穏やかな風が森をぬって吹き過ぎていく午後、合宿所に一人の訪問者があった。
ここはドイツ中西部のプファルツ地方のとある町。教会と広場を中心にしたささやかな市
街から数キロ離れた丘陵地に、緑のグラウンドが何面も広がっている。
はるばる日本からやってきたユース代表チームは、ヨーロッパ各地を転戦しながらその過
密スケジュールのほぼ半分を消化していた。この町では調整を兼ねて約5日間の合宿が組ま
れている。
「こんにちは」
いきなりまっとうな日本語で挨拶されて、ボールケージを運んでいた面々は振り返った。
「おわ!」
「ここ、サッカーの合宿所、ですよね」
クラブハウスへと続く車寄せの道に、女性が立っていた。すらりとした長身にストレート
な黒髪、そしておっとりと穏やかながら研ぎ澄まされた空気を漂わせる表情――それらすべ
てをひっくるめて「美人」と形容してしまえたら彼らも幸せだったのだが、しかし、問題が
一つだけあった。
その顔が、彼らのチームメイトの一人と酷似していたのだ。
「――若島津!?」
「はい?」
こくん、と首を傾げるしぐさはさすがに同僚GKとはちょっとギャップがあって、ここで
ようやく冷静さが50%くらい戻ってくる。
「森崎の、ほら、奥さんだよ」
「あ! そ、そうか…」
南葛メンバーが含まれていなかったのは幸いだったかもしれない。一応情報は正確なよう
だ。
松山と、次藤と佐野と、沢田くんと、そして立花兄は、互いに眼を見交わしてから問題の
美女に向き直る。
「えと、森崎さんに会いに?」
「はい」
先輩たちに押し出されるようにして質問した沢田タケシくんに、しづさんはにっこりと笑
顔を返した。沢田くんは瞬時に固まってしまう。なにしろ長年同じチームで世話になってき
た若島津だけに、その外見上の違いは彼が一番冷静に判断できたのだが、同時に類似性も誰
よりもわかってしまうのだった。しかたなく松山が引き継ぐ。
「今、練習が終わったとこなんで、たぶん中にいると思いますよ。こっちへ、どうぞ」
「どうもありがとう」
先に立って松山はクラブハウスを示す。ボールは足元にごろごろと散らばったままだが、
いや、もちろんお客さんが優先だ。
「あっ、松山さん、上っ!!」
「ふせろタイ!」
だ――っ!
佐野と次藤の叫びはほんの一瞬の差で手遅れとなった。
「な、何すんだぁー!」
「すまんすまん! えっ…う、うわー!!」
ちょうど建物の入り口のひさしに差しかかるその場所に、真上の2階の窓からバケツ一杯
の水が落ちて来たのだ。それをまともにかぶった客人がワンピースの裾からぽたぽたとしず
くを落としているのを見て、その場にいた選手たちは一同真っ青になってしまった。
「早く、拭かないと…!」
「タオル、タオル!」
あわてふためいて駆けずり回る選手たちと対照的に、しづさんは実に落ち着いていた。
「すみません、上でふざけてたらしくて…」
「いいえ、大丈夫」
無事だった松山がぺこりと頭を下げると、しづさんは持っていたバッグを渡してにっこり
した。
「でも服が乾くまで何か貸していただけます? 有三さんのでいいですから」
「う、…はい!」
松山はまっしぐらに駆け出して行った。
「森崎はどこだ? 早く呼んで来いって!」
「若島津でもいいんじゃねーの?」
何もそうあわてることはないのだが、なにしろ弱冠18才にしてメンバーの中の唯一の妻
帯者である。これがよりによって森崎なのが問題だった。普段はまったく目立たない存在な
だけに、そのギャップが拡大化してしまうのだ。
「若島津はさっき出てったばかりだよ、今日の買い出し隊でさー」
「じゃあ、日向もか?」
「いや、日向はさっきから監督に呼ばれて行ったきりだ。三杉と一緒に。なんか日程の変更
があるとかでさ」
松山がつかんで来た着替えを受け取ってしづさんが中に消えた後も、彼らの同様はなかな
か治まらないようだった。
「なあ、佐野、おまえ見たとか?」
「はい」
ようやく我に返ってボールを片付け始めた次藤と佐野は、もう一度エントランスの事故現
場をちらっと見やった。
「一度よけたのに、松山さんを引っ張るために戻って自分が水を浴びちゃったんです、あの
人」
「一瞬の間にな…。信じられん反射神経タイ」
互いにこの話はこれきり胸にしまっておこうと決心した二人だった。
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