a cup of day プロローグ                              







プロローグ





◆ 





「もうすぐ父親になるんですからぁ。ねっ。そんな他人事みたいな顔して落ち着いてない で」 
 日本ユース代表の一行を乗せたバスは、フリーウェイを快調に飛ばしていた。アムステ ルダム・スキポール空港に着いたのが夕方近く。既に二時間以上こうして走っているが、 太陽はまだ空のかなり高い位置にあり、陽差しも真昼並みの強さだ。緯度の高いこのあた りでは夏の一日は限りなく長い。 
「――ほら、森崎さんてば!」 
 ほとんどの者が長いフライトに疲れて座席で眠りこけている中、新田と佐野の年下コン ビはやけに元気だった。ずっと2人でぼそぼそしゃべっていたかと思うと、ちょうど通路 を通り過ぎようとした森崎まで呼び止める。 
「もうベルギー国境越えたみたいですよ。ドイツにちょっと近くなって、嬉しいでしょ う?」 
「いや、なんかまだ実感なくて」
 森崎は足を止めると困った顔で笑った。
「感想それだけっすか? しょうがないなあ」
「けど、合宿中に生まれちゃったら大変ですよね。別行動になるんですか?」 
 今回のヨーロッパ遠征はまずこのベルギーの合宿所で3日間調整をした後、フランス、 ドイツと周って地元クラブチームなどとテストマッチをこなしながら最後はドイツのユー ス代表と公式に試合をする予定になっている。来年のU−21世界大会に向けての慣らし 運転というわけだった。 
「いやそれはないよ。日程が全部終わってから会いに行くから。まだ大丈夫」 
「そーかなぁ」
 まだイマイチ納得できない様子の2人だったが、そこにガイド氏の声がかかって間もな く合宿所に到着と聞いた森崎は急いで席に戻って行った。
「翼さんに続いて2人目かぁ。南葛ってやけに早くない、結婚。新田は?」
「お、俺に振るなよ。子供とか、結婚だって俺なんて全然実感ないから。成人式でびびっ たくらいだぜ」
「自慢になんないよ、それ」
 この年の正月、2人は成人式を迎える歳になっていたのだが。
 ともあれまた2人は自分たちの会話に戻る。
 バスはフリーウェイを離れてスポーツ施設の広大な敷地に入って行った。ここが彼らの 最初の合宿所となるのだ。
「しかしなーんにもねえトコだなあ。この周り、牧場か何か? 人が住んでるとは思えね えな」
「ちょっと北海道に似た風景だよね。ねえ、松山さん松山さん?」
 彼らの席の前の列にいる松山の頭に呼び掛けるが返事はない。まさかまだ目が覚めてい ないのか。
「あれっ、電話だ」
 宿舎の前にバスが横付けされてドアが開いたそのタイミングで携帯の着信音が響いた。 ガイドのオランダ人A氏の携帯だった。二言三言それに受け答えをしたA氏は、バスを降 りようと自分の前を通り過ぎかけた井沢にいきなり携帯を押し付ける。不意打ちに泡を食 った井沢だったが、電話に出てすぐ表情がぱっと輝いた。
「若林さん、どうしたんですか!」
 その名前が出た途端、一部の南葛組が身を乗り出してきた。話しながらそのままバスを 降りた井沢を囲んでぎゅーぎゅー押し合いになってしまう。
「ええ、はい、ちょうど着いたところですけど。若林さんは今まだハンブルクですよね」
 時々別の手が伸びて携帯が奪われたり奪ったりしながら近況報告に盛り上がっている様 子だ。
「え、森崎ですか?」
 突然出てきた名前の主を目だけで探すが、その森崎の姿はバスの中にも見えない。
「あれ、先に合宿所に入っちゃったかな」
 既に何人かは荷物を運び込み始めていたので、森崎もそちらに加わっていると思われ た。
『なあ、あいつそんなとこにいていいのか? そんな場合じゃないだろう?』
「ああ、そのことですか」
 井沢はあっさりとうなづいた。
「俺たちもそう思うんですけど、あいつも変なとこでガンコって言うか、日程が全部終わ るまではチームと一緒にいるって言ってんですよ」
『でも予定日は来週なんだろう? 早く嫁さんのところに行かせないと』
 井沢は一瞬妙な表情になった。携帯を手にしたまま隣の滝と目が合い、滝も肩をすくめ る。若林の声はまわりにもしっかりと響いていた。
「若林さん、ずいぶん熱心ですねえ。本人よりよっぽど。そんなに心配したりして、孫で も生まれるみたいな勢いですよ」
『おい、俺はただ……あ、そうだ、若島津はそこにいるか? いたら代わってくれ』
「若島津…?」
 ますます不審そうな顔になる井沢その他であった。
 幸いと言うか、若島津はまだ建物に向かってはいなかった。バスの脇に立って荷物を確 認しているところを呼ばれて黙って顔を上げる。
「おーい、話があるって。若林さんが」
「俺はないな。断る」
 いつもの無表情な調子で、しかもドきっぱりと拒否されてしまってはそれ以上何も言え ない。また荷物を並べる作業に戻った若島津を見てため息をつき、若林にその旨を告げ る。
「――やっぱり宣戦布告でもするつもりだったのかな、若林さん。レギュラーの座をかけ て、とか」
 通話を終えて携帯をA氏に返し、彼らもめいめいに荷物を運び始める。
「そんなとこじゃないの? 若島津もそれがわかってるから出ようとしなかったんだ。相 変わらず火花散らしてますな」
「それに比べて、ウチのキーパーは平和と言うか、そういう闘争心が最初っからないって 言うか」
 さっさと宿舎に入って行った若島津に一応用心して声をひそめつつ、南葛組の噂話は続 く。長年の付き合いである身内に対しては評価も容赦がない。
「やっぱりコドモのことが気に掛かってるんじゃないのか。平気そうにはしてるけど」
「そんなとこだな」
「若林さんのほうがソワソワしてるもんなあ。この分じゃ、合流も早くなるかも」
「そりゃいいや」
 興味の対象の差が善意の誤解を生んで、おかげでキーパーたちの秘密からはどんどん遠 ざかってしまうのであった。








