a cup of day 1−2                              






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「何度言ってもわからんようだが、俺は動物と話せるわけじゃないぞ」
 エサをきれいに食べ終わってくつろいだ様子の猫を、ヘフナーは膝の上に抱いて丁寧に チェックを始めた。
「鳴き声や動きや体の状態を見れば、動物のその時の気分や要求がわかる。あくまで傾向 としてな。いろんな奴といろんな機会に付き合ってきたその経験があるだけだ。力なんか じゃない」
「そう?」
 ジノも横から手を伸ばして猫の体を撫でてやる。白い長毛種の猫で、首から背にかけて ショールを羽織っているかのような薄茶色のポイントがある。
「でもそれだけ通訳ができるんだから十分特殊能力だと思うな。一般人の僕から見れば」 「誰が一般人だ」
 じろりと視線を投げて、ヘフナーは猫を床に下ろした。猫は軽く伸びをしてからジノの 足元に体をすりつけ、そしてゆったりと台所のドアに歩いて行った。
「この通り、明らかに飼い猫だ。人の手でエサをもらうことにこれだけ慣れているところ を見ればな。ただ毛並みが荒れてるのと栄養状態が少し良くないのを考えると、あいつら の言うようにここ最近は飼い主の世話は受けていないようだ」
「迷子かな。それとも捨てられた?」
「そこはわからん。身の上話をしてくれるわけじゃないから」
 ドアを前足でカリカリと引っかくのを見て、ヘフナーはソファーから立ち上がった。ド アを開けてやると猫はそのまま外に出る。見ていると庭を悠然と横切ってアパートとの境 界になる植え込みの間をくぐって行ってしまった。
「人を恐れもしない代わりに深入りもしないみたいだね」
「この一帯があいつのテリトリーのようだな、あのリラックスぶりは。飼い猫でないなら エサだけ人にもらって自由に暮らしているいわゆる外猫かもしれん」
 ヘフナーは猫が姿を消したアパートのほうにじっと目を向けたままだった。
「グスタフ?」
「何か感じる。足音だな。――あの建物のどこかだ」
 庭に歩み出てヘフナーは建物全体に視線をぐるりと巡らせた。ジノもそれに続いて出て 来る。
「行ってみないか? 幽霊って、一度見てみたいし」
「泥棒かもしれんぞ」
「どっちでもいいよ。面白ければ」
 もうすっかり乗り気になっているジノだった。どっちも面白いものではない気がする が、ヘフナーを引っ張ってアパートの裏庭にまで入り込んでしまう。
「君のレーダーの性能を信じてるよ。どっちに行けばいい?」
 裏口の通用ドアからアパートに入ると、そこは玄関ホールをそのまま裏手まで突き抜け る廊下だった。多少薄暗いが、それは窓ガラスが長年掃除されていないからだろう。汚れ と埃にすっかり覆われている。ジノはそこで振り返って声をひそめた。ヘフナーは難しい 顔をしながら周囲を見回している。
「上だな。一人じゃない。複数の気配がする」
「すごい」
 ますます嬉しそうにジノは階段に急ぐ。ヘフナーは何か考え込むように腕を組んだ。
「ただ妙なのは、どうもこの気配に覚えがある気がするんだ。思い出しそうで思い出せな いが」
 先に二階への踊り場に達したジノがはっと足を止めた。そして声を殺してヘフナーを振 り返る。
「ね、声がするよ、この上。聞こえるだろう?」
 2人はその場で耳を澄ませた。
「外国語かな。聞き取れない」
 自身はイタリア語、ドイツ語はもちろん英語やスペイン語も苦にしないジノだけに、聞 き取れない「外国語」とは何を指すのか。
『…ほんとに出るんですかねえ。もっと…暗くなって…』
「――まさか、日本語?」
 断片的に耳に届く声にヘフナーの既視感が反応した。が、意味までわかるわけではな い。2人は再び階段を上り始めた。
 二階に達して廊下のほうを窺うが、そこはただ薄暗いだけで何もない。さっきの人声も まったくしなくなっていた。俺らは注意深く前進を始める。その瞬間だった。
