a cup of day 1−1                              







 ≪1≫





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 土曜日の午後。夏の陽はまだはるか中天にあり、大聖堂の影は駅前広場のごく一端にか かるのみ。その影を背負ってヘフナーはケルン駅に降り立った。
 そしてまっすぐ向かった先は。
「おい、一体おまえは何をやってるんだ、こんな所で!」
 住所だけは知っていたが訪ねて来るのはほぼ初めてとなる家だった。その玄関先で、ヘ フナーはいきなり吠えることとなる。
「問答無用で呼びつけやがって。やつらが大変だって、どういうことだ」
「あああ、グスタフ、助かったよ! さあ、早く上へ」
 それをいつもの笑顔で迎えたジノ・ヘルナンデスはなぜかエプロン姿。へフナーが背負 う暗黒のオーラには一切たじろぐこともなく、いきなりその腕を取って階段へと引っ張っ て行こうとする。へフナーは顔をしかめて振り払ったが。
「いや、もう僕一人じゃどうしようもなくてね」
 ここはケルン市内の古い住宅街。かの有名ミュージシャン、ギュンター・へフナーの一 家の自宅だった。大学の実習で郊外の動物園に泊まり込んでいたヘフナーに、突然呼び出 しの電話がかかったのだ。
 両親の留守中に弟たちが病気になった…という知らせに急いで駆けつけて来たわけなの だが、そういう深刻な状況のはずのジノの表情が変に明るいのを見て、ヘフナーの胸に後 悔の念がじわじわと湧き上がり始める。
「おたふく風邪にいっぺんにかかった、って言わなかったか」
 二階の子供部屋の前まで来て、ヘフナーはさらに険悪な表情となった。ジノが手をかけ たドアの向こうから、何やら大きな物音や子供の甲高い叫び声が響いてくるのだ。
「しかたないと思うよ。順々にうつってしまうのは」
 微妙に質問をはぐらかしつつジノがドアを開いた瞬間、騒ぎのボリュームがさらに弾け 上がった。
「――わぁ! グスタフだ、グスタフだぞぉ!」
「ほんとだ、やった! グスタフ〜!!」
 ヘフナーとは10才以上歳の離れた3人の弟たちは、一番上のユールで小学生になった ばかり、その下のクルトとトビアスは最後に会った時にはまだベビーベッドにいたはずだ から、まだ幼児の域を抜けていないことになる。
 母親が違うという以前に、実の父親を徹底的に避け続けたせいでこの家族と顔を合わせ ることも極端に少ないヘフナーだった。だが幼い弟たちがそんな父子の確執など知る由も ない。
 どしん、と大きな音を立ててベッドから飛び下りた一人が、その勢いのまま突っ込んで きた。
「グスタフ、こんにちは!」
「わーい、わーい、グスタフ!」
 もう一人も駆けて来て2人で両側からしがみつき、その体格の差ときたらさながら大木 にとまる小鳥の図だった。
「どういうことなんだ、一体」
 抗議はもちろんジノに向けられる。
「おたふく風邪は本当さ。もう一週間も部屋から出られずにいるもんだから退屈も限界を 超えてるんだよ。特に熱が下がったこっちの2人はね」
「しかしだな…」
 とりあえずヘフナーは上の弟2人がしがみついたそのままの体勢でベッドに向かい、つ かみ上げて手早くそれぞれのベッドに押し込める。
「さすが。動物相手に実戦を積んでいるだけのことはあるねえ。動物と子供にだけは面倒 見がいいって話は本当なんだね」
 ヘフナーはじろりと睨み返すが、それを気にすることもなくジノが歩み寄ってきた。3 つ並んだ小さなベッドの一番壁側に末っ子のトビアスが眠っているのを覗き込む。
「トビーだけまだ熱が残っているんだ。目を覚ましたら薬を飲ませないと」
「こいつが最後にかかったってことか。まあこの騒ぎの中で眠ってられるなら心配はない な」
「――ねえ、ジノ?」
 キルトの上掛けから顔を覗かせてユールが声を上げた。
「ちょっとだけ、外に出ちゃダメ?」
「ダメ」
 髪の色は父親譲りの黒だが、瞳の色はジノと同じく灰色がかった緑で、つまりはこちら が母親から受け継いでいることになる甥っ子を、ジノは愛情を込めてきっぱりと睨んでみ せた。
「でも、あの猫がきっとおなかすかせてるよ。お願い」
「…猫?」
 意外な訴えにジノは目を見開いた。隣のベッドのクルトも同じように必死な顔で視線を 向けている。
「迷子の猫が、お隣の庭にいるんだよ、この間から。ぼくたちエサを一回あげたの」
