イン・パラダイス
KEEPERS ON THE RUN 外伝:森崎編






第6章 礼拝堂ふたたび





『やっぱりおまえの言った通りだったよ、若島津』
「何がだ」
 疲れ切ったような若林の言葉に、若島津はこちらもおっくうそうに応じた。郵便配達車で の長旅が終わったばかりだったのだ。問題のオイレンベルク家の前で下ろしてもらって、窮 屈なシートと郵便屋の兄さんのおしゃべりからようやく解放された若島津は、全身のストレ ッチにかかる。
『さっき、ほんの少しだけ森崎と話ができたんだ。なんでも嫁さんと引き離されたとこだっ たらしくてな。急に周波数が合ったんだ、これが。ところが、嫁さんの話になった途端、ま た通じなくなってそれきりだ』
「で、それ以外に何がわかった?」
 若林の嘆きには関心を示さず、若島津は先を促した。
『聞いて驚くな。マリーの家出先はなんとここだったんだ。この家の結婚式を邪魔しに、は るばるやってきたって言うんだが。森崎たちはそれを手助けしようと追って来たらしい』
 若林の口調にまた別の戸惑いが加わったのを若島津は聞き逃さなかった。
「シュナイダーの妹と結婚式がどう関係あるんだ」
『いや、それが…恋人が無理に結婚させられることになって、そいつを奪い返しに来た、と か何とか――』
「恋人、ね…」
 若島津は肩をすくめる。こちらの嘆きにも興味はないらしい。
「郵便屋の噂話を延々聞き続けてな、ここのお家事情なんかもいろいろわかったぜ。先代の 当主が日系人なんだとか、ケルンに持ってる会社の後継者がどうなるかで最近もめてるんだ とか、な」
 会話は放置して、若島津はさっさと門から敷地内に入って行った。そこに、騒ぎが聞こえ てくる。車寄せ付近まで来たあたりだった。
「なんだ?」
 結婚式と聞いたばかりである。こういう騒々しい光景は場違いではないか…と、若島津は いつもの冷静すぎる目で眺めた。
 屋敷の前に停めてある車の前で、礼服姿の男たち数人が争っている様子だ。その側に見え る女の子は、あれは…?
 若島津はここでようやくその現場に近づいて行った。
「おい、ちょっと聞くが…」
 ハンドルの奪い合いをしているらしい男たちに向かって声をかける。しかも日本語で。も ちろん、彼らはぽかんと振り返った。
「あ、あなた、日本のチームの…」
 そんな中で顔を輝かせて反応したのはマリーだけだった。
「ゲンゾーの親友ね!」
「誰がだ!!」
 相手が女の子なのも一瞬忘れて若島津が声を上げる。しかし、怒鳴ると同時に、その勢い でこちらの男たちの一人に向かって蹴りを決めてみせた。
「お願い、助けて!」
 きれいな顔と裏腹のその過激さに目を丸くしながらマリーは叫ぶ。若島津は無表情のまま うなづいた。
「花婿略奪か。なるほど」
 ようやく奪い返した車に乗り込んでベルンハルトが車をスタートさせた時には、地面には さっきの男たちが全員転がされていた。
「す、すごいのね、あなた」
 助手席からマリーが振り返り、若島津を改めて見つめる。
「あんたもその若さで結婚式を襲うとは、兄さんとは似ていないようだな」
「そういうことじゃないの」
 マリーはちらりと隣の男に目をやってからまた向き直った。
「私はね、煮え切らないこのベルントの本音を聞くために来たのよ。本気で別の人と結婚す るつもりなのか、って」
「ごめんよ、マリー。僕が悪かったんだ。つい弱気になってしまって。大叔父がこっそり逃 げるように勧めてくれてたんだけど、カテリナの両親からもうちの親族にも反対されて、彼 女を幸せにできるのか自信がなくなってたんだ」
 マリーの視線に応じるように、それまで黙っていたベルンハルト君が口を開いた。若島津 のことも意識して、後半は英語での説明になる。
「ちょっと待て。何だそのカテリナって」
「私の親友よ。ベルントと恋人同士だったの。なのにこんなことになって、ショックで体ま で壊して実家にこもったままなのよね。もっともお父さんたちが許さないのも事実だけど」 「……」
 若島津は眉をしかめて黙り込んだ。
「どうも話が違うな。森崎たちはあんたが自分の恋人を追って来たんだと思ってるぞ」
「えっ、そうなの? それは全然違うわ」
 驚いた顔をしてから、マリーは考え込むように窓の外に目をやった。流れていくぶどう畑 の丘をじっと見つめている。
「私、家族と一緒に暮らせたら、っていつも思ってきたの。寄宿舎の友達はみんな戻って行 く家がある。でも私の家族は何年もバラバラのままで、帰る場所もないのよ。両親も、カー ルも、みんなそのことを悲しんでいて、そのくせどうにもならないって知っていて。…そん なのって悲しすぎる! 私、カテリナにそんな悲しい目にあってほしくなかっただけなの」 「親の反対を押し切って駆け落ちなんてしたら、やっぱり戻る所をなくすんじゃないの か?」
「違うわ。本当に愛する人と一緒なら、自分の新しい家庭になるんじゃない。家族になれる のよ、そこで」
