a cup of day 2−2                              






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 夕食も済んで選手たちがめいめいにくつろいでいるところに電話があった。
「電話? おーい、森崎、電話だってさー。いないのかぁ?」
 フロントからの内線を受けた反町が大きな声を上げたが、反応はない。きょろきょろ見 回しても見当たらないので、反町は受話器を持ったまま困った顔になった。
「どうしよう。掛け直してもらったほうがいいのかな。――あっ、そうだ、健ちゃん!」
 彼の目に止まったのは、ちょうど通りかかった若島津だった。
「何だ」
「電話。お姉さんからだよ。森崎が見当たらないんで、おまえ代わりにどうぞ。はいっ」
 まんまと押し付けておいて反町は素早く消える。厄介払いがしたかっただけらしい。若 島津はしかたなく保留解除のボタンを押した。
『あら、なんだ、健なの』
 あからさまにがっかりした声が聞こえてきた。
『私が留守の間に有三さんから電話もらったって聞いて掛けたのに、またすれ違いだわ』
「森崎は今ここらに見えなくて、たぶんフロか何かだと思いますよ。とにかく俺たちは無 事に合宿所に着いてますから、後は姉さんが元気かどうか伝えればいいはずです」
『もちろん元気! 赤ちゃんも元気に動いてるから安心して』
 それは何より。しかし…と若島津は心の中でつぶやく。
「でも留守って、こんな時間まで仕事してるんですか。おとなしくしていないと駄目でし ょう」
『今夜のは仕事じゃないわよ。教授(せんせい)の研究が学会の賞をいただいて、その報 告会に出てたの』
 どちらにせよ、出産ぎりぎりまで普通に仕事をしようという勢いらしい。若島津は思わ ずため息をつきそうになった。
「どうせ今まで通り白衣で飛び回ってるんでしょう。大柄なドイツ人から特大サイズので も借りて。少しは自重してください」
『あら、よく知ってるわね』
「えっ!?」
 あっさりと認めるしづ姉の言葉に、若島津はとっさに頭を巡らせて森崎から聞いた夢の 話を思い起こした。
「あー、もしかして、カテリナさん…なんています?」
『ええ、その白衣を貸してくれた人よ。誰に聞いたの?』
「……」
 若島津は少なからずショックを受けていた。森崎は夢だと言っていた。本人もそう信じ ている。が、この符合はどういうことなのか。
「あっ、森崎だ。――早く早く!」
 ちょうどロビーに姿を見せた森崎が周囲に急かされてこっちに駆けて来た。若島津は上 の空で受話器を渡す。
「アツアツだよね」
 ぼんやりと歩いていると、隣に翼が並んだ。見下ろすとにっこり笑顔が返ってくる。
「若島津くんも嬉しいでしょ、赤ちゃんが生まれるのって」
「おまえは自前のがいるじゃないか」
「うん、俺も嬉しかったよ」
 本当か、と思わず聞き返したくなったが、どうせ無駄なので黙っている。と、翼のほう がちょっと真面目な顔になった。
「あのね、俺、みんなに会うの久しぶりでしょ。森崎にもね。で、思ったんだけど、森崎 ちょっといつもと違うんだ」
「え?」
 若島津が足を止めたので翼も立ち止まる。そしてまっすぐに若島津を見上げた。
「どこがっていうのはよくわからないけど。――なんだか、辛そうに見える、感じ」
「……」
 思わず振り返る。電話の前の森崎は笑顔で照れたように何かしゃべっていた。
 いつもの森崎。そう言うしかない森崎の表情だ。
「翼、おまえ…」
 もう一度向き直ると、翼はもう走って行く後ろ姿になっていた。







