなかったぞ。俺はこれ以上巻き込まれるのはお断りだ。あの
時だって…』
マリーとベルンハルトに同乗して駅までやって来た若島津は、しかしそこで待ち受けてい
た最後の追跡者たちとずいぶん派手にやりあってしまった。一般人相手につい本気になりそ
うになった…と、若島津は後でかなり落ち込んだのだ。
『あれはおまえのせいじゃないだろう、おまえを花嫁と勘違いなんかした連中が悪いんだか
ら』
『――言うな!』
もし、本当にそうだったら、ありえない三角関係の駆け落ちである。気がつかないほうが
悪いとも言えるし、よりによって若島津の一番触れられたくない部分に――つまりは逆鱗に
触れてしまったのが不運だったとも言える。
『とにかく俺は今度こそ自分のための予知をしたんだ。絶対に帰る!』
ぶちっ、と音さえ出そうな剣幕で若島津の言葉はそれきり途絶えてしまった。
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