「うーん」
 自分も長い間寄宿生をやって家族と離れて暮らす立場であるだけに、その少女らしい一途 な言葉に若島津は思わず苦笑する。
「そういうことなら、俺も協力するしかないな」
「え?」
「森崎のほうはやつら自身でなんとかするだろう。俺はこっちを守る役に徹することにする ぜ。――なあ、若林」
 日本語での独り言に怪訝そうにしていたマリーは最後の名前にちょっと目を見開いたが、 若島津はそのことには知らん顔をしていた。
 さて、若林の返答はどうだったか。
 もちろん、それを聞いたのは若島津だけだったのだが。







 オイレンベルク家の騒ぎは、次第に別の方向へ動き始めていた。追いかけて行く者たちと は別に、救護係まで必要になってきたのだ。
「聞こえる?」
 しづさんが耳を澄ませながら言った。
「怪我人がいるって、言ってるみたい。…でも、カンフーとかカラテとか聞こえるのよね。 変ねえ」
 まさか自分の弟のことを言っているのだとはしづさんも気がついていない。
「でも車の音がしてましたよ。車で追いかけるつもりかな」
「なら少なくともこの家からは逃げ出せたんだわ」
 しづさんの声は明るい。と、森崎が肩をたたいた。
「あ、しづさん、あれ…」
『もう大丈夫よ、出て来られるわ――そのまま通路の先へ下りて、抜け道を通っていらっし ゃい!』
 二人で耳を澄ませると、どこか遠いところから声が響いてくる。さっきの女性の声に間違 いない。
 闇の中、手探りで調べると物置の隅に地下へ続く石の階段が見つかった。声はこの先から 聞こえてくるのだ。
「気をつけて」
 しづさんをしっかり抱えながら、ひんやりとした空気の中を進む。先に光が見えたのは、 20メートルほど歩いたあたりだった。突き当たりにまた数段の階段があり、ようやく暗闇 から抜け出す。
「さあ、どうぞ」
「あれっ、ここって…?」
 床に作られた木の上げ扉を支えて出て来ると、そこにはさっきの若い女性が待ってくれて いた。
「まあ、礼拝堂…」
 しづさんも驚いたように見回す。その通り、あの騒ぎの最初の現場となった礼拝堂のその 祭壇の下に地下道は抜けていたのだ。
 今はがらんと、誰もいない。騒ぎの名残りの倒れた椅子などがそのままにされていた。
「暗くて大変だったでしょう。この抜け道はもうずっと使われてないから、きっとバレない と思って」
「あなたはどうして…?」
 問う森崎に、女性はにっこりと笑った。
「私はこの家で生まれ育ったんですもの、これくらいは知っているわ。昔、このあたり戦場 になって、この屋敷も軍に接収されたことがあるの。その時に密かに作らせたらしいわ」
「はあぁ、第二次大戦の頃の…」
 そんなに歴史のある抜け道だったとは。二人は感心するしかなかった。
「本当にありがとう、助けてくださって。でもどうして私たちを?」
「そのベール、私のだったのよ」
 しづさんの抱えている花嫁のベールを、女性は懐かしそうに見つめていた。
「私も使うはずだったの。でも結局、式は挙げられないままになって…。ただそのベールだ けは、この家に何代も前から伝わるものだから大切にしていたのよ」
「えっ、あなたの?」
 ドレスのほうはすっかりクモの巣まみれほこりまみれになってしまっていたが、しづさん が大事に抱えていたおかげでベールは無事だった。
「ありがとう、守ってくれて。そしてベルンハルトのためにがんばってくれて。お二人と も、感謝します」
 女性は優しいまなざしで二人を見つめた。そうして反対側の出口を指差す。
「この向こうは庭の一番目立たない所に通じてるから、そこを通っていらっしゃい。道路に 出られるわ」
「あのっ、このベール、お返しします!」
 正面の扉に向かおうとする女性に、しづさんが急いで駆け寄った。女性はちょっと驚いた ように振り向いたが、静かに首を振った。
「私はもういいの。またこの家に伝えられていって、幸せな結婚式で使ってもらえれば。今 日のような無理やりな結婚でなく、あなたたちみたいな二人のね」
「――エドナさん」
 ベールを持ったまま、しづさんはそう呼び掛けた。
 しかし、女性はまたにっこりと微笑むと、扉を開けて外へ出て行く。ちょうど正面に夕陽 がさして、扉が閉まる瞬間、女性の姿が明るい光に包まれたように見えた。
「しづさん、今の人は、まさか…」
 森崎が横に来て、閉じられた扉を見つめるしづさんに声をかけた。
「――私に、これをかぶる資格があるって。こんなニセ者のために、助けてくださったなん て…」
「しづさん?」
 ぽろっと涙がこぼれるのを見て、森崎はあわてた。
「あの時有三さんが、私のそばにずっとついてるって言ってくれたでしょう? 私、本当に 嬉しかった。なんだか勇気が湧いてきて」
 森崎ははっとする。では、自分が実体に戻ったのは、しづさんが強くそう願ったことで呼 び寄せられたからだったのだろうか。
