イン・パラダイス
KEEPERS ON THE RUN 外伝:森崎編
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06.10.21 完結






第1章 ドイツ・プファルツ地方





 穏やかな風が森をぬって吹き過ぎていく午後、合宿所に一人の訪問者があった。
 ここはドイツ中西部のプファルツ地方のとある町。教会と広場を中心にしたささやかな市 街から数キロ離れた丘陵地に、緑のグラウンドが何面も広がっている。
 はるばる日本からやってきたユース代表チームは、ヨーロッパ各地を転戦しながらその過 密スケジュールのほぼ半分を消化していた。この町では調整を兼ねて約5日間の合宿が組ま れている。
「こんにちは」
 いきなりまっとうな日本語で挨拶されて、ボールケージを運んでいた面々は振り返った。 「おわ!」
「ここ、サッカーの合宿所、ですよね」
 クラブハウスへと続く車寄せの道に、女性が立っていた。すらりとした長身にストレート な黒髪、そしておっとりと穏やかながら研ぎ澄まされた空気を漂わせる表情――それらすべ てをひっくるめて「美人」と形容してしまえたら彼らも幸せだったのだが、しかし、問題が 一つだけあった。
 その顔が、彼らのチームメイトの一人と酷似していたのだ。
「――若島津!?」
「はい?」
 こくん、と首を傾げるしぐさはさすがに同僚GKとはちょっとギャップがあって、ここで ようやく冷静さが50%くらい戻ってくる。
「森崎の、ほら、奥さんだよ」
「あ! そ、そうか…」
 南葛メンバーが含まれていなかったのは幸いだったかもしれない。一応情報は正確なよう だ。
 松山と、次藤と佐野と、沢田くんと、そして立花兄は、互いに眼を見交わしてから問題の 美女に向き直る。
「えと、森崎さんに会いに?」
「はい」
 先輩たちに押し出されるようにして質問した沢田タケシくんに、しづさんはにっこりと笑 顔を返した。沢田くんは瞬時に固まってしまう。なにしろ長年同じチームで世話になってき た若島津だけに、その外見上の違いは彼が一番冷静に判断できたのだが、同時に類似性も誰 よりもわかってしまうのだった。しかたなく松山が引き継ぐ。
「今、練習が終わったとこなんで、たぶん中にいると思いますよ。こっちへ、どうぞ」
「どうもありがとう」
 先に立って松山はクラブハウスを示す。ボールは足元にごろごろと散らばったままだが、 いや、もちろんお客さんが優先だ。
「あっ、松山さん、上っ!!」
「ふせろタイ!」
 だ――っ!
 佐野と次藤の叫びはほんの一瞬の差で手遅れとなった。
「な、何すんだぁー!」
「すまんすまん! えっ…う、うわー!!」
 ちょうど建物の入り口のひさしに差しかかるその場所に、真上の2階の窓からバケツ一杯 の水が落ちて来たのだ。それをまともにかぶった客人がワンピースの裾からぽたぽたとしず くを落としているのを見て、その場にいた選手たちは一同真っ青になってしまった。
「早く、拭かないと…!」
「タオル、タオル!」
 あわてふためいて駆けずり回る選手たちと対照的に、しづさんは実に落ち着いていた。
「すみません、上でふざけてたらしくて…」
「いいえ、大丈夫」
 無事だった松山がぺこりと頭を下げると、しづさんは持っていたバッグを渡してにっこり した。
「でも服が乾くまで何か貸していただけます? 有三さんのでいいですから」
「う、…はい!」
 松山はまっしぐらに駆け出して行った。
「森崎はどこだ? 早く呼んで来いって!」
「若島津でもいいんじゃねーの?」
 何もそうあわてることはないのだが、なにしろ弱冠18才にしてメンバーの中の唯一の妻 帯者である。これがよりによって森崎なのが問題だった。普段はまったく目立たない存在な だけに、そのギャップが拡大化してしまうのだ。
「若島津はさっき出てったばかりだよ、今日の買い出し隊でさー」
「じゃあ、日向もか?」
「いや、日向はさっきから監督に呼ばれて行ったきりだ。三杉と一緒に。なんか日程の変更 があるとかでさ」
 松山がつかんで来た着替えを受け取ってしづさんが中に消えた後も、彼らの同様はなかな か治まらないようだった。
「なあ、佐野、おまえ見たとか?」
「はい」
 ようやく我に返ってボールを片付け始めた次藤と佐野は、もう一度エントランスの事故現 場をちらっと見やった。
「一度よけたのに、松山さんを引っ張るために戻って自分が水を浴びちゃったんです、あの 人」
「一瞬の間にな…。信じられん反射神経タイ」
 互いにこの話はこれきり胸にしまっておこうと決心した二人だった。







