森崎はまた一人にされてしまった。
ドイツの片田舎の旧家、オイレンベルク家。その屋敷は今、結婚式の日を迎えて静かな緊
張感に包まれている。
そしてその緊張感の別の一因に、招かれざる客である自分もなっているのだと、森崎はし
みじみ考えていた。
「でも、しづさんは取り返さないと!」
とりあえず、行動に移るしかない。
さっき台所を手伝った時に、こちらのダイニングとの鍵は外してある。台所からはおばさ
んたちは既に姿を消していた。素早く中庭に出て、マリー・シュナイダーの監禁されている
部屋に向かう。
「あのう、マリー?」
さっきと同じように、窓の下から声をかける。
「あ、はい!」
その窓からそーっと顔を覗かせたのはマリーだった。
「大丈夫?」
こちらが尋ねようとしたことを先に問われてしまって、森崎は思わず表情を緩めた。
「君も大丈夫みたいだね」
「あのね、ここの天窓から抜け出せそうなの。ただ、屋根から下りるのが…」
マリーはマリーなりに脱出方法を考えていたらしい。小さな天窓によじ登って屋根に出、
そこからそろそろと切妻の先まで下りて来る。あとは、最後の高さを克服するだけだった。
「いいよ、俺が受け止めるから、がんばって」
「――ありがとう」
森崎の手を借りて中庭に降り立つと、マリーはやっとほっとしたように笑った。
「あのお姉さん――奥さんは?」
「よく事情がわからないんだけど、ここの家のおじいさんが連れて行ってしまったんだ。
あ、でも…」
マリーの表情が曇りかけたので、森崎は急いで付け加えた。
「彼女は大丈夫。自分には何が危険で何が安全か、ちゃんと知ってる人だから。――それ
に、しづさんにもし何かあったら俺にはわかるんだ。すぐ駆け付けるよ」
「ふーん」
マリーは少し目を見開く。
「キーパーって自信過剰なくらいがちょうどいい、って聞いてたけど、ゲンゾーだけじゃな
かったのね。あなたもなんだか似ているみたい」
「えっ、俺と若林さんが? まさか! 似てるなんてありっこないよ」
森崎は思わぬ言葉にうろたえてしまう。マリーはちょっといたずらっぽい笑顔になった。
「わかってる。愛の力って言いたいんでしょ? あーあ、うらやましいなぁ」
「マリー!」
「しーっ…!」
思わず大きな声を上げそうになって二人で肩をひそめる。中庭から台所に戻り、誰もいな
いのを確かめて廊下へ出る。
「もう式が始まるんじゃないかなあ。きっとみんなそっちに行ってしまってるんだ。逃げる
なら、今だよ」
「逃げる? まさか」
マリーは胸を張った。
「このまま引き下がれないわ。もちろんベルントをハンブルクに連れて行くんだから」
「君一人で? それは無茶だよ」
「一人じゃないもの。ベルントと二人でしょ」
驚く森崎に、自分こそ自信たっぷりにめくばせする。
「もちろんベルントの気持ち次第よ。本気で他の人と結婚するつもりなのかどうか、それを
まず確かめるわ。その気がないなら一緒に逃げればいいし、逃げる気がないなら私はおとな
しく一人で学校に戻るだけよ」
「うーん」
森崎は考え込む。
要は花婿の争奪戦なのだから、失敗ならもちろん、成功しても命の危険があるような事態
は考えにくい。お家のため、と言って邪魔者を排除しようとはするだろうが、彼らにとって
もベルンハルト君は大切な後継者なのだから。
「おい、何をしておるんだね」
「あっ!」
誰もいないと思った背後から日本語が聞こえて、はっと振り向く。そこには礼服に着替え
た老人が呆然と立っていた。
「マリー、逃げて!」
「待ちなさい!」
追おうとする老人を体でブロックして、森崎はなんとかマリーの逃げ道を作る。
「しまった!」
老人の手が空をつかんだ。マリーは素早くその手をかいくぐって身をかわし、廊下の向こ
うへと走り去る。森崎は肩越しにそれを見送ってなんとか息をついた。同時に、老人のため
息も重なる。
「やれやれ、これでせっかく無事に行くと思ったのにな。苦労が絶えんな」
「すみません」
ここで謝ってしまう奇特な男を老人は驚いた顔で見直したが、結局また最初のダイニング
に逆戻りとなってしまった。
「あのそばといい、あんたは見た目より器用なようだからな、これ以上危ないことをしても
らわんようにしておくか」
椅子の一つに森崎を座らせ、後ろ手に椅子ごと縛ってしまう。
「すまんな、少しの辛抱だからな」
「あの、しづさんは無事なんでしょうね!」
そうして部屋を出て行こうとする老人に、森崎は声を上げた。老人は少し答えに詰まり、
それから笑ってみせる。
「ベルンハルトの花嫁をやってもらうことになったのでな。無事に済むことを私も願ってお
るが」
「そんな…」
結婚式は、そうして始まろうとしていた。
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