イン・パラダイス
KEEPERS ON THE RUN 外伝:森崎編






第3章 幻のそば





「あのおじいさん、遅いわね」
「ええ」
 案外あっさりと屋敷に入れたまではよかったのだが、肝心のマリーのことはまったくわか らないままである。この旧家の一員であるという日系の老人は、二人をこの部屋に残したま ままだ姿を見せない。
「結婚式の準備で家じゅう忙しいみたいだけど」
「それにしてもちょっと様子が変だな…」
 森崎は老人が出て行ったドアを調べて振り向いた。
「鍵がかかってます。自由に動いてほしくないみたいですよ」
「まあ、どうしましょう」
 実際のんきな夫婦であった。
「窓はこんな飾り枠があるから開いても出られないし」
「しづさん」
 森崎は少し耳を澄ませてから顔を上げた。
「隣は台所じゃないでしょうか。火を使ってる匂いもします。呼べば誰か応えてくれると思 うんですけど――俺じゃドイツ語できないから」
「わかったわ」
 しづさんはもう一つのドアに歩み寄ると顔を近づけた。
「すみません、ちょっとここ、お願いします!」
 すぐに返答はなかった。しかししづさんがもう一度同じことを繰り返しかけた時、錠前を 外す音がしていきなりドアが開いた。
「なんだね」
「あ、よかった」
 むっつりした顔でドアを引いていたのは白いエプロンをしたおばさんだった。こちらのダ イニングよりも広い台所がその背後に見え、数人のおばさんたちが野菜や吊るした肉やナイ フや食器を相手に必死な顔で格闘している。
「私もお手伝いします。やることがありますか?」
「ふーん、あんたご隠居の親戚かなんか? ま、いいわ。この通り時間がなくててんてこ舞 いしてんだ。こっち頼むよ」
「はい」
 しづさんはにっこりと森崎を手招きした。
「私の夫です。一緒にいいですか?」
「ああ、いいよ」
 しづさんはエプロンを借りてオーブンの番にまわり、森崎は材料や大鍋を運ぶ力仕事をす ることになった。
「イモをそこのカゴいっぱい持って来ておくれ。外の木箱にあるから」
 しづさんに通訳してもらって森崎は勝手口から中庭に出た。半地下になっている貯蔵用の 木箱から新じゃがをたっぷりとカゴに移す。
「あ……」
 その手が止まった。
「あの気配だ!」
 森崎は立ち上がってきょろきょろと見回した。
 切ない、締めつけられるような悲しみの感情が森崎の中に響いている。最初にしづさんを 仲立ちに感じたのとは比べものにならないくらいの強さだった。
「マリー?」
 低く名前を呼んでみる。波長が揺らいだのがわかる。
「そこにいるんですか?」
「――誰なの?」
「君を探してたんだ。マリー・シュナイダー?」
「ええ」
 森崎がそっと近寄った小さな窓は同じ中庭に面している。森崎が名前を呼ぶと、中からレ ースのカーテンが横に動いた。
 その隙間から覗いていたのは、歳は14、5才くらいの小柄な金髪の少女だった。
「俺、サッカーの日本ユースチームの選手です。君の兄さんや若林さんから君のことは聞い てるんだけど、今日、俺の奥さんが君と列車で一緒になったって聞いて」
「あなたの奥さんだったの? それにゲンゾーともチームメイト?」
 マリーは目を丸くした。兄と同年代で奥さん持ち、というのが驚きだったのか。しかし、 その話で少しほっとしたらしい。
「駅前でもめてたって聞いたんだけど、何かあった?」
「今日が結婚式だって言うから、言い合いになったの。招待者以外は列席できない、って。 ――こんな結婚式、壊してやりたい!」
 涙声にはなっていたが、マリーの目には悲しみというよりも怒りに近い色が浮かんでい た。
「あのお姉さんと話しているうちに、私、なんだか勇気が出てきたの。本当に心変わりして しまったのか、それとも無理に結婚させられるのか、せめてそれくらい本人に確かめようっ て」
「あ、あの、今閉じ込められてるんですか?」
 なんだかしづさんに聞いていた印象と違って、どんどん話が勇ましくなっていく。シュナ イダーに似ていると言うべきか、それともこの積極的な行動力を考えると似ていないのか。 「このまま結婚式には出させないつもりみたい。もう少ししたらなんとか抜け出して教会に 先回りしようかなって思ってたところよ」
「大丈夫かなあ…」
 どう答えていいのやら森崎は困ってしまった。
 マリーの決意が固いのはよくわかったが、だからと言って危ない真似はさせられない。
「詳しい事情はわからないけど、俺も奥さんも君を助けるつもりで追いかけて来たんだ。あ まり一人で無茶しちゃ駄目だよ」