『うわぁあああ! 出た出た出た〜!』
 いきなり強烈な光が目の前で弾けて、ジノとヘフナーはその場に立ち竦んだ。大きな悲 鳴とドタバタとした物音が響くが、眩しすぎて目が開けない。
『おいおい、カメラ放り出しちゃダメだろ、ほら、逃げない!』
 ライトの向きが天井にくるりと回されたので、二人はようやくはっきりと目を開いて廊 下の様子を見ることができた。
 部屋の一つのドアが開いたままになっていて、その中にライトが2基据え付けられてい た。一つは天井に向き、もう一つは床に倒れている。そのすぐ脇で頭を抱えてしゃがみ込 んでいる男が一人。さらにその奥に逃げていくもう一人。そしてそれを呆れたように振り 返っていた3人目の男がくるりとこちらに向き直った。
「あれあれっ? そこにいるのはもしかして…」
 レザーのパイロットジャケットを着たその若い男が目を真ん丸にした。
「ヘフナーくん、じゃないか!」
「あんたは、ワカシマヅの兄弟の、ゴーか」
 ヘフナーも表情はともかく驚いているらしい。若島津剛さんは笑顔になって隣のジノに も目を向けた。
「幽霊どころか、知り合いじゃないか。こちらは確か、オペラハウスで会った、ギュンタ ーの義弟(おとうと)くん?」
 一転して和気あいあいモードである。薄暗い幽霊屋敷の中で沸き起こった恐怖から、ス タッフたちもようやく立ち直ったようだった。
「実は、撮影に来ててね。日本のテレビで特番をやるんだ。ヨーロッパの怪奇スポットを 紹介する番組」
 今日がその初日でカメラリハーサルにやって来ていたのだと言う。
「じゃあ、ここって本物の幽霊屋敷ってお墨付きなんですね!」
「リサーチはしてあるよ」
 剛さんは得意気に説明を始める。
「以前このアパートに住んでいた日本人留学生が心中事件を起こしてその幽霊が今も出る って言うから、そのエピソードを現場のルポと再現ドラマで見せるって企画なわけさ」
「面白そうだなぁ」
 ジノは身を乗り出して興味津々である。どうもノリが似ているのではと密かに思いつ つ、ヘフナーも話に加わる。
「音楽はやめて俳優になったと聞いていたが、本当だったのか」
「俳優も含めたいわゆるタレント業だね。最近は自分で番組企画も手掛けてるんだ。これ もレポーター兼ディレクターとして来てるんだよ。あ、通訳も兼ねて」
「すごい、マルチな才能じゃないですか!」
 いや、単に落ち着きがないと言うか好奇心旺盛と言うか…とヘフナーが心の中で反論す るが、ジノのほうはすっかり剛さんの話に魅了されてしまったようだ。
「いいなあ、僕も何か手伝えることがあったらぜひ!」
「君たちくらい存在感のあるビジュアルなら出演をお願いしたいくらいだけど、その当事 者は日本人の男とドイツ人の娘さんだからねえ。ちょっと適当なキャストがないのが残念 だよ」
 撮影の本番は暗くなってからなので、スタッフたちはいったんホテルに引き上げ、剛さ んはヘフナー家で時間をつぶすこととなった。こちらもやんちゃ盛りの病気の子供がいる 以上、あまり長く放っておくわけにはいかない。
「感動だなあ、あのギュンターの自宅に招かれるなんて。本人が留守なのは残念だけど。 で、なんで夫婦揃ってアメリカに?」
「何か音楽賞の授賞式にプレゼンターとして出席するためらしいですよ、詳しくは知らな いけど。僕、ヒマだったんでベビーシッターを任されたんです」
「ちょっと待て」
 ヘフナーのほうが反応した。
「なんでこの時期お前がヒマなんだ、そう言えば。今、シーズンの真っ最中だぞ。…まさ か?」
「レッドカードもたくさんためるとさらに特典があるんだよね。プラス2週間の休暇もら っちゃった」
「あのな…」
 ヘフナーは絶句した。
「将来のフル代表キーパーがそんなでいいのか、イタリア!」
「ほんとにねえ」
 ジノも一緒になってうなづいているが、反省の色はどこをどう見てもなさそうだ。
「そうそう、それでゴー、その撮影ってのは全部ここで?」
「主にスタジオで、まあ効果的なシーンは現場で、って感じかな。撮影許可は建物の所有 者からもらってるし」
