≪2≫
◆
大学の長い廊下にしづさんは立っていた。背後から、日本語で声がかかる。
「しづさん、あなた調子はどう?」
「あ、教授(せんせい)」
しづさんが振り返ると、小柄な野森教授が早足でこちらに歩いて来るところだった。
「とても順調です。明日、定期検診なんです」
「もう休みを取ってていいのに。こうしているほうがいいのなら私はそりゃ構わないけ
ど」
教授はしづさんの迫力ある白衣姿をしげしげと見つめた。大きなおなかをすっぽりと覆
ってまだ余裕すらある白衣だ。
「カテリナのを借りたのは正解だったわね。彼女の体格が臨月のあなたにそのままで合う
というのもすごいわねえ」
同僚である女性研究者の体格を見込んで借りたこれは、決してマタニティ用白衣ではな
い。
「ええ、ほんとに助かってます。袖が長い以外はぴったりだし」
「で? ダンナさんはこっちに向かってるの?」
教授の問いに、しづさんはふわ〜っと笑顔になった。
「今日日本から着いてベルギー入りしたと思います。まだ連絡はないんですけど、ゆっく
りゆっくりこっちに来てくれることになってますから」
「まあ、なあに、それ」
――あ、しまった。バタバタしてて連絡まだしてなかったな。
ぼーっとそんなことを考えてから森崎ははっと気づく。
――あれ? なんでしづさんがいるんだろう。ここは、フランクフルト大学…かな?
「じゃあ、そろそろ迎えの車が来るから行きましょ。少しでも調子が悪くなったらすぐに
言うのよ、しづさん」
「はい、ありがとうございます」
2人の後姿が廊下を歩み去っていく。森崎はあせった。自分のほうはそれを追いかけた
くてもまったく動けないのだ。
――待ってください、しづさん! 俺、すぐ電話しますから。しづさ〜ん!
◆
「おい、練習に戻るぞ。どうかしたのか?」
井沢が近づいて来た。にやにやと振り向いたのは石崎だ。
「こいつ、こんなとこで居眠りして寝言言ってやんの。奥さんのこと呼んでんだぜ。まっ
たくよぉ」
「まったくじゃなくて、起こしてやれって。遅れるから」
森崎の肩に手を置いて井沢は軽く揺さぶった。ぱちっといきなり目を開いた森崎は自分
の周囲にいるチームメイトの顔を呆然と見上げる。
「あれっ、ここ――? 夢だったのか?」
「そーそー、いい夢見られてよかったな、森崎」
まだ寝ぼけているとしか思えない森崎を冷やかしにかかる石崎の背後から、また突然に
声が近づいた。
「夢だと?」
「あっ、若島津…」
その姿を見た滝と来生が両側から石崎を押さえつけ、そそくさとその場から離れる。
「じゃあな、森崎、先に行ってるぞ」
「うん…」
もたれていた壁から立ち上がって、森崎はぱんぱんとジャージをはたいた。その前に若
島津がぬーっと立ちふさがる。
「おまえ、まさかまた『眠い』のか?」
「え? いやたぶん時差ボケだよ。飛行機の中ではあまり眠れなかったから」
キーパーの練習は別メニューなので2人で隣のグラウンドに向かう。何かもの問いたげ
な若島津の様子を逆に不思議そうにしながら森崎はそう説明した。
「さっき、夢がどうとか言ってなかったか」
「ああ、あれ」
ちょっと照れた顔になる森崎だった。
「しづさんが夢に出てきて、なんか大学の先生と話してるのを見てさ。それがリアルだっ
たんで、つい」
「リアル?」
「うん。俺たちがベルギーに着いてるはずなのにその連絡がまだ来ないってしづさんが心
配してる夢。ほんとに忘れてたから俺、あせっちゃって。練習が終わったらすぐに電話す
るよ」
「ふーん」
さらにしづさんが大学教授と会話していた内容まで聞いてから若島津はちょっと考え込
んだ。そして森崎の顔をじっと眺める。
「おまえ、そんなに気に掛かるなら先にしづ姉のところに行っちまっててもいいんじゃな
いか? 公式試合はしばらくはないし、若林も来るんだし」
「ほんとにそれは大丈夫」
森崎はにこにこした。
「生まれる時には間に合う気がするんだ。遠征の日程が全部すんでからでも」
「最初の子供は予定日より遅れがちだってうちの母親が言ってたが。まあ、おまえがそこ
まで言うなら」
そこで少し間を置いてから若島津は付け足した。
「それに、今回は俺も妙な夢は見てないから、変なことにはならないだろう、たぶん」
「え?」
一瞬ぽかんとしてからそれが若島津の予知夢の話だと気づいたらしく、森崎は嬉しそう
にうなづいた。
「うん、ありがとう」
しかし若島津は一つだけうっかりしていた。彼の予知夢は自分のことだけはわからな
い。つまり森崎の保証はできても、彼自身については何の保証もないということにこの時
気づいておくべきだったのだ。
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