一章−1




第一章 検見川へ






 このところ夢をよく見る。若林の夢だ。
「なんだって若林なんだ!」
 思わず声が出てしまう。まるで俺があいつのことで頭がいっぱいみたいじゃないか。 若島津は苦々しく夏のヨーロッパ遠征の時のことを思い出した。彼らは単に代表ゴール キーパーのポジション争いをしただけではない。彼らが最終的に目指そうとしているも の、つまり彼らがサッカー選手である限りそこにあり続ける一つのゴール――大空翼と いう男が彼らの眼前に示して見せた「夢」の形――への挑戦者として、あの時彼らは互 いの視線の先をはっきりと意識し合ったのだ。それはある種の奇妙な戦友意識とも言え た。
 若島津は手の甲で汗をぬぐうと、すっと立ち上がった。
 人気のない道場を後にし、彼は母屋への渡り廊下へと歩を進める。広い庭にはうっす らと霜が覆っていた。
 若島津にはわかっていたのだ。自分の夢の原因が何であるかを。
――あいつの「力」のせいだ。
 しかしその意味はまだわからない。嫌な予感だけがそこにはあった。







 年末が近づくにつれ、森崎の家は上を下への大騒ぎになる。店にとって年に一度の書 き入れ時、年越しそばの仕込みに家族総出でかからねばならないからだ。店の構えこそ 大きくはないが、一応明治から続いている老舗である。近辺の馴染み客からは既に多く の予約注文が集まっていた。
 そういう店の主人である森崎勇太郎は、しかし職人気質とはもとより遠い、いささか 軽い性格の男であった。代々受け継いだ店の顔とも言うべき店名を自分の代であっさり と変え、『そば処フランボワーズ』などとしてしまったことからも窺えよう。ほとんど 卒倒しそうになった先代の妻、つまり自分の母親に詰め寄られて、
「意味なんてないさ。でも、面白いだろう」
の一言でさらにトドメを刺したという前科まである。
 森崎はそんな父を見ながら、自分も少しくらいは父親の性格を受け継いでもよかった な、と時々思う。幸か不幸か、彼はいつも一歩下がって物事に対してしまう母親の地道 な性格を譲り受けていた。三男坊でありながら何やかやと店の手伝い――単なる猫の手 ではなく、経理からそば打ちの専門技術まで――に引きずり込まれ、二人の兄がしっか り逃げ腰になっているこの由緒あるそば屋の次代を担う役を周囲から期待されている状 況も本人の意思とまったく離れて勝手に生まれたものであり、またそれにズルズルと引 きずられつつ大きな声で抵抗できずにいる自分を省みるにつけ、思わず母を逆恨みしか ねない日々であった。
 家族はあまり重要視していないことではあったが、この森崎有三は小学生の頃からず っとサッカーをやっており、実は三年連続全国優勝チームの正ゴールキーパーでもある 上にさらには全日本ジュニアユースチームの一員としてこの夏のヨーロッパ遠征にまで 参加したという輝かしい経歴の持ち主である。経歴と実力が必ずしも一致するものでは ないことを森崎自身よく自覚してはいたものの、一応高校進学後もサッカーを続ける心 積もりをしている彼は、この中三の冬が年末の家業の手伝いをする最後の年になること を心密かに願っていた。なんといっても高校のサッカー選手権大会は正月に行なわれる のだ。
「おーい有三、この予備のこね鉢ここに置いとくぞ!」
「だめだよ雄二兄さん、そこだと邪魔だから。右の棚の上に…。うん、そこ!」
「ねえ、さえき屋さんの伝票どこやったっけ。有三知らない?」
「母さんまた忘れたの? 奥の机の引き出しだよ。二番目の」
 大釜の前で火力の調節に神経を集中させている森崎に、あっちからこっちから声がか かる。はっきり言ってこの混乱の中、目先のことを一つずつ片付けていく以外生き延び る方法はなく、そのための便利屋と化しているのが一家の最年少者、弱冠14才のどこ か気弱げな三男坊であった。
「電話鳴ってるぞー!」
「優一兄さん、出てよ!」
「ダメ、俺、トイレ行くとこ…」
 大学の冬休みで帰省中の長兄はどうやら傍観者を決め込みたいらしい。森崎はカマド の前を離れ、ため息をつきながら、先ほどから自己主張し続けている電話に歩み寄っ た。
「はい、フランボワーズです。はい、二丁目の吉由さん、五人前ですね。はい、承知し ました。毎度ありがとうございまーす」
 手元のノートに手馴れた様子で記入しながら受話器を置くと、ちょうど奥の部屋から 祖母の声が響いた。
「ゆうちゃーん、手の空いた人からお昼にしましょ!」
「おーすっ!」
 この家でそういう呼び方をするのは元来暴挙でしかない。しかし見方を変えれば、不 特定多数を一度に呼ばわる時ははなはだ便利な方法とも言える。最初っから手の空いた ままの長兄が真っ先に座敷に飛んで行ったのに続いて、かっぽう着姿の母がいそいそと 食卓に向かった。ちなみにこの人の名前は悠子さん、それを迎える姑さんはズバリ、ゆ うとおっしゃるのだった。
 再びかまどの前に戻ろうとした森崎はそば打ちの作業台の前で腕組みをして仁王立ち になっている父に気づいた。
「どうしたの、父さん」
 息子の声に父はカッと目を見開き、台の上に置かれたそば種を睨み付けた。
「有三、そばはなぜ細長いのだろうか…」
「へ?」
 禅問答でも始めるつもりなのか…? いや、森崎は実父のひととなりをいやと言うほ ど知り抜いていた。せいぜい新しいナゾナゾでも思いついたのだろう。
「いやなー、切り方を変えたらどうだろうと思ってな。…たとえばこんなのとか」
 父の指す先に目をやった森崎は世をはかなんだ。自分は何のために貴重な冬休みを返 上して手伝いに励んでいるのか…。
 作業台の上には、お星さまやパンダの顔やハートマークの――そばがとりどり並んで いた。
「どーだ、受けたか?」
「遊んでるくらいならさっさとメシ食べて来いっ! 店は俺が見てるから!」
 肩で息をする孝行息子をあっさり見捨てて、店の当主は軽いステップで奥へと消え た。この森崎有三、自慢じゃないが、怖いのはボールと日向小次郎だけではない。それ らを上回る恐怖がこの父の跡目を継がされることであった。
「お客さんだぞー」
 そこへのんびりと声を掛けたのは高校生の次兄、雄二である。のれんを手で分け、顔 を突き出していた。
「力そば、2つね」
「はいはい」
 返事に力がこもらない。しかし気をなんとか取り直して森崎はそば玉を2つ取り、大 釜の前に歩み寄った。
 この4年間大空翼のゴールを守ってきた――もとい、守ろうと努力してきた自分の神 経は果たして太くなったのか細くなったのか。年が明け春が来ればもう翼と同じフィー ルドに立つことはない。それが自分にとって救いになるのか、あるいは新たな試練とな るのか――その答えを求めたい相手は今、遥かな空の彼方だ。
「……若林さん」
 焼き網の上で香ばしい色に変わりつつあるふくよかなモチはその人物を連想させたわ けではまったくなかったが、森崎は切なくその名を呼ぶよりなかったのである。







「おいっ