イン・パラダイス
KEEPERS ON THE RUN 外伝:森崎編






第7章 レセプションパーティ





 さて、若林はまた新たな試練を目の前にしていた。
「――ワカバヤシ、どういうことか、説明してもらおうか」
「いや、落ち着け、シュナイダー」
 試合中以外ではめったに見せない青白い炎を背に、シュナイダーが迫る。それだけでも迫 力があるのに、タキシードで正装し、なおかつここはケルンの一流ホテルのロビーだった。 「マリーは無事に学校に戻ったんだし、もう細かいことはいいじゃないか。な?」
「無事だと?」
 またぐいっとシュナイダーが顔を近づける。自分も正装した姿で、若林は周囲の好奇の目 にも耐えなければならなかった。どうしたところで、本国での知名度は高い彼らなのだ。
「あの家出は、友人のためにその恋人を奪還するためだった――おまえはそう言ったな」
「ああ、そうとも」
 若林はちらりと背後を気にしながらまた一歩後ずさった。これ以上は下がれない。もうそ こは壁際で、豪華なドレープのカーテンがあるだけなのだ。
「なら、なんであんな話が広まっているんだ。マリーはおまえ恋しさに家出して日本の合宿 所に押しかけた、なんて!」
「へ、変だなあ、俺は第一あの時はハンブルクにいたし、合宿所になんていなかったぞ」
「ワカバヤシ……」
 シュナイダーの目にまたギラリと鋭い光が閃いたその時、若林の救いの神が現われた。翼 である。
「若林くん、何してるの、もうレセプション始まってるよ。ああ、シュナイダーも早く」
 今朝ブラジルから大西洋を斜めに渡って来たばかりとは思えない元気さで手を振り回して いる。さすがのシュナイダーも停戦に応じるしかなくなった。
「ねえ、若林くん、聞いた? 森崎だけ奥さん同伴なんだよ。少し遅れて来るんだって言っ てたけど、俺、一度も会ったことないから楽しみだなあ」
「そ、そうか? 俺は春に会ってるからな…」
 少しばかり不吉な予感が若林の胸に湧き始めていた。
「ボクも、楽しみだな」
「わあ、岬くん!」
 レセプション会場の入り口で、翼の来るのを待っていた岬がにこにこと話に加わる。ちな みに、日本メンバーは若干の例外を除いて、お揃いのブレザー姿だった。アウェーだからこ んなもんだね。
「ボクもあの時はすっごい迷惑を受けたんだもんね。この間ちらっと見ただけだから、ちゃ んと会っておきたいんだ」
 ついでに文句も言うつもりかもしれないが、いくら岬でもあの奥さん相手では無理だろう な、と若林はこっそりと考えた。
『おい、聞こえるか』
 その時、若林の頭の中に不機嫌な声が聞こえてきた。
『俺は帰る。後は任せるからな。森崎をせいぜい守ってやるんだな』
『若島津! どうしたんだ、おまえ、さっきまでいたじゃないか』
『しづ姉が来るなんて聞いていなかったぞ。俺はこれ以上巻き込まれるのはお断りだ。あの 時だって…』
 マリーとベルンハルトに同乗して駅までやって来た若島津は、しかしそこで待ち受けてい た最後の追跡者たちとずいぶん派手にやりあってしまった。一般人相手につい本気になりそ うになった…と、若島津は後でかなり落ち込んだのだ。
『あれはおまえのせいじゃないだろう、おまえを花嫁と勘違いなんかした連中が悪いんだか ら』
『――言うな!』
 もし、本当にそうだったら、ありえない三角関係の駆け落ちである。気がつかないほうが 悪いとも言えるし、よりによって若島津の一番触れられたくない部分に――つまりは逆鱗に 触れてしまったのが不運だったとも言える。
『とにかく俺は今度こそ自分のための予知をしたんだ。絶対に帰る!』
 ぶちっ、と音さえ出そうな剣幕で若島津の言葉はそれきり途絶えてしまった。
「若島津が予知? しかも自分のことを?」
