「あのおじいさん、遅いわね」
「ええ」
案外あっさりと屋敷に入れたまではよかったのだが、肝心のマリーのことはまったくわか
らないままである。この旧家の一員であるという日系の老人は、二人をこの部屋に残したま
ままだ姿を見せない。
「結婚式の準備で家じゅう忙しいみたいだけど」
「それにしてもちょっと様子が変だな…」
森崎は老人が出て行ったドアを調べて振り向いた。
「鍵がかかってます。自由に動いてほしくないみたいですよ」
「まあ、どうしましょう」
実際のんきな夫婦であった。
「窓はこんな飾り枠があるから開いても出られないし」
「しづさん」
森崎は少し耳を澄ませてから顔を上げた。
「隣は台所じゃないでしょうか。火を使ってる匂いもします。呼べば誰か応えてくれると思
うんですけど――俺じゃドイツ語できないから」
「わかったわ」
しづさんはもう一つのドアに歩み寄ると顔を近づけた。
「すみません、ちょっとここ、お願いします!」
すぐに返答はなかった。しかししづさんがもう一度同じことを繰り返しかけた時、錠前を
外す音がしていきなりドアが開いた。
「なんだね」
「あ、よかった」
むっつりした顔でドアを引いていたのは白いエプロンをしたおばさんだった。こちらのダ
イニングよりも広い台所がその背後に見え、数人のおばさんたちが野菜や吊るした肉やナイ
フや食器を相手に必死な顔で格闘している。
「私もお手伝いします。やることがありますか?」
「ふーん、あんたご隠居の親戚かなんか? ま、いいわ。この通り時間がなくててんてこ舞
いしてんだ。こっち頼むよ」
「はい」
しづさんはにっこりと森崎を手招きした。
「私の夫です。一緒にいいですか?」
「ああ、いいよ」
しづさんはエプロンを借りてオーブンの番にまわり、森崎は材料や大鍋を運ぶ力仕事をす
ることになった。
「イモをそこのカゴいっぱい持って来ておくれ。外の木箱にあるから」
しづさんに通訳してもらって森崎は勝手口から中庭に出た。半地下になっている貯蔵用の
木箱から新じゃがをたっぷりとカゴに移す。
「あ……」
その手が止まった。
「あの気配だ!」
森崎は立ち上がってきょろきょろと見回した。
切ない、締めつけられるような悲しみの感情が森崎の中に響いている。最初にしづさんを
仲立ちに感じたのとは比べものにならないくらいの強さだった。
「マリー?」
低く名前を呼んでみる。波長が揺らいだのがわかる。
「そこにいるんですか?」
「――誰なの?」
「君を探してたんだ。マリー・シュナイダー?」
「ええ」
森崎がそっと近寄った小さな窓は同じ中庭に面している。森崎が名前を呼ぶと、中からレ
ースのカーテンが横に動いた。
その隙間から覗いていたのは、歳は14、5才くらいの小柄な金髪の少女だった。
「俺、サッカーの日本ユースチームの選手です。君の兄さんや若林さんから君のことは聞い
てるんだけど、今日、俺の奥さんが君と列車で一緒になったって聞いて」
「あなたの奥さんだったの? それにゲンゾーともチームメイト?」
マリーは目を丸くした。兄と同年代で奥さん持ち、というのが驚きだったのか。しかし、
その話で少しほっとしたらしい。
「駅前でもめてたって聞いたんだけど、何かあった?」
「今日が結婚式だって言うから、言い合いになったの。招待者以外は列席できない、って。
――こんな結婚式、壊してやりたい!」
涙声にはなっていたが、マリーの目には悲しみというよりも怒りに近い色が浮かんでい
た。
「あのお姉さんと話しているうちに、私、なんだか勇気が出てきたの。本当に心変わりして
しまったのか、それとも無理に結婚させられるのか、せめてそれくらい本人に確かめようっ
て」
「あ、あの、今閉じ込められてるんですか?」
なんだかしづさんに聞いていた印象と違って、どんどん話が勇ましくなっていく。シュナ
イダーに似ていると言うべきか、それともこの積極的な行動力を考えると似ていないのか。
「このまま結婚式には出させないつもりみたい。もう少ししたらなんとか抜け出して教会に
先回りしようかなって思ってたところよ」
「大丈夫かなあ…」
どう答えていいのやら森崎は困ってしまった。
マリーの決意が固いのはよくわかったが、だからと言って危ない真似はさせられない。
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