◆ 





『おい、ずいぶん冷たいじゃないか、若島津』
 宿舎はホテルタイプの客室になっていて、各自割り振られた部屋に落ち着いたところだ った。
『おまえとは電話で話す習慣がないんでな』
 若島津は荷物をバッグごとクローゼットに押し込んでおいて窓辺に立つ。その「電話を 使わない会話」をしているところを見られないためであったが、同室の松山は荷物を置く が早いか宿舎探検に飛び出して行ったのでその心配は無用だった。
『そこまで泡食って連絡をしてきたってことは、また森崎と話が通じないんだな?』
 その通り、代表チームに合流する直前になって初めて、若林は森崎の子供が来週にも生 まれるという話を耳にしたのである。腰を抜かした彼はすぐに事情を本人に確認しようと したのだが、いつもの「通信手段」はまったく効かなかったのだ。
『おまえとはこうして通じるのに、あいつだと駄目なんだ、全然な…』
『原因はまたしづ姉か』
 そう、若島津の姉であり森崎の奥さんであるしづさんは若林にとってある意味鬼門とな っていた。森崎が奥さんのことを考えている間は若林からの通信が通じなくなる――それ はいつかのマリー駆け落ち事件の時に判明した事実だった。
『この事情だ。今嫁さんのことを考えるなってほうが無理だろうが、不便でしょうがない ぞ、俺にとっちゃ』
 そっちが普通なんだ…と言いたいところだったが、どちらにせよ若島津には同情する気 はなかった。
『ま、いよいよ親離れだな。あいつ自身が親になるんだから』
『………』
 若林の思念波が微妙に揺れたのを若島津は感じた。鉄壁のGKなどと言われていても、 弱点は意外な所にあるのだ。
『それだがな、あいつ、いつ子供なんてこさえたんだ。去年は一度もこっちに来てないは ずだが』
『――おまえの緊急の用件ってのはそれか』
 若島津は呆れたように頭を振った。
『まさか妙な疑惑を持ってるんじゃないだろうな。あのしづ姉に手を出そうなんて奴は森 崎以外にいるもんか』
 そもそもしづさんがむざむざ手を出されてしまうような女性でないことを考えなけれ ば。
『嫁さんのほうもずっと帰国してないんだよな?』
「考えるだけ無駄だな」
 若島津は初めてここで声に出してつぶやいた。
「あの2人に常識は通じない、ってだけだ」
 既に悟りの境地にいると言えよう。自分自身も「叔父さん」になる瞬間が刻々と近づい ている若島津だった。





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