 これまではいつも森崎の災難を予知するばかりで自分は一番貧乏くじを引いていた若島津 である。それが自分自身のことを予知したとなると、不吉な予感は予感で終わらないという 意味ではないだろうか。
 一度はスポンサーを降りると言っていた企業もそれを撤回し、大会は無事に始まることと なった。そのレセプション会場は、日本ユース代表チーム、同じくドイツユース、他にこの 大会に招かれている内外のクラブのユースチームの選手たちが集まって、なかなかに賑わっ ていた。地元の選手たちの中にはしっかり女性を同伴している者も少なくなく、あの長身F W、マーガスなどは自慢の婚約者を嬉しそうに紹介して回っていた。
「あ、森崎だ!」
 その人の波の中から目ざとく見つけて翼が手を振る。
「ねえ、奥さんて、まだ?」
「あ、さっき着いたところだよ。フランクフルトからだから遅くなったんだ」
「おい、森崎、ちょっと…」
 横からこっそりと若林が手招きした。
「若島津が帰っちまったぞ、何か予知したらしくてな。おまえ、心当たりはないか?」
「いいえ、何も」
 森崎は首を振った。
「そうか、若島津、気分でも悪かったのかな、しづさんと会えるチャンスだったのに…」
「うーん」
 若林は呆れたように肩を落とした。
「俺も考えたんだけどな、おまえ、自分の周波数を持ち始めてるんだと思うんだ。俺から一 方的に受けるだけじゃなく、な。だからあの時も通じなかったんだ。もう俺なしでこれだけ できるんだから――」
「そんなこと!」
 急に森崎の顔がこわばった。
「あの時、若林さんが手を貸してくれなかったら、俺、しづさんのところに行くことだって できませんでした。何にもできずに、オロオロしてただけだったんです!」
「あれはおまえが自分の力でやったんだぞ」
 若林はよほどそう言おうと思ったが、森崎のその表情を見て諦めることにした。自覚のな い以上、一気にプレッシャーをあたえることは危険かもしれないのだ。だから、若林はただ こう言った。
「嫁さんもできたことだし、おまえも早くコントロールを覚えないとな」
「そ、そうですね」
 その言葉をどう解釈したのか、森崎はなんだか赤くなった。
「あ、あれ…」
 離れたところからざわざわと声が上がった。思わず指を差しそうになって、はたかれてい るのは新田らしかった。
「森崎、あれが奥さん?」
 翼が目を真ん丸にした。
「うん、そうだよ」
 森崎がそう答えるより先に、しづさんはこちらに気がついたようだった。入り口からまっ すぐ森崎のほうへとやってくる。
 その周囲からすーっと人が下がって自然に道ができるのがすごかった。皆が目で追うの で、その道は通るとすぐに閉じられてしまう。
 長身に黒いイブニングドレス姿が、地味なようで迫力ある美しさを際立たせていた。メイ クもおとなしめで、アクセサリーと言えば胸元のチョーカーが目立つくらいである。しか し、それでもなおしづさんは目立っていた。
「誘ってくださってありがとう。遅くなってごめんなさい」
「大丈夫ですよ、まだ始まったばかりだし」
 その近寄りがたい美しさにもたぶん気づいていない、という平然とした様子で、森崎はし づさんを迎えた。
「翼、これがしづさんだよ」
「翼さん、はじめまして」
 しづさんに手を差し出されて、翼はぱっと反応した。
「あっ、こんばんは。はじめまして!」
 握手の後も、翼は自分の右手をじっと見つめていた。
「わーい、俺、一番に握手しちゃった」
 それを岬に見せびらかしてどうするというのだろう。
「こんな近くで見ると、心臓に悪いね」
「僕の心臓のことを心配してくれてるのかな、岬くん」
 日本チームの中の例外、タキシード姿でちゃっかり紹介の輪に加わっていた三杉が隣に立 った。岬はそれくらいでは驚かない。
「まさか。君の心臓は女性には免疫ができてるんでしょ?」