「ありがとう」
 マリーがそう答えた時、すぐ近くで車が停まる音がした。ドアを閉める音が立て続けに 4、5回。
「招待客が着いたのかもしれないな。じゃ、ちょっと俺はこれで。また来るからね」
 森崎は急いで台所に戻った。すぐにしづさんに近づいて事情を話す。
「おとなしくしていれば危険じゃないってことね。でも、そうすると恋人はそのまま結婚式 を挙げてしまうわけだし…、どうしたらいいのかしら」
 結婚式のごちそう作りにかり出されたという近所の農家の奥さんたちが日本語を知らない のをいいことに、2人は堂々と危ない相談を続ける。しづさんはロースト肉に肉汁をかけな がら。そして森崎は野菜のみじん切りを続けながら。
「俺たちだって自由に動けないわけですからね」
「でもなんとかして彼女と合流しないと何もできないわ」
「――ん?」
 思わず包丁を持つ手が止まった。森崎はその時やっと周囲の目が自分に向けられているこ とに気づいたのである。ばれたのか、と一瞬ひやりとするが、おばさんたちは森崎と目が合 うとなぜかうなづいたりニコニコしたりするだけで、特に緊迫感はない。そのうちの一人が しづさんに何か声を掛けた。
「どうして野菜カッターを使わないのか、って言ってるわ」
「え、そんなのアリですか? それにこっちのほうが楽じゃないですか。このナイフもいい 研ぎしてるし」
 しづさんがドイツ語で伝えると、おばさんたちの間から感嘆の声が上がった。
「あのね、そんなに細かくできるなんて人間技じゃないって感心してるのよ。普通はカッタ ーかミキサーを使うらしいから」
「でもこれ、普通ですよ? 俺、あんまり得意なほうじゃないし」
 日本では普通のことも、国が違うといきなり天才扱いになる場合もあるということだろう か。
「――そうだ、有三さん、そばよ!」
「えっ?」
 いきなり元気よく手を打ったしづさんである。
「あのおじいさんがさっき言ってたでしょう、日本のおそばが食べたいって。有三さん、こ こで打ってあげたらどうかしら」
「それを手土産に交渉する、ってことですかぁ?」
 森崎は疑わしそうに台所を見渡した。
「第一、材料がありませんよ。そば粉はどうするんです」
「あら、ドイツにもそば粉はあるのよ。私、研究室で知り合った人に教えてもらったの。ク レープとかパンケーキに使うんですって」
「へえー、そうなんですか」
 しづさんはおばさんたちにそば粉のありかを尋ねていたが、ちょっとがっかりしたように 戻って来た。
「粉はないんですって。ほら、こういうのしか…」
 しづさんが掌を広げると、黒い殻をつけた三角の粒々が乗っている。いわゆる蕎麦の実だ った。
「へえー、おんなじだなあ。これでも大丈夫ですよ。挽けばいいんです」
 臼というわけにもいかないので色々交渉してコーヒーミルを最後の手段に使うことになっ た。一度挽いてふるいにかけ、もう一度挽く。これでなんとかそば粉らしくなった、と森崎 は嬉しそうだった。
「うちのは藪そばだから、これで十分。それに、このそば粉、すごく香りが強いんだ。こん ないい香りの粉は日本では手に入らないと思う」
 ジャージ姿でも気分はすっかりそば屋の職人になっているらしい。こね鉢や水洗い用のざ るは似た大きさのものを探して間に合わせることにし、なんとか道具を一通り揃え終わる と、いよいよ作業に入ることになった。
「おばさんたちの邪魔にならないようにしないとね」
 台所の隅を借りて森崎はまさに力仕事にかかった。
 粉に少しずつ水を合わせながらまんべんなく混ぜ合わせる。ぽろぽろとした状態になった ところで粘りのある生地にこね上げていく。指先から手へ、そして腕、と力の入れ方が段階 ごとに変化する。最後には全身を使って、見ているほうがつい力むほどの動きになった。
「すごいわねえ」
 おばさんたちが好奇心いっぱいになって横目で見守る中、15分ほどの時間をかけて大き な生地の塊が出来上がった。しづさんのほっとしたような声がかかったが、まだこれは行程 の最初。次は作業台に粉を振ってのし始める。借りた麺棒は太さが少し違ったもののさすが に用途が似ていると使い勝手は悪くない…と、森崎は笑顔を見せた。
「問題は包丁ですよね」
「これじゃ難しいの?」
「ま、なんとか」
 一番巾の広い肉切り包丁を代用に、たたんだ生地を細く切っていく。さすがの手さばき で、さっきおばさんたちの絶賛を受けた野菜以上の仕上がりだった。
 打ったそばを粉を振ったトレイに並べておいて、次は茹でる準備に入る。ここで森崎の表 情が厳しくなった。
