イン・パラダイス
KEEPERS ON THE RUN 外伝:森崎編






第2章 オイレンベルク家のご隠居





「シュナイダーさんの妹? あの子が?」
「たぶん、間違いないです」
 駅まで戻って来た二人は、さっそく聞き込みを始めた。ようやく日常会話に不自由しなく なってきたしづさんのドイツ語が駆使される。
「えっ、車に…!?」
「何かしきりに話し込んでいたみたいで、その後車に乗せられて行ったそうだから、誘拐と かそういうのではなさそうね」
「どっちへ行ったんだろう、その車」
「あのね、ケルンナンバーの立派な車だったそうだけど、草刈りをしていたおじさんの話だ とこのへんでは時々見かける車なんですって」
 ではその持ち主を訪ねて行けばいいのでは、と二人はバスを探すことになった。
「大丈夫なのかな…」
 森崎はつぶやきかけて、そしてぎくっとしたようにしづさんを振り返った。
 あの形のない悲しみが、したたるように強く響いてくる。この場所からではない。つない でいるしづさんの手からである。
 その手を、森崎は思わず力を込めて握り締めていた。
「どんな話をしましたか、電車の中で」
「そうね」
 そんな森崎の緊張を知るはずもなく、しづさんは乗り込んだバスの車窓を眺めながら、相 変わらずゆったりと首を傾げる。
「恋の話、とか」
「はあ」
「反対されて悩んでるうちに、相手のほうが姿を消してしまったそうよ。その後、結婚する 話を人づてに聞いて、それで思い余って追いかけてきたみたい…」
 うねるように続く丘陵地帯。その斜面を緑で埋め尽くしているのはブドウの木の列だっ た。棚には作らず、きちんと正確な線がその地形に沿ってどこまでも伸びている。この一帯 はワインの名産地なのである。
 バスは、峡谷の道路をぐるっと隣の駅まで結んでいた。マリーはおそらく偶然会ったしづ さんを頼るように、不安な心を抱いたまま一つ手前で一緒に降りたのだろう。このバスを利 用すればどちらの駅からも行けるのは確かだった。
「――ここですか」
 やがて二人が降り立ったのは、そんなブドウ畑に囲まれた川沿いの集落の一つだった。駅 前で教わった通りに、そこからは徒歩で問題の屋敷を目指す。
「このへんでも古い家柄の地主なんですって。ケルンのほうで大きな会社を持っていて、こ こは今一族の別宅って感じなんだそうよ」
「大きな家ですねー」
 門と呼べるようなものはなく、簡単な石塀が木立に埋もれながら道路を敷地内へと導いて いる。かつての馬車時代にはこれがいわゆる車寄せだったのだろう。
「中はまだずっと奥になってるなぁ」
「ここが、その恋人の実家ってことになるのかしら。すごいわねえ」
 二人して感心ばかりしていてもしかたがない。
「一応、正攻法で行ってみますか」
「そうね、受付があるといいんですけど」
 その車寄せから敷地へと入りかけた時、ちょうど中からシルバーの大型車が滑り出てき た。
「なんだね、君たちは」
 ウィンドウを下ろして顔を出した男は、じろじろと二人を睨みつけた。
「私たち、人を捜して伺ったんです。マリーっていう女の子なんですけれど…」
「そんな者はここにはいない。さあ、出て行きなさい」
 男の態度には有無を言わせぬ迫力があった。車が走り去った後も、二人は顔を見合わせる ばかりだった。
「車の中にはいなかったわね」
「でも、あの車がマリーを連れて来たのは確かですよ」
 森崎は気配をじっと確かめるように目を閉じた。
「まあ、どうしてわかったの?」
「い、いや、カンですけど…」
 しづさんには説明できない事情が少々ある森崎である。
「正攻法が通じないならしかたないわね」
「しづさん、どこへ行くんですか」
「裏口」
 そんなものがあるのだろうか。
 しかししづさんは思い切りよく道路から脇へとずんずん入って行き、農地と屋敷の境目に なっているらしい生垣をたどり始めた。
「あの、足元、気をつけてください」
 西に傾いた太陽の光から隠れるようにして、小さな赤い実をつけたヘイゼルの藪をくぐっ て行くうちに、二人はほどなく屋敷の裏手にやってきたようだった。木立の向こうに重厚な 造りの屋根が覗いている。
 左手斜面にはブドウ畑、正面には牧草地らしい緑の広々と開けた土地が続いている。とこ ろどころ畝に沿って植えられた低い木が影を落としていた。
「敷地との境目がよくわかりませんね、このあたり」
 もう少し進んだ所に小川が流れているのを見つけて、森崎は足を止めた。
「待って、何か来るみたい」
 しづさんが後ろから引っ張って、藪に隠れる。がさがさと草を踏む音を立ててそこに姿を 見せたのは犬だった。ぶち模様のポインター犬である。
「あんたたち、何をしているんだね」
「あ!」
 犬に続いて現われたのは、小柄な銀髪の老人だった。ステッキを手に、犬の側に立つ。
「おや、日本人かな?」
 老人は二人を見て、突然日本語で言った。
「は、はい。えーと、そうですけど」
「ふーむ」
 老人はあまり表情を変えずに森崎としづさんをまじまじと見つめた。深いしわの刻まれた 顔は、一見そうと気づかなかったものの、どうやら日本人らしい。
「観光客には見えんな。――泥棒にも見えん」
「私たち、ここのお宅に用があって参りました。でも、玄関から入れる用件ではないので、 裏口を探していたんです」
 しづさんの落ち着いた説明を聞いて、老人の目がわずかに光ったように見えた。老人はス テッキを高く上げると、屋敷のほうを指し示す。
「それならついて来なさい。裏口は私専用だ」
 こうして二人は、思いがけず問題の家に入ることになったのである。