◆ 





 ハンブルクはその日、朝から雨になった。
「ワカバヤシ、やっぱりクルマはやめといたほうがいいぜ」
「しょうがねえだろ。飛行機が取れなかったんだから」
 クラブハウスの前で、大柄な日本人と小柄なハンブルクっ子が並んでその雨を眺めてい た。
「何もそんなに泡食って駆け付けなくたって。レギュラー争いは先着順じゃないだろ」
「レギュラーなんかどうだっていい」
 誰かが聞いていたら嵐を呼びそうな発言を平然としておいて、若林はカルツを振り返っ た。
「子供が生まれないうちに一度あいつにしっかり念を押しとかなきゃならんことがあるん だ。グズグズしてられないんだ」
 昨夜突然ベルギー行きを宣言して周囲を驚かせた若林だった。夏のシーズン中だけに翌 朝の便のチケットを取るなど不可能で、結局自分の車を運転して行くことになったのだ。 ハンブルクから合宿地までおよそ600キロ。日本で言うなら東京〜大阪間に相当する距 離である。カルツが不安がるのも無理はなかった。
「じゃあな。来週は敵味方で再会するんだ。楽しみにしておけよ、ヘルマン・カルツ」
 しかし若林の決心はあくまで固く、しかも正体不明の使命感に燃えていて、これ以上説 得しても無駄なようだった。
「おや、おはようカルツ君」
 クラブの事務課長がそこに出勤してきたのは雨の中を猛スピードで走り去るパルサー・ ヴェクターを見送ったのとちょうど入れ違いだった。
「ずいぶん早いね」
「俺がじゃなく、ワカバヤシがね」
 と答えつつ一緒にクラブハウスに入って行こうとしたそこへ課長の携帯が鳴る。それが 第一報だった。
「盗まれたって…!?」
 階段を踏み外しかけたほどの衝撃だったようだ。
「いつ、どうしてまた!」
「何が、ですか」
 慌しく通話が終わった後、その場に呆然と佇む課長にカルツは冷静に声を掛けた。
「トロフィーが――来週のハンザ杯大会の優勝トロフィーが、協会の金庫から盗まれたん だよ!」
 ニュースはもちろんハンブルガーSVのクラブ内を瞬く間に駆け巡った。
「でもよ、トロフィーたって純金でもダイヤ入りでもねえんだろ。盗んで何の値打ちがあ るってんだ? 優勝した名誉がくっついて初めて価値があるんだぜ。しかも当事者だけに な」
 その話を聞いてあっさり正論を吐いたのはユース代表監督でもあるルドルフ・シュナイ ダー監督だった。
「コレクターという線も考えられますよ、監督」
 コーチ室に報告に駆け込んだ事務課長はまだ冷たい汗を額に浮かべていた。
「実はトロフィーの盗難はこれが初めてじゃないんです。今年に入ってからだけで国内で 既に1件、デンマークとオランダで各2件。あと、他の競技でも数件被害が出ているそう なんです。警察は同一犯の可能性があると言っているようで」
「美術品じゃあるまいし、あんなもの集めて楽しいのかねえ」
「動機はともかく、大会に間に合わせないと一大事です。協会のほうで今、善後策を話し 合っているようなので、監督ご足労ですが今から顔を出していただけますか」
「どうせ俺たちがもらうトロフィーなんだ。そこまであわてなくたっていいのに」
 監督はしぶしぶ立ち上がって車のキーを取り上げた。4ヶ国だけで開かれる親善試合の大 会とはいえ、そこまで言い切るとはなかなかの自信である。
「別に現物じゃなくたっていいさ。何だったら『見えないトロフィー』ってことにして受 け取る真似だけしてもいいぜ。ほら、正直者にだけ見えるって奴さ」
 それは「はだかの王様」。同席していたカルツは心の中でそうツッコミを入れながらふ と外の雨に目をやった。
「おや、あれは…」
 その雨の中、猛烈な勢いでクラブハウスに飛び込んできた人影がある。カルツの予想通 り、足音はまっすぐこの部屋に向かって来た。そしてちょうど出ようとしていた監督の目 の前でドアが大きく開く。
「おっ、マリー。どうした、びっくりするだろが」
「カールはどこ?」
 肩まで伸びた金髪から、雨粒が弾け飛んだ。室内を見回して事務課長とカルツに軽く目 礼だけすると、再び監督に向き直る。
「父さん、どうして私に黙ってたの、ゲンゾーが今日出発するって。カールも何も言って くれなかったし」
 さすがの無頼の監督も娘にはかなわないようだった。思わず後ずさってわざとらしく咳 払いなどしている。
「いやあ、急に早まっちまったもんでお前に言う暇がなくてな。カールに口止めされたわ けじゃないぞ、うん」
「やっぱり」
 マリーはキッと口を結んでまたすごい勢いで部屋を飛び出して行った。監督は目を丸く してそれを見送ると、こちらを振り返って苦笑を見せ、それからそそくさと自分も出て行 く。成すすべもなく残された課長とカルツは思わず顔を見合わせてしまった。
「何がどうなってるんだろうね」
「監督もシュナイダーもマリーの前ではただの父親と兄貴でしかないってことでしょ」
 雨は降り続く。今日はそうでなくても休養日だ。クラブハウスに顔を出している選手は ごくわずかだった。
「に、しても」
 再びクラブハウスの前に一人立ってカルツは待っていた。
「シュナイダーはどうしちまったんだ」
 休養日などという言葉はシュナイダーの頭にはない。特に来週の大会に燃えているに違 いない彼は今日も練習に現われると踏んでいたのだ。
「マリーから逃げた? なんてことは増してありえないよな」
 そう、カルツはその点では正しかった。
 シュナイダーは逃げていたのではない。追っていたのだった。





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