「森崎! 森崎、あそこだよ!」
「あ、ほんとだ」
 騒ぎからずいぶん経ってから森崎は見つかった。クラブハウス裏手の用具倉庫で、なかな か来ないボールを一人で待っていたらしい。呑気な。
 それをようやく引っ張って来た立花弟は、森崎にしづさんの姿を示すが早いか、さっと逃 げてしまった。一体何を怖がっているんだか。
 とにかく、森崎は芝生の上に座っているしづさんを見てまっしぐらに走って行った。
「大丈夫ですか、濡れたって…!」
「ええ」
 しづさんの両肩をがしっとつかまえて森崎は息を切らせる。
「これ、着替えを貸してもらったし、髪は今ひなたぼっこしてますから。――有三さん?」 「……あ」
 話の途中で森崎の体がぐらりと揺れた。しづさんの肩ににつかまったまま、前のめりに倒 れ込む。
「あらあら」
 ぐー。
 なんと森崎は奥さんに数ヵ月ぶりに再会したとたん、眠りこけてしまっていたのだった。







「う、なんと大胆な真似を…!」
 こちらでは一瞬凍ったように静まり返った。
「ひ、膝枕だあ? ちきしょー」
「だーっ、ええなぁ、森崎のやつ」
 確かに、この遠さではそう見るしかなかったかもしれない。が、それ以前にまだショック の余韻が支配していた。
 なにしろ彼らのほとんどがそれまで奥さんをナマで見たことがない。電撃結婚だった上に 単身赴任で即別居だったのだからそれも無理はないのだが、そのくせその顔に見覚えがある あたり、問題は深かった。
「美人は確かに美人だよなぁ。でも…」
「――これって、まずくねえか?」
「う、うーん」
 廊下の窓にぎっしりと貼り付いた野次馬たちは、ため息をつくばかりだった。
「松山ぁ、よりによってあんな着替えを持ってくんなよ」
「しょうがねえだろ、とっさだったし部屋は鍵がかかってっからロッカーのユニフォームし かなかったんだ」
 遠目に見ると確かに新婚の夫婦という風情ではない。森崎はジャージ姿、そして奥さんは 練習用のキーパーウェアを着ているのだ。少しゆるめではあるが、女性としてはかなり長身 のしづさんがこのユニフォームを着て、しかも濡れてちょっとばさばさになった髪を背に流 しているその姿は――誰もはっきり口に出そうとはしなかったが――このチームのキーパー 2人がくっついているようにしか見えなかったのである。
「……あんまり小次郎には見せたくない光景だね」
「どうかしたのかい、岬くん」
 窓の人垣の一番外周部から遠慮がちに見ていた岬だが、いきなり背後から近づいた声にぴ くん、とこわばった。
「それにこんな所で、みんなして何をしてるんだい?」
「うわ、日向だ!」
 三杉はともかく、その後ろから現われた人影を振り返って南葛組が青ざめた。
「見ろよ、三杉。あれが森崎の奥さんだぜ」
「――なるほど」
 その緊迫した空気に気づいていないのか、振り向いた松山が元気よく窓の外を指差す。三 杉はうなづいた。
「微笑ましい光景だね」
 もちろん三杉も直接会ったことはない。ないのだが、この春の若島津駆け落ち事件で不本 意ながら彼も当事者の一人だったのだ。森崎があんな騒ぎを巻き起こして結婚した相手か… という感慨は深かったことだろう。
「ひゅ、日向、あのな――」
「………」
 こちらでは南葛組が冷汗を流している。必死に事態をなだめようとしているのだろうが、 誤解と思い込みが渦巻く中、これは逆効果を生みつつあった。
 日向は選手たちがかじりついている窓をちらっと眺めやっただけで、油のように沈黙して いる。
「奥さんが、会いに来たんだ、さっき。そしたら石崎と滝が早田とバケツでふざけてて、あ の人の服を濡らしちゃったんだよ…」
 一応客観的に、岬が説明を始める。しかし日向はじろりと目を上げただけだった。
「三杉、あれ、連絡しとけ」
「ああ、そうだね」
 日向に促されて、三杉は持っていたファイルから書類を引き出した。
「今、監督から聞いたんだが、このあとの日程で組まれていたドイツでのユースとの試合が ちょっと危なくなってきたんだ。スポンサーになっていた日系企業が急に手を引いてしまっ てね。まあ、詳しいことは近々わかると思うから、一応そのつもりでいてくれたまえ」
「買い出しの連中には後でおまえら言っておけよ。それと――あいつにもな」
 日向は背を向ける前に、顎で指すようにして鋭い視線を窓の外に投げた。
「あのね、小次郎、森崎は別に…」
「ああ? 俺だってあの姉ちゃんの区別くらいできるぞ」
 子供の頃から顔なじみなのだ、一応。
「そ、そう。そうだよね」
「――でも、面白くねえ」
 わーん!
 いったん肩から緊張が抜けかけた野次馬たちは再び嵐の中に突き落とされた。
 こういう時の日向は、敵チームより味方チームにとって脅威となる。試合はもう残り全部 中止でも構わない…とこっそり考えた者も一部いたようであった。