「マリーという名前の女の子です。こちらのお宅に来ていると思うんですが」
 屋敷に招き入れられた二人は石の床の古風な部屋に通された。大きな木のテーブルが中央 に置かれた横長の部屋で、いくつも並んだ窓には白いシンプルなカーテンがかかっている。 これはダイニングルームらしい。
「そうかね。私は隠居の身でな、詳しいことは関わっておらんが、それは今日の結婚式の招 待客ではないのかね」
「今日が結婚式!?」
 二人は思わず目を合わせてしまった。恋人が今日結婚してしまうことを、マリーはもう知 らされてしまったのだろうか。
「ああ、夕方にここの教会で一族の跡取りが式を挙げることになっておる。ほとんど身内だ けで簡単に済ませることになってしまったらしいが」
「あのう、あなたはこの家の方なんですか」
 森崎は勧められた窓際のベンチに腰を下ろしてからおそるおそる尋ねた。この部屋は彼ら 3人だけだったが、屋敷の中はそう言えばなんとなく大勢の人間が忙しく動き回る気配がし ており、ドア越しにもあわただしい人声が聞こえてくる。
「日本人の私がこの家の隠居というのは不思議かな。私は大戦前からこの国に暮らしてこの 家の娘と結婚してな。もう40年ほども日本には帰っておらん。国籍もとっくにドイツ人だ よ。ケルンの会社の仕事を任されたりもしたが、女房が死んでからはもうすっぱりと引退し て田舎暮らしというわけだ」
 老人はダイニングの椅子に背筋を伸ばして座り、窓の外ののどかな風景に目を細めてい た。
「別に寂しいとは思わんよ。今さら日本に帰ってもなじめやせんし、その必要もない。ま あ、しいて言えば、あの味くらいかな。――神田の、『平八』の江戸そばだったかな。はっ はっは」
 老人はそこまで言って笑い出した。
「歳を取ると余計な記憶ばかり残ってしまうな。肝心かなめのことは端から忘れるくせに。
まったく」
「こちらにも日本料理の食べられる所は増えていますでしょう」
 しづさんはそんな老人を見ながら言葉をはさんだ。
「ああ、そうだな。ケルンにも日本料理店はけっこうあったが、あれはもっともらしく体裁 を整えただけの味ばかりに思えてな。記憶の味に勝るものはないというわけだよ」
「不思議ですね」
 森崎がぽつんと言った。
「そういうふうに何十年も覚えていてもらえる味は、幸せだと思います」
「あんたたちは…」
 森崎の言葉にちょっと驚いたように、老人は改めて二人を見つめた。
「それはそうと、観光客でも泥棒でもないなら何なんだね。まるでサッカーでも始めそうな 格好だが」
「もう始めてますわ」
 しづさんは嬉しそうに胸を張った。
「有三さんは日本のユース代表選手です。試合のためにこちらに来ているんです。私はフラ ンクフルトの大学で研究員をしています。まだ1年目ですけれど」
「妙な話だな…」
 老人はゆっくりと立ち上がった。
「それであんたたちが捜しているマリーとやらは、どういう関係なんだ?」
「知り合いです」
「ほう、知り合いか」
 森崎のあっさりした返事にこちらもあっさりうなづいて、それから老人はドアに手を掛け た。
「少しここで待っていなさい。家の者に確かめて来るから」
「はい、お願いします」
 二人は素直に頭を下げた。しかし、「少し」は少しではすまなかったのである。