「しづさんはニセ者じゃないです。本物の、俺の奥さんじゃないですか、資格なんて関係な いですよ! ――それにその姿、きれいでした、すごく」
 そうして少し困った顔でしづさんをまじまじと眺め直す。
「今頃言うとまずいかもしれないけど…」
「まあ、ほんと、今見ると大変ね」
 しづさんも改めて自分のくしゃくしゃになったドレス姿を見下ろす。そして二人は顔を見 合わせて笑い出した。
「おお、あんたたち…」
 そこへ、声が響いた。控え室のほうの入り口から、老人が現われたのだ。あのポインター 犬が側についている。
「どこを探してもわからんから、こいつを連れて来たんだ。まさかこことは」
 犬は老人に頭をなでられて尻尾を振っている。
「まあとにかく良かった。しかし、若い者はどいつもせっかちでいかん。私がちゃんと計画 していたのに、とんだ騒ぎになってしまったもんだ」
「すみません」
 ちょっと肩をすぼめて、二人は苦笑した。
「もっとも、古い者のほうが気が長すぎるのかも試練仮名。いっそこれくらいのほうがきれ いさっぱり諦められるというもんだ。私も連中も」
「諦めるって…」
「私はベルンハルトが一番幸せになれる道を見つけてやりたかった。女房のためにもな」
 不思議そうにする森崎に、老人はうなづいた。
「あの時、一族を敵に回して女房はがんばってくれた。でなければ私らは結婚さえできなか ったんだ。女房が生きていれば、同じようにあいつを助けただろうと私は思うよ」
「だから、おじいさんはこの家の人たちとは別に…」
「ああ、何が何でもうちの会社を任せようなんて気はなかった。ハンブルクに恋人がいると 聞いた時も、本気なら何をおいても結婚させてやろうと思ったが、あいつもふわふわ迷い続 けてな。まあ、尻をたたいて目を覚まさせるつもりもあって計画したんだ。それがこうなる とは思わなかったが」
 老人は自分に言い聞かせるかのようにそう言って、持っていたものを差し出した。
「さあ、お嬢さん、いや奥さんだったか、あんたの服を持って来たからその始末の悪いもの は着替えなさい。そのままでは逃げられんだろう」
「ありがとうございます。これを…」
 しづさんは、服を受け取って、代わりにベールを老人に渡す。
「大切なものだとお聞きしたので、お返しします」
「ああ、そうか」
 老人はベールを手に、目を細めた。
「この家の伝統だからな。――私たちは駆け落ち同然だったから式どころではなかったが」 「エドナさん…って」
 その二人の会話を聞きながら、森崎が思わずつぶやく。老人が振り向いた。
「ああ、私の女房だよ。この家の一人娘だった…。式の前にあんたの奥さんには話しておい たんだが」
「しづさん!」
 驚いた森崎が振り返ろうとして、しづさんの厳しい声を浴びてしまった。
「着替えてますから、そっちを向いててください。おじいさんも!」
「……」
 赤くなるほどのことでもないのだが。男二人肩を並べてこそこそと会話する。
「なあ、あんた、どうやって縄抜けをしたんだね? 結び目さえほどかずに残っていたから 驚いたぞ」
「あ、まあ、その…」
 森崎は続きでまた顔を赤らめる。
「縄抜けって、何ですか?」
 すばやく着替えを終えて、しづさんが戻って来た。
「いえ、あれは、もういいんです。――俺、なんとなくやっちゃっただけで」
「なんとなくでできる事ではないがな…。器用にも程があるぞ、あんた」
 老人は愉快そうに笑った。
「奥さんのほうも、そっちのほうが似合っておるな。あの衣装もなかなかだったが」
「そうでしょう?」
 しづさんは何を誉められるよりも嬉しい、というように最上の笑顔を見せた。半月後に、 系列会社主催の試合中継でこれと同じ姿のキーパーを見て驚くことになるとは、老人も思わ なかったようだが。
「さあ、あまりぐずぐずしてもおれんな。もう行きなさい。ベルンハルトに、しっかりやれ と伝えておいてくれ」
「はい、おじいさんもお元気で」
 しづさんが丁寧にお辞儀する。森崎も少しためらってから老人に言った。
「俺、もっと修行してうまくそばを打てるようになったら、おじいさんにもう一度食べてほ しいです。今度は『かえし』も用意して」
「そうか、それは楽しみだ。長生きせんとな」
 貴重な舌の持ち主は、そう言って嬉しそうにうなづいた。
「あ、おじいさん、あの時鳴った鐘のことなんですけれど」
 扉に手を掛けながら、しづさんが振り返る。
「ああ、あれも不思議だったな。鐘だったか何だったか、雷鳴のようだったと言う者もいた し、私はあんたと同じで鐘に聞こえたんだが…。ここの礼拝堂に鐘などないんだ」
「えっ?」
 森崎は目を丸くした。
「でも、あれのおかげで俺たちなんとか逃げられたし…」
「私、誰が鳴らしたのかわかる気がするの」
 老人に手を振って別れた後で、しづさんはぽつんとそう言った。










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