「火力の調整ができないみたいだなあ、これは」
 ふだんから自分が店で担当しているのがこの茹で作業なだけに、妥協しづらいのかもしれ ない。しかし背に腹は代えられないということでガスを横で調整しながらそばを湯に落とし 始めた。
「まあ」
 少し下がってその様子を見ていたしずさんは、台所のドアからゆっくりとさっきの老人が 入って来たのを見て小さく声を上げた。だが森崎はまったく気づかず、長いサラダサーバー の柄を使ってそばを泳がせている。
「水をそこに張ってください。できるだけ冷たいのを」
「信じられんことをやっているな」
 老人の声に、森崎はようやくはっと顔を上げた。が、手は止めない。止めるわけにはいか ないのだ。
「茹で上がったのかね」
「ええ、あとは洗うだけですから」
 まず引き上げたそばに冷たい水を何杯も掛けて一気に温度を下げ、あとは洗い桶で丁寧に 洗ってぬめりを取る。これを指先で少しずつ取り分けて水切りざるに並べれば出来上がりと なる。
「驚いたよ、あんたたち。ほとんど本職だな」
「え、あの…、そうですか?」
 ほとんど本職、になってしまったのは森崎のせいではない。彼の父親が無理やり二足のわ らじを履かせ続けた結果なのだ。
「あの…、でもつゆだけはどうにもならなくて、そばだけなんです」
「私にふるまってくれるのかな」
「すみません」
 なぜ謝るのかよくわからないが、森崎は水を切り終えたそばを皿に持って作業台に置い た。
「香りがしたんだよ、ドアの外までな」
 老人はそのそばを感慨深げに見つめた。それから立ったまま指でそばをつまみ、箸でそう するかのように口に運んだ。
「ほう――」
 老人がするするっとそばをすすったのを見て、おばさんたちが腰を抜かしそうになってい た。そういう食べ方を見たことがないのだからしかたがないのだが、
「そばの味だ。これだよ」
 老人は何度もうなづいた。
「私の記憶もまんざらでないことがわかったよ。しかしこんな形で再現されるとは、まった く驚いた」
「残念なことですが――」
 森崎は老人の言葉に真面目な顔をした。
「今、日本ではあなたの記憶のそばはもうないと思います。戦争をはさんでそばの質ががら りと変わってしまったんだって、祖母は言っています。蕎麦を育てる土自体が変化したんで す。もう以前のような味は作りたくても作れないし、それにつれて味覚そのものがもう変質 してしまったんです」
「なるほどな」
 老人は手を伸ばして森崎の背を軽くたたいた。
「私の舌は外国に隔離されて奇跡的に残った過去の遺物というわけか。それも愉快なことか もしれん」
 老人はまさに愉快そうにもう一度皿に目を落とした。
「さあ、それなら3人でこれを食べるとしよう。貴重なそばをな」
「はい。俺もこんな経験は初めてですから、試食しておきます。コーヒーミルに感謝して」 「そうか。それはいい。はっはっは」
 老人はダイニングに再び二人を招き入れた。もちろん、そばを盛った皿も一緒に。
「サッカー選手は足技が勝負だろうに、そばまで打つとはたいしたものだな」
「俺、キーパーですから」
 冗談でも何でもなく、森崎はごく真面目に答えた。
 老人はにこにこしながら椅子を勧める。
「さっきは疑ってすまなかったな。一族の者がみな神経質になっておってな、今日の結婚式 に邪魔が入らぬようにと」
「そう、なんですか?」
 森崎はさっきのマリーの決意を聞いていただけにうまく相槌が打てなかったようだ。
「なに、体裁だけの結婚式だ、予定を早めて身内だけにしたのもそのせいだよ。オイレンベ ルク家の将来のためにな」
「それで、マリーは…」
 しづさんが穏やかに尋ねると、老人は意味ありげな視線を向けた。
「あの娘さんはもうしばらくここにいてもらう必要があるようだ。結婚式が始まるまで、皆 をこれ以上刺激せんように」
「どういう、意味です?」
 森崎の質問にはすぐに答えず、老人はまたそばを手につまんですすり込んだ。その目には いたずらっぽい光が浮かんでいる。
「子供の頃にこういうことをしては母親に叱られたもんだが、手で直接食べるというのはな かなかいいものだな。食べ物と自分の距離がなくなって、より『食べる』気分に近くなる」 「あの…」
 森崎がもう一度声を掛けると、老人は目を上げた。
「ベルンハルトは死んだ女房の甥の一人息子でな、オイレンベルク家本家の後継者として皆 の期待を集めているんだ。結婚も一族の認めた相手以外は認めず、そこらの女学生などとん でもない、というわけだ」
「そこらの、なんてひどいです」
 しづさんが憤慨する。老人は微笑んだ。
