イン・パラダイス
KEEPERS ON THE RUN 外伝:森崎編






第4章 幽霊にできること





 森崎はまた一人にされてしまった。
 ドイツの片田舎の旧家、オイレンベルク家。その屋敷は今、結婚式の日を迎えて静かな緊 張感に包まれている。
 そしてその緊張感の別の一因に、招かれざる客である自分もなっているのだと、森崎はし みじみ考えていた。
「でも、しづさんは取り返さないと!」
 とりあえず、行動に移るしかない。
 さっき台所を手伝った時に、こちらのダイニングとの鍵は外してある。台所からはおばさ んたちは既に姿を消していた。素早く中庭に出て、マリー・シュナイダーの監禁されている 部屋に向かう。
「あのう、マリー?」
 さっきと同じように、窓の下から声をかける。
「あ、はい!」
 その窓からそーっと顔を覗かせたのはマリーだった。
「大丈夫?」
 こちらが尋ねようとしたことを先に問われてしまって、森崎は思わず表情を緩めた。
「君も大丈夫みたいだね」
「あのね、ここの天窓から抜け出せそうなの。ただ、屋根から下りるのが…」
 マリーはマリーなりに脱出方法を考えていたらしい。小さな天窓によじ登って屋根に出、 そこからそろそろと切妻の先まで下りて来る。あとは、最後の高さを克服するだけだった。 「いいよ、俺が受け止めるから、がんばって」
「――ありがとう」
 森崎の手を借りて中庭に降り立つと、マリーはやっとほっとしたように笑った。
「あのお姉さん――奥さんは?」
「よく事情がわからないんだけど、ここの家のおじいさんが連れて行ってしまったんだ。 あ、でも…」
 マリーの表情が曇りかけたので、森崎は急いで付け加えた。
「彼女は大丈夫。自分には何が危険で何が安全か、ちゃんと知ってる人だから。――それ に、しづさんにもし何かあったら俺にはわかるんだ。すぐ駆け付けるよ」
「ふーん」
 マリーは少し目を見開く。
「キーパーって自信過剰なくらいがちょうどいい、って聞いてたけど、ゲンゾーだけじゃな かったのね。あなたもなんだか似ているみたい」
「えっ、俺と若林さんが? まさか! 似てるなんてありっこないよ」
 森崎は思わぬ言葉にうろたえてしまう。マリーはちょっといたずらっぽい笑顔になった。 「わかってる。愛の力って言いたいんでしょ? あーあ、うらやましいなぁ」
「マリー!」
「しーっ…!」
 思わず大きな声を上げそうになって二人で肩をひそめる。中庭から台所に戻り、誰もいな いのを確かめて廊下へ出る。
「もう式が始まるんじゃないかなあ。きっとみんなそっちに行ってしまってるんだ。逃げる なら、今だよ」
「逃げる? まさか」
 マリーは胸を張った。
「このまま引き下がれないわ。もちろんベルントをハンブルクに連れて行くんだから」
「君一人で? それは無茶だよ」
「一人じゃないもの。ベルントと二人でしょ」
 驚く森崎に、自分こそ自信たっぷりにめくばせする。
「もちろんベルントの気持ち次第よ。本気で他の人と結婚するつもりなのかどうか、それを まず確かめるわ。その気がないなら一緒に逃げればいいし、逃げる気がないなら私はおとな しく一人で学校に戻るだけよ」
「うーん」
 森崎は考え込む。
 要は花婿の争奪戦なのだから、失敗ならもちろん、成功しても命の危険があるような事態 は考えにくい。お家のため、と言って邪魔者を排除しようとはするだろうが、彼らにとって もベルンハルト君は大切な後継者なのだから。
「おい、何をしておるんだね」
「あっ!」
 誰もいないと思った背後から日本語が聞こえて、はっと振り向く。そこには礼服に着替え た老人が呆然と立っていた。
「マリー、逃げて!」
「待ちなさい!」
 追おうとする老人を体でブロックして、森崎はなんとかマリーの逃げ道を作る。
「しまった!」