「高杉ぃ、ミネラル・ウォーター買ったっけ?」
「ガスなし、のな。半ダース、OK」
 メモを見ながら高杉はうなづいた。小さい町なのでスーパーマーケットの類いはなく、個 人商店をメモを頼りに一軒ずつ回るわけだから買い出しも楽ではない。
「あとは駅前で英字新聞を買ったら終わり、だな」
「健ちゃんがそれ、行ったぜ、さっき」
 反町は段ボール箱を抱えたまま伸び上がった。
「じゃあ、俺たちは先にバス停に行くとするか。時間はまだ少し早いけどな」
「うあー、重い、重いよぉ!」
 わざと悲鳴を上げながら反町はさっさと先に歩き始めた。どう考えてもペットボトル6本 がある分だけ高杉の荷物のほうが重いはずなのだが。
「あれっ、あのバス…?」
 その反町が足を止めて振り返った。
「あれは俺たちのとは別の路線だよ、大丈夫」
「違う! 森崎なの! 森崎が乗ってたんだって。――それと、女の健ちゃんが」
「何だってえ!?」
 バス停の手前で二人は立ちすくむ。
「何をバカ言ってんだよ。そんなわけないだろう」
「だって〜」
「…何がだってだ?」
 反町の背後にいきなり大きな人影が立っていた。
「わぁああ!」
「今、なんか不吉なことを言ってなかったか、反町」
 両手に大きな荷物を下げたまま、若島津は根暗く顔を近づけてきた。
「あ、俺、おまえの生霊の話なんてしてないよ、ほんとだって!」
「なら、森崎が、どうしたんだ」
「女連れでバスに乗ってった。健ちゃんそっくりな女と」
 南葛組と違ってどうやら男女の区別だけは天性のカンと経験で嗅ぎ分けられるらしく、反 町は自信たっぷりに証言した。
「そんな…」
 高杉も不安そうにバスの去った方向に向き直る。森崎のことでは心配の種が尽きないとい うことなのだろう。
 若島津は一瞬険しい目つきになる。そして荷物を道路の上にどさっと勢いよく下ろした。 「一言言っておくが、森崎が結婚した相手については俺は何の責任もないしアフターケアも したくないんだ。だがな、これだけは間違えるな。俺としづ姉は断じて似ていない! いい な!」
 メンデルの法則に沿って言えば、剛さんは母親似、健くんは父親似、しづさんは両方に似 てみのりちゃんはどちらにも似ていない――ということになる不思議な4兄弟姉妹である。 しかしなぜかこういう被害を集中的に浴びてしまう巡り合わせらしく、若島津のトラウマは 深かった。
「健ちゃん? どこ行くんだよー」
「森崎を追っかける。――荷物はおまえらで先に持って帰ってくれ」
「おい、無茶だよ、そんな…」
 ずんずんずんと地響きをたてかねない勢いで歩み去って行く若島津に、高杉は困惑した声 を上げた。
「久し振りに会った新婚さんのジャマしちゃダメだよ!」
 反町の声に若島津の歩調が瞬間乱れたように見えたが、なんとか持ち直してそのままどん どん遠ざかる。
「まさかこれって、マジで三角関係なんてことないよな」
「高杉ぃ、それ、コワすぎ…!」
 反町は両頬に手を当てて後ずさってみせた。
「――でも、どっちがどう三角?」
 人の噂も七十五日、ではすまないようだった。








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