「それは――」
 ジノは返事に困って背後を振り返る。ヘフナーも専門家としての意見を求められてはし かたがないと思ったのか、弟たちの言う「隣の庭」を窓から見下ろした。
「でも、飼い猫かもしれないよ。エサの心配はしなくても大丈夫じゃないかな」
「ううん。だってあの猫、アパートから出て来たんだよ。あそこ誰も住んでないのに」
 ジノの言葉にもユールは首を振った。隣のクルトがさらに言葉を挟む。重大な秘密を告 白するかのように。
「幽霊アパート、って言うんだって」
「おやおや」
 目を丸くしたジノがまたヘフナーを見やる。ヘフナーは苦い顔をした。
「そっちは専門じゃないからな、俺は」
「そうだっけ」
 ジノの笑顔は変わらない。と、その時、小さな泣き声がして全員がそのベッドを振り返 る。トビーが目を覚ましたのか。
「ああ、またちょっと熱が上がってきたかな」
 ベッドの横に来て毛布をそっと直してやりながらその寝顔を心配そうに覗き込むジノだ った。
「マンマ、ファータ……」
「かわいそうに、夢を見たんだね」
 トビーはもぞもぞと毛布の中で体を動かし、ちょっと目を開いた。そしてジノの手をぎ ゅっとつかむ。
「…マンマ」
「寝ぼけて間違えてる、トビー」
 隣のベッドからクルトが首を伸ばす。
「ジノがそれ、マンマのエプロンつけてるから」
「あ、なるほど」
 ぱっと明るい顔になってジノが振り返る。間髪を入れず、ヘフナーがぴしゃりと応じ た。
「断る」
「まだ頼んでないよ」
 口ではそう言いながら、トビーに握られた手はそのままにそっと立ち上がってヘフナー を目で招く。
「兄さんとして、でいいからさ? ね?」
「……」
 苦い顔のままヘフナーはのろのろと近づいた。ジノと場所を交替してトビーの手を握っ てやる。その感触にトビーはぼんやり目を開いた。
「…ファータ、抱っこ!」
「う……」
 罠にはまったことを後悔してももちろん遅い。たじろぎつつも、せがまれるまま毛布の 上から抱きしめてやる。トビーは安心したのか、すぐにまた寝息を立て始めた。
「いいなぁ、ぼくも抱っこがいいなぁ」
「トビーだけなんて、ずるいよ」
 ベッドにきちんと寝かせ直してからやれやれと立ち上がったヘフナーに、次なる波状攻 撃が待っていた。
「おまえらは元気だろうが、嫌になるくらい!」
 トビーを起こさないように声をひそめて怒鳴りつけるが、弟2人の純真な視線にヘフナ ーもかなうわけはない。
「くそ、わかったよ! その代わりおまえらも静かにベッドにいるんだぞ」
 クルト、ユールと順番に抱いてやって、ちょっとくらくらしながらベッドを離れると、 ジノが笑顔で両手を広げた。
「さ、最後は奥さんに」
「ぶっとばすぞ!」
 口の動きだけでそう怒鳴り返して、ヘフナーは窓際の椅子にどかっと座り込んだ。
「まったく寄ってたかって俺をなんだと思ってるんだ」
「しかたないよ。ただ似てるからじゃなく、血が繋がってるからってことさ。3人とも君 が好きなんだ。ギュンターの代わりじゃなく、ね」
「うるさい」
 その名前は出すな、というようにさえぎってヘフナーは頭を抱えた。と、その目が何か にぴたっと止まる。
「どうかしたかい?」
 ゆっくりと椅子から立ち上がったヘフナーにジノが声をかけるが、ヘフナーは窓の外を 凝視したまま無言である。
「誰も住んでいない、と言ってたな」
 子供部屋を後にして一階に戻ってから、ヘフナーはやっと口を開いた。
「さっきあのアパートの二階に人影が見えた。懐中電灯か何かの光も動いてた」
「ふーん」
 ジノも考え込む。
「長く空き家だったなら、ドロボウに入るような価値もないだろうし、何だろう。――や っぱり幽霊?」
「幽霊が懐中電灯を使うか!」
 怒鳴りかけてヘフナーがぴくっと反応した。居間の続きの台所のほうを黙って振り返 る。
「そのドアがどうしたの」
 足音を忍ばせて台所に入るヘフナーをジノも追って来た。ヘフナーが立ち止まったのは 外に通じる通用ドアである。
「おやぁ?」
 そーっと引いたドアの外、大きな猫がマットの上にちょこんと座って二人を見上げてい た。
「にゃー」
「何て言ってるの?」
「これならおまえでもわかるだろう。腹が減った、って言ってるんだ」
 こうして話題の主は自ら登場したのだった。





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