 老人の手が空をつかんだ。マリーは素早くその手をかいくぐって身をかわし、廊下の向こ うへと走り去る。森崎は肩越しにそれを見送ってなんとか息をついた。同時に、老人のため 息も重なる。
「やれやれ、これでせっかく無事に行くと思ったのにな。苦労が絶えんな」
「すみません」
 ここで謝ってしまう奇特な男を老人は驚いた顔で見直したが、結局また最初のダイニング に逆戻りとなってしまった。
「あのそばといい、あんたは見た目より器用なようだからな、これ以上危ないことをしても らわんようにしておくか」
 椅子の一つに森崎を座らせ、後ろ手に椅子ごと縛ってしまう。
「すまんな、少しの辛抱だからな」
「あの、しづさんは無事なんでしょうね!」
 そうして部屋を出て行こうとする老人に、森崎は声を上げた。老人は少し答えに詰まり、 それから笑ってみせる。
「ベルンハルトの花嫁をやってもらうことになったのでな。無事に済むことを私も願ってお るが」
「そんな…」
 結婚式は、そうして始まろうとしていた。







「なんだかなあ」
 自分でどんどん情けなくなる森崎だった。
「すごいのは自分のほうだよな、あんな大胆に行動できて、悲しいとかそういう次元でとど まってないもんなあ。女の子ってわかんないなあ」
 壁際にいるので、窓の外は首を動かしてやっと少し見えるだけだった。庭の木立ちの向こ うには、この家に来た時に見た農地がなだらかに続いている。自分が置かれている状況を忘 れてふとなごみそうになる。
「けど、自信過剰って。そうかなあ…」
 でも、さっきは本当にそう思った。しづさんの身に何かあれば、自分にはきっとわかる、 離れていても…と。
 森崎は戸惑う。なぜ、そんなことを思ったのか。マリーを安心させるための気休めなどで はなかった。確かに、自分でそう感じたのだ。
 そしてふと思い出す。しづさんに再会した時に感じたあの悲しみの波長。マリーを探しな がら手掛かりとした気配。なぜ自分にそんなことができたのだろう。
 若林さんもいないのに。――森崎はそう考えた。
「俺が若林さんと似てるなんて、それだけはないよ…」
 口の中でそうつぶやきかけた時、いきなり何かが頭の中で弾けた。
『……森崎!』
「あ!?」
 名前を呼ばれていることに気づいたのは、一瞬遅れてだった。
「若林さん!」
『森崎! おまえ、どうしてたんだ。ずっと呼び掛けてたんだぞ!』
 波長そのものが少し弱いような感じだったが、それは間違いなく若林だった。
「そうなんですか? 今初めて聞こえたんですけど」
『――やっぱりそうか。おまえの周波数がずっとズレてたようだな。なんで今、ぴったり合 ってるのかは知らんが』
「はあ…」
 若林の言わんとしていることはよくわからないものの、事態が切迫していることには間違 いなかった。
「しづさんが連れてかれちゃったんです。俺、探さないと…」
『おまえらどこにいるんだ、今!』
「オイレンベルクって人の家です。シュナイダーの妹を追いかけてここまで来たら…」
『なにっ、マリーが!?』
 若林の声が――正確には声ではないが、便宜上そう言っておく――跳ね上がった。
『どういうことだ、そいつは…。森崎、詳しく説明しろ!』
「なんでも恋人が無理やり結婚させられるのを止めに、ハンブルクから家出して来たみたい で」
『恋人が…?』
 若林が怪訝そうに繰り返す。が、森崎は急き込んだ。
「すみません、詳しく話している時間がないんです。早く行かないと、結婚式が始まってし まって、しづさんがどうなるか…」
『……なるほどな。原因はやっぱりそこか』
「はい?」
 若林と森崎の思考はどうもすれ違っているらしい。
『おまえもいよいよ独り立ちってわけか』
「何言ってんですか、俺、若林さんの助けが必要なんです! とにかく今すぐここから出な いと…」