「私も、50年前、そこらの貧乏留学生だったんだよ。しかも東洋人だ。女房は同じように あれこれ反対されたに違いない。だが、結局はあれの勇気がものを言って私たちは一緒にな れた。あの勇気に、私は今も感謝しているんだ」
「そうだったんですか」
 森崎としづさんは顔を見合わせた。と、老人が席を立つ。
「そういうわけで、お嬢さん、あんたにはちょっと役に立ってもらいたい」
「はい?」
 いきなり手をつかまれてしづさんは目を丸くした。
「どうなさったんですか?」
 もちろん、振り払うのは簡単なことだったが、老人に力を振るうなどしづさんには思いも つかない。
「しづさんっ!?」
 森崎は、今度は一人で部屋に閉じ込められてしまったのだった。







「おまえはいいよな、高みの見物ばかりで。結局、現場で走り回るのはいつだって俺たちな んだ」
『それがこっちもなかなか平穏とはいかなくてな』
 森崎に何かあったら必ず連絡しろ、と常々言い続けている若林だが、今回は若島津のほう も不本意ながらそうせざるを得ない状況だった。
『シュナイダーの奴がいきなり押し掛けて来たかと思ったら今度はおまえだ。まったく、俺 は人生相談所じゃないんだからな』
「誰がおまえに人生相談なんぞ持ち込むか。いいから、もう一度森崎に呼び掛けてみてく れ」
 バスは1時間に1本しかないと聞かされ、若島津は町外れの橋のところで一人立ち往生し ていた。
 遠くハンブルクにいる若林との「会話」は、もちろん電話でも無線でもない。若林が持つ 強力なテレパシー能力に便乗して、森崎との緊急交信をしようというのだ。
『――駄目だ、やっぱり通じん。どうなってるんだ、同じドイツの中にいるんだから、遠す ぎるってことはないし…』
「もしこの昼間に熟睡してるとなると、別の危険が出て来るな」
『そういうことだ。春にああいうことがあったが、あれ以来特に変わったことは起きていな いようだし、少しはコントロールできるようになったと思ってたんだが』
「……」
 若島津は答える代わりに目を細めて周囲を見渡した。
 家並みが途切れたこのあたりから先はもう緑の野山が続くばかりで、手掛かりを探そうに もどうしようもないという感じだった。
『しかし人探しってのは楽じゃないな。シュナイダーのほうもやっぱり手掛かりがなくて弱 ってるんだ。まさかマリーにテレパシーを使うこともできんしな』
「マリー? シュナイダーの妹の?」
『ああ、昨日から行方不明になっていてな、あいついきなりミュンヘンからすっ飛んできた んだ。家出っつーか、学校の寮から無断で抜け出したらしい。親父さんたちはあと何年かは ドイツに戻らないし、あいつ、親代わりのつもりになってるからな』
「家出か。それはそれで大変だな。女の子なんだし」
『森崎も女連れなんだろ? あの…』
 若林もさすがに彼女が只者でないことを実感している。しかしそのことをこの若島津に向 かって口にするのはためらいがあるようだった。
「おまえは目撃してないだろうが、森崎はあの時、しづ姉とシンクロしてた。おまえのその 波長よりもっと強く、な」
『あの腕時計か…。どうやって日本から1万キロの距離を越えたのか、結局わからずじまい だったが。――おい、若島津、まさかおまえ、森崎が俺より女をとったって言いたいんじゃ ないだろうな』
「どういう表現だ、それは」
 若島津はその時、背後からエンジン音が近づいて来るのに気づいて振り向いた。
 町のほうからのんびりと道をやって来るのは青いバンである。ボディに大きなホルンの絵 がついている。郵便局の集配車だ。
「俺が言いたいのはな、俺たちが思ってる以上に、――それともあいつが自分で思ってる以 上にしづ姉の磁場は強いんじゃないかってことだ」
『同じ意味じゃないか』
「あいつがしづ姉と一緒にいる限り、別に何もトラブってなくてもおまえの声は届かないか もな」
『そ、それは…』
 否定したかったようだが、若林は否定しなかった。
「だからおまえはもう当てにしない。直接本人に聞く」
『若島津…!?』
 配達車はヒッチハイカーを見つけて親切にも止まってくれた。聞けばこの先、バスとほぼ 同じルートを周るらしい。
『おまえ、あまり逆上するなよ』
「――忠告ありがとうよ」
 シートに座った若島津がつぶやいた日本語がわからずに、郵便局員の兄さんはきょとんと しながらギアを引いたのだった。










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