「いやいや、彼女は美しさの他に、強力なプラスアルファがあるだけにねえ」
 三杉も岬も、しづさんの横顔を黙って振り返った。さすがの翼も感心したように森崎にさ さやいている。
「森崎、よく平気だね」
「え、ああ、美人だろ?」
 普通は言わないこんな言葉も、この夫婦なら許されてしまうのだろうか。
 そして、そのプラスアルファが、じわじわと効果を現わし始めていた。
「ワカシマヅだ」
「あれ、ワカシマヅだ」
 さざ波のように、同じ思いが伝わっていく。
「胸のある若島津だよな!」
 言ってはいけないことをけろりと言ってしまったのは石崎だった。もちろん、次の瞬間に は側にいた南葛メンバーに抑えつけられていたが。
「ワカシマヅ!」
 さあ、一番厄介な男がやって来てしまった。そう、ドイツユース代表キャプテン、シュナ イダーである。
「また会えて嬉しいです、いつかのザバブルクの夜以来ですね」
「こんばんは、シュナイダーさん」
 にっこり受け答えするしづさんの前に、また別の厄介が割り込む。ドイツチーム一の色 男、シェスターである。
「それ、どういう意味、シュナイダー?」
「まったく、君だけ抜け駆けとは許せないな」
 ボルドーのピエールまで現われて、ちょっとした国際紛争になりかけた。
「まったく、もうあいつらと来たら…」
 少し離れたところで、若林はため息をついていた。
「今回はイタリアのチームが来てなくて助かったぜ、これであいつまでいたら…」
「やあ、ワカバヤシ、いいパーティだね」
「ヘルナンデス!?」
 絶妙のタイミングで立っていたのは、その若林ご指名の男であった。タキシードではない が、それなりのフォーマルで決めている。
「おまえのチームは招かれてないじゃないか! なんでここにいるんだ!」
「僕の姉夫婦はケルンに住んでるんだけど。それに、僕の情報網は完璧さっ」
 そう言ってしづさんのほうへと歩いて行くジノ・ヘルナンデスを見送って、若林は頭を抱 えた。
「森崎、おまえ、なんとかしろよ、あれ!」
「どうしてですか?」
 その人垣からはとっくに弾き出されていた森崎に詰め寄るものの、こちらの手応えはどう にも頼りなかった。
「レセプションパーティって、いろんな人と顔合わせするためのものなんですから、ドイツ 語のできるしづさんのほうがいいんだと思いますけど」
「そうじゃない、そうじゃないんだ…」
 若林は密かに若島津を恨んだ。なるほど、彼がこの事態を予知していたなら、さっさと帰 ったのもうなづける。
「ねー、女の健ちゃんだろ? だから俺がそう言ったじゃん」
 なぜか威張っている反町の声がする。と、思ったら、のっそりと日向が近づいてきて森崎 の隣に立った。
「よお、しづさん、相変わらずみたいだな」
「うん」
 明和時代から何かと顔を合わせていた日向には、しづ姉については今さら驚くほどのこと ではないのだろう。
「なあ、森崎、なんで若島津は帰っちまったんだ?」
「さあ、気分が悪かったとか?」
「だろうな」
 妙に納得しながら二人で並んでいる。珍しすぎる組み合わせに周囲のほうが少しびくつき 気味だ。しかしそれに反して、日向はなぜか上機嫌だった。
「おまえ、女を見る目があるぞ、森崎。感心したぜ」
「そ、そうかなあ」
 いっときの平和。
 これがもしそうなのだとしても、森崎は幸せだった。日向も満足だった。
 そして、もちろん、しづさんも。
 それ以外の人たちについては、多くは語らないことにしよう。






【 END 】










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COMMENT

登場人物の紹介は省きましたが、もし不明な ことがありましたら、シュガームーンをご参 照ください。しづさんとのなれそめ(?)が わかります。