 ジノが入れたコーヒーをおいしそうに飲みながら剛さんは外の方向を目で指した。
「ただ、俳優の手配がちょっと遅れてて、娘のほうはいいんだけど男のほうが日本人限定 だからまだ決まってないんだ」
 ハリウッド映画のように東洋系なら誰でも日本人を演じられる…なんて乱暴なキャステ ィングはできない、というのが剛の言だった。日本で放送する番組だけに、あくまでそう いう「嘘」は通じないのだ。
「日本人も中国人も同じにしか見えないってのは西洋の皆さんの決まり文句だけどね」
 剛さんはくすくすと笑った。逆に日本人だってヨーロッパ各国の人々を顔で区別できな いのだから、これはお互い様なのだが。
「ま、どうしても間に合わないなら手近なとこでADの誰かに泣いてもらうか。ただな ぁ、イメージに合わないのは使いたくないんだよな」
 一応アーティストの美意識は大事にしているらしい。そのせいで周囲が振り回されたと しても。
「僕たちも、日本人の心当たりと言ったら限られるものね」
「そうだな。約1名くらいだな」
 2人が思い浮かべたのは、もちろんハンブルク在住のあの男だった。
「ただ、イメージ的にはお勧めしないって言うか」
「幽霊の役だしな」
 剛さんももちろんその点は同感のようだった。
「健康的でたくましい幽霊ってのは却下だよ。はかなげで神経質そうで――そう、不幸が 似合いそうな感じ? 演技力は二の次でもいいから、イメージ優先だな、絶対に」
「それ、明らかに誰かを想定して言ってるだろう」
「ふっふっふ」
 ヘフナーに指摘されて、剛の目に怪しい輝きが浮かんだ。
「俺の初映像作品は実は幽霊モノなんだよね、プロモビデオでさ。それが結構評価されて 今度の企画も俺に声がかかったんだ。健なら理想的な幽霊になるんだけどなあ」
「そいつは気の毒に」
 一瞬同意しそうになったこと自体、同情に値する。ヘフナーがそうつぶやいた隣でジノ が首をかしげた。
「そう言えばワカシマヅって今こっちに来てる頃じゃなかったかな。代表チームの遠征 で」
「そうなのか?」
 ヘフナーも一緒になって驚く。
「シュナイダーが言ってたよ。ワカバヤシと久しぶりに一騎討ちができるって。なんか勘 違いがあるよねえ、彼も」
「人のことは言えないだろうが」
「――ほ〜、なるほどね。健が、ドイツに…」
 突っ込みを入れているヘフナーの向かいで剛さんが手帳を取り出した。それを開いて何 かを確認している。
「てことは姉ちゃん、いよいよか…」
「え?」
 怪訝な顔になる2人を、剛さんは意味ありげに見返した。
「俺も叔父さんになる時がやって来たんだよね。しづ姉がこのタイミングだからこそこう やってロケに来られたとも言うんだけど」
 相変わらずとことん姉を恐れているようだ。
「そして俺の救世主、森崎くんが父親になる時、ってわけ」
「えええっ!?」
「聞いてないぞ、そんな話」
 驚く様子を満足そうに見てから剛さんは先を続ける。
「まあ一応ウチでは駆け落ちした娘の扱いだからね、直接連絡が来るわけじゃないけど森 崎くん家から健を経由してちゃーんと情報は届いてるのさ。親父なんか知らん顔をしなが ら一番そわそわしてるんだから」
「で、モリサキは今シヅの所か? ワカシマヅも?」
「うーん、そこは詳しくはわからないけど、たぶんそうじゃないのかなあ。あ、ちなみに 俺はヒマがなくて陰ながら応援するだけになってんだ。すごーく残念だけど」
 研究期間を終えて帰国するのは出産の後という予定だとかで、剛さんは姉が出産と子連 れの帰国で忙しい以上自分も無事と踏んでいるようだ。余裕の笑顔を見せる。
「ねえ、僕たちも会いに行きたいね」
「――まあな」
 珍しく意見の一致を見る。
「いつ生まれるのかなあ。モリサキに連絡が取れるといいんだけど」
「連絡ならあいつに頼めばいいんじゃないのか?」
 やっぱり便利屋にされてしまう運命の若林であった。





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