 遠くからゆったりと漂って来るものがある。
 それは具体的な形を持たず、表わすための言葉もなく、透明なメロディのように、または 微かな香りのように自分を包み込む。
 それとも、切ない、悲しみのように。
「――あ、俺?」
「はい」
 森崎は自分のすぐ上から覗き込んでいるしづさんの顔を見て、真っ赤になって跳ね起き た。
「ごごご、ごめんっ!」
「もっと眠ってらして構わないのに。まだ1分くらいしかたってないし」
 森崎は周囲を見回した。自分のいる場所、そして状況を思い出す。
「練習、大変なのね。こんなに疲れてしまうなんて」
「う、ーんと」
 森崎は頭をかいた。ちょっと、違う気はする。
「わざわざ来てくれたのに、すみません」
「フランクフルトからはそう遠くないですもの」
 しづさんは並んで座り直した森崎に微笑みかけた。
「野森教授がこのあいだ一時帰国した時にユース代表の特集記事を見つけたって届けてくだ さったのよ。ドイツでの日程も載っていたの」
「ああ、それで」
 外野の騒ぎにはまったく気づかず、いや、気にするつもりもなく、二人はのどかに近況を 伝え合う。
 フランクフルトの大学で恩師と共に研究生活を続けているしづさんは、充実した毎日を送 っているようだった。
「本当は試合を見に行けたらよかったんだけれど、どうしても今日しか出て来られなくて」 「そんな…。会えただけで嬉しいですよ。俺も、会えたらって思ってたから」
 ちょっと照れた森崎を、しづさんはやはりにこにこにこと見つけ続ける。ああ、やってら んない。
 二人で見つめ合ったそのタイミングで、森崎の表情が動いた。
 さっきの夢がふっと蘇ってくる。何か引っ掛かるものがある。いつかどこかで覚えのある あの感覚…。
「その、いきなりなんだけど、しづさん、ここに来る途中で何かなかったですか? えー と、何か、悲しい出来事とか」
「悲しい…? いいえ、何も。――あ、でもそう言えば、あの子」
 しづさんはちょっと眉を曇らせた。
「女の子が泣いていたの。列車の中で一緒になっただけなんだけど、何か、家出らしくて。 思い詰めてたわ」
「家出…」
 森崎はもう一度考え込んだ。
 別の誰かの悲しみが、あんなふうに伝わるなんて。たまたま隣り合わせた少女の悲しみを しづさんが運んで来たのだろうか。
「マリーって名前だったわ。マリー・シュナイダーとか」
「えっ!?」
 しづさんの言葉に、森崎は目を丸くした。
「金髪のかわいい子よ。歳は14、5才くらいで、そうそう、ハンブルクの寄宿学校の生徒 らしいわ」
 こうなると、よくある名前だし…とは言っていられない。
「その子とはそれきり?」
「同じ駅で降りたのよ。本当はもう一つ先の駅なんだって最初は言ってたんだけど、なんだ か事情が変わったみたいで」
「しづさん、その子と別れた所まで連れてってくれませんか」
「わかったわ」
 森崎はもちろんマリーのことも心配だった。が、それにも増して考えていたのはしづさん のことだった。
 しづさんが、その女の子から受け取った共鳴。それが何なのか。
「夢のことは若島津に教わったほうがいいかな」
 しかし、その若島津はここにはいない。まさか予知して逃げたわけでもあるまいが。
「おい、あの二人はどうした?」
「さっきまであそこに座ってたけど、こっちに引き上げて来たんじゃないの?」
「部屋かな」
 チームの仲間が気がついた時には、もう遅かった。森崎としづさんの姿は合宿所から消え ていたのである。







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