『問題はそこなんだよな。俺に頼らなくても自分でコントロールさえできれば何だって可能 なはずなんだ――』
「若林さんっ!」
 独り言モードに入りかけている若林に、森崎は思わず本当に声まで出してしまった。若林 も気を取り直したらしい。
『よし、補助してやるから試してみろ。意識を集中して嫁さんの位置に同調するんだ。様子 を知りたいならな』
「あ、はい」
 集中とは言っても、具体的にどうすればいいのかわからず、森崎はとにかくしづさんのこ とを力いっぱい頭の中に呼び起こした。合宿所まで訪ねて来たしづさん。なぜか眠ってしま った時、側にいてくれた暖かな感触。偶然知り合ったマリーのために、必死になって追いか けて来たしづさん。
 今、どうしているのか、困ってはいないか、どうすれば助けられるのか、ただ祈るように 必死に考える。
『そう、あまり一気に行くな。…ゆっくり、ゆっくり――』
 わずかに若林の声が遠のく。ピントが、ゆっくりズレていくように。
「あれ…?」
 若林の声は既に聞こえなくなっていた。しん、と奇妙な静けさが周囲を包んでいる。森崎 はぎゅっと閉じていた目をそっと開いた。
「なんだ、これっ?」
 森崎がいたのは、ダイニングではなかった。それよりもう少し小さい部屋で、窓から陽が 射し込んでいる。
「俺、いつの間に。…えっ!」
 森崎は自分の手を見下ろそうとしてぎょっとした。
 手がない!
 いや、手だけでなく、体も、足もない。あわてて振り返ろうとして、自分がふわりと回転 した頼りない感覚に思い切り驚いてしまった。
「俺、体を残して、意識だけ出て来たんだ!」
 以前に一度、これと同じことを経験したことがあった。あの時は幽霊なんて言われたりも したけれど。後から考えると、夢だと思っていたことはすべて本当の経験だった。その時の 感覚が記憶から微かに蘇る。
「ええと、ええと、それならここは…」
 森崎はもう一度改めて部屋を観察する。そして、1つだけ見慣れたものを発見した。
 隅のテーブルに畳んで置かれている、それは森崎のトレーニングウェアの上下だった。し づさんが着ていたものだ。
「花嫁の控え室!」
 部屋は無人である。しづさんはもういない。とすれば、もう式に向かった後なのだ。
 あわててドアを開けようと近づいて、その途端にもう廊下に出ていた。そして思い出す。 あの時もそうだったことに。何にも邪魔されない代わりに、何にも触れられない。
 廊下は、台所のあるあたりとは様子が違っていた。年代物らしい調度品や肖像画などが柱 に沿ってずらりと並んでいる。
「あ!」
 足音が近づいて来て森崎はぎくりとした。柱の陰に身を隠してそっと覗く。急いだ様子で やって来るのは、台所で色々と指揮をしていたあのおばさんたちの一人だった。
 見えるかな、それとも見えないかな、と迷ったが、そっと隣に並んでみる。見えたならす ぐ逃げよう、と思ったのだが、おばさんはまったく気づかない。
「やっぱり、幽霊だぁ」
 ありがたいような悲しいような。
 廊下を左に折れて、ちょっとしたホールのような吹き抜けの下を過ぎる。その先に、不思 議に古びた木の扉があった。黒い重厚な金具で縁取られたその扉を、おばさんは押し開いて 出て行ってしまう。森崎は後について外に出た。
 建物を出たそこにあったのは礼拝堂だった。屋敷の裏手にあたるこちら側は下り斜面に段 差が作られており、木製の十字架が方推形の屋根にある、その上半分が見えていた。
 ヨーロッパの古い領主屋敷などでは、家族内だけで使う礼拝堂を持つことも珍しくない、 という話を思い出しながら、森崎はおばさんの背を追った。
 結婚式は、ここに違いない。










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