イン・パラダイス
KEEPERS ON THE RUN 外伝:森崎編






第5章 結婚式





 礼拝堂の正面に何人かが立っていた。おばさんはそこへ近づいて行く。礼服を着た男たち が数人。その中に一人、胸に花をつけた若い男がいる。花婿だ。ベルンハルト・オイレンベ ルク。顔色がよくない。
「やっぱり、こんな結婚は嫌なんだ。もっと早くなんとかできなかったのかなあ」
 森崎が見ていると、さっきのおばさんは花婿の付添い役の男たちと何かをやり取りしてい る。この後の指示か何かを確認に来たのかもしれない。
「そうだ、今のうちに…」
 結婚式のやり方はよくわからないが、確か教会のだと花嫁が後から入場して祭壇の前で花 婿が迎えるんじゃなかったっけ…と森崎はおぼろげな知識を引っぱり出しつつ、ドイツだし 宗派の違いとか家ごとのしきたりとかあるのかも、と頼りなく考える。
 とにかく、自分はその一団を追い越して勝手に礼拝堂内に入ってしまうことにする。そっ と横を通ったが、やはり誰も森崎に目を止める者はいなかった。幽霊状態であるのは間違い ないようだ。
「おやあ、あんなところに、マリーが」
 見渡すと、席についている20人ほどの親族たちは静かに式の開始を待っている様子だっ た。ふわーっと浮き上がってその頭上を越えながら、森崎は一人で隠れている女の子を発見 する。祭壇の脇、燭台の乗った台の陰に、靴の先が見えたのだ。
『マリー』
「えっ…!?」
 うずくまって身を潜めていたマリーが、ぴくっとする。
『動かなくていいよ。俺もしづさんを取り返しに来たんだ。俺が先に動くから、君はそのス キを利用するんだ。それまでは何もしちゃいけないよ』
 マリーはこくんとうなづいた。背後を振り返りたかったのだろうが、この状態ではじっと しているしかない。もっとももし振り返っても声の主の姿はそこにはないのだが。
 祭壇の反対側の脇に、黒い服の牧師が立っていた。落ち着いた顔つきで、手にした書類の ようなものを読んでいる。森崎は知らなかったが、これはお役所に届ける婚姻誓約書であっ た。提出後1週間、所定の場所に公開掲示され、その婚姻に異議を唱える者がいなければ無 事に受理される。しかし形式的な慣例とはいえ、そんなケースが本当にあるのだろうか。こ んなに異議だらけの結婚でも成立するなら、意味はないように思えるが。
「あ…」
 その牧師のさらに向こう、ステンドグラスの窓の下に、白いベールをすっぽりとかぶった 花嫁が座っていた。うつむいて何か祈っているようにも見えたが、顔が隠れていても森崎に はそれが誰だかもちろんわかった。
 そっと近づいて、椅子の背後に立つ。
『よかった、しづさん』
「有三さん?」
 森崎は心底驚いた。声は出していない。一人でそう考えただけだったのだ。動きかけたし づさんをあわてて止める。
『あの、今は動かないで、しづさん。見つかるといけないから』
「ええ」
 しづさんはそのまま姿勢は崩さず、組んでいた指をそっと組み直した。動揺は見せず、ご く小さな声で答える。
「来てくださってよかった。このまままさか神様に誓うわけにはいかないですもの」
『そ、そうですよね』
 森崎も声をひそめ、自分は深呼吸する。体がなくても、ドキドキはするらしい。
『マリーもここに来て隠れてます。俺たちがオトリになって二人を逃がしましょう』
「わかったわ。私のほうは大丈夫。あのおじいさんも安全は保証してくれてますから」
 ベールの下で、しづさんは少し微笑んだようだった。
「でも、有三さんがいてくれるなら一番安心。どこにいるの?」
『ここに。しづさんの側にずっといます』
 森崎はその言葉の証しに肩に触れられたら、と思ったが、体のない今はしかたがない。
「みなさん、ご起立ください」
 牧師が祭壇に立ち、よく通る声で言った。正面の扉が開き、立会人、介添え人と共に花婿 が入り口に立った。列席者たちがまばらに拍手をする。
 と、一番前の列からあの老人が立ち上がってしづさんの前に歩み寄った。
「さて、覚悟はいいですかな、お嬢さん」
「はい」
 しづさんは手をとられて椅子から立ち上がる。そうして祭壇の前、十字架の下に一人立っ た。ここで、花婿の入場を待つのだ。
 が、しづさんはいきなりそこでくるりと向きを変え、祭壇からこちら側に向き直った。列 席者たちがざわめく。
「私、結婚はできません」
 ベールの下から凛とした声が響いた。祭壇に向かって通路の途中まで進んでいた花婿とそ の一団が呆然と足を止める。
「私は、この人の妻だからです!」
「えっ……」
 すぐ横にいた森崎はどきっと身をすくませた。そう宣言したと同時に、しづさんが手を伸 ばして森崎の腕を取ったのだ。
「うわーっ!」
 礼拝堂内は大騒ぎになった。列席者はめいめいに叫び、牧師はへたり込み、花婿はただ立 ちすくむ。それを押しのけるように付き添いの男たちが祭壇の前に突進してきた。花嫁と、 そこにいきなり現われた見知らぬ男を囲もうとする。
「ベルント!」
 その止めようのない騒ぎの中でマリーの声が聞こえたように思ったが、森崎はしづさんを 自分の背後にかばうのが精一杯で、本当は何が起きたのか、それを考える余地はまったくな かった。
 その時である。
 礼拝堂の高い天井のそのはるか頭上から大きな大きな音が降ってきたのだ。鐘の音が、い くつもの和音を重ねて激しく鳴り響く。その場の全員が、一瞬動きを止めて凍りついてしま った。
「しづさん、逃げましょう!」
 森崎はぐいっとしづさんの手を引いた。目の端であの老人が脇のドアを示しているのを確 認して、ためらわずダッシュする。
「どうしちゃったんだ、俺」
 森崎はまだ混乱したままだった。確かにさっきまでは意識だけの存在で、誰にもその姿は 見えなかったのだ。若林の手を借りて、それができていたはずなのに。
「有三さん、ありがとう」
 振り向くと、しづさんがベールを跳ね上げて笑顔を見せていた。もちろん、森崎が見えて いる。走っている足が床を踏む感覚も、そして何より、腕ごと抱えているしづさんの感触も すべて実感だった。
「いったい、いつの間に…?」
 ドアを押し開いて続きの部屋に飛び込む。このかっこうで全力疾走は大変だろうに、しづ さんは息を乱すこともなくにこにこと落ち着いている。
「さっきの鐘、すごかったですね。あれで助かったんですけど」
「本当ね。ウェディングベルにしてはちょっと派手だったわ」
 閉めたドアがドンドンと叩かれるのを聞いて、二人はさらに奥に走り、そこの戸口から直 接庭に出る。さらに屋敷に向かって走って、玄関ホールらしき場所に駆け込んだ。
「もうこのドレスはいいわ。さっきの部屋に戻って着替えたいけれど――」
 しづさんは花嫁の控え室の場所を目で探したが、人の来る気配に気づいてまた二人でホー ルの奥へと方向を転じる。
「あっ!」
 森崎は急停止した。
 大きなホールクロックが置かれているその階段の下で、若い女性と鉢合わせしたのだ。青 い目を見開いて女性は二人を見たが、特に騒ぎ立てることもなく手招きをする。
「あなたたち、隠れるならここがいいわ」
「あ、はい…」
 彼女が指したのはその階段下に付いているドアである。二人は身をかがめて飛び込んだ。 「暗いけれど少し我慢していて。この奥は抜け道が作ってあるの。私が向こうに回って合図 するから、そうしたらそっちへ抜けてね」
 穏やかな口調でそう言うと、女性はドアを閉めた。確かに真っ暗になる。ずっと使ってい ないのか、澱んだような匂いがしている。
 森崎は外の物音に耳を澄ませた。廊下はもちろん、頭上の階段をドタドタと走る音が響 き、男たちの混乱した声が交差している。
「マリーも逃げられたみたい」
 その言葉を聞き取って、しづさんがささやいた。
「花婿と花嫁がそれぞれ奪われる結婚式なんて、めったにないでしょうね」
「笑い事じゃないですよ、もう、どうなるかと思った」
 くすくす笑い出したしづさんに、森崎はため息をつく。しかし、これは安堵のため息かも しれなかった。
「でも、花婿のほうはともかく、どうしてしづさんまでこんなにしつこく追って来るんでし ょうね。ニセ者なのに」
「それはね」
 しづさんは暗闇の中でうなづいた。
「私のこと、ニセ者だとわかっていないからよ」
「でもさっきあんなふうに…」
 堂々とニセ者宣言までしたのに。
「あのね、本物の花嫁なんて初めからいなかったのよ。一族の人たちが選んだ人は、あのお じいさんが直接事情を話して結婚自体を無しにしてもらってあったんですって」
「ええーっ?」
 森崎が驚くのは無理もない。
「マリーが来たことでその計画が狂ったんだって言ってね、ほら、親戚の人たちすっかり警 戒しちゃったでしょう。だからベルンハルトさんを逃がすために囮が必要になったって」
「それがしづさん…?」
 森崎はふーっと息をついた。あの老人は、若い後継者のために手を尽くそうとしてくれて いたのだ。そこに乱入する形になってしまったマリーや自分たちにその計画が邪魔されない ようにとっさに軌道修正したのだろう。
 自分を縛る時にすまないと何度も繰り返していた老人の声を森崎は思い出す。
「二人とも、無事に逃げ切れるといいけれど」
 しづさんはベールを外すと感慨深げに両手に大事に抱えた。
「でも、一人でマリーは心細かったでしょうね」
「でもないでしょう」
 森崎はあの時のマリーの表情を思い出してそう答えた。
「囚われの王子さまを救い出すだけあって、勇ましいお姫さまですよね」
「ふふふ」
 しづさんは並んで座る森崎の肩に、こつん、と頭を乗せた。
「少し見習わないといけないみたい。――ずっと私、臆病だったから」
「しづさん?」
 思いがけない言葉に、森崎は驚いた。
「私、わがままを通してこの国に来て、たくさんの人に迷惑をかけて――そして誰より有三 さんに申し訳なくて…」
「そんなことは…」
「いいえ」
 しづさんの頭がゆっくりと揺れた。
「私はそんな私が許せなくて、自信もなくしそうだった――私は有三さんに本当にふさわし い人間なんだろうか、って思ってきたの。今日会いに来たのも、それがつらくて、我慢でき なくなったからだったのよ」
 森崎ははっとした。悲しみの波長、不安定に揺れる感情の波。マリーの気配だとばかり思 っていたそれが、しづさんからあふれて来る。
 マリーの悲しみに共鳴を起こしたのは、しづさん自身が同じだけの、それともそれ以上の 悲しみを抱いていたから…? 
 どうしてもっと早く気づかなかったのか。しづさんは、ある意味で救いを求めていたとい うのに。
「ふさわしいかなんて――そんなこと言ったら、俺のほうがよっぽど駄目ですよ。しづさん は自信持ってください。しづさんがしづさんらしい夢を持っていてくれるのが俺には一番な んですから」
「――ええ、ありがとう」
 泣いているような、笑っているようなしづさんの声だった。
「大会がドイツであって、よかった。おかげで会えたんですもの」
「試合に出られなくても?」
 冗談半分、本気半分で森崎は言った。しづさんがぱっと頭を起こして闇の中まっすぐに顔 を見つめる。
「同じよ。有三さんは有三さんの夢を、でしょう?」
「そ、か」
 森崎は笑いかけて、ふと真面目な顔になった。
「夢って言えば、俺、これ実体なのかわかんないままだったんだ。確かにあの部屋で縛られ ちゃってて――。あの俺と、この俺と、どっちがどっちなんだろう…?」
「……?」
 独り言のようにつぶやく森崎を、しづさんは不思議そうに覗き込む。闇に目が慣れ始めて きたとは言え、表情まではほとんど見えないのだ。
「あの式の時、俺の腕に触りましたよね。俺、あそこにいたんですよね?」
「有三さん?」
 当然ではあるが、さっきからしづさんには森崎の言葉が理解できていない。
「えと、ちょっと試してみていいですか?」
「あ…」
 問い返そうとしたしづさんの声は沈黙にさえぎられた。わずかな時間ではあったが。
「あー、本物だ」 
 森崎はゆっくりとしづさんから離れると、そう言って嬉しそうに笑った。しづさんもつら れて笑い出す。
「そういう確認なら、いちいち私にきかなくてもいいのに。何度でもね」
「うわー」
 なんて調子で、追われている中も暗闇で待たされつつ全然困ることもなくいちゃついてい られる暢気な夫婦なのであった。










 | 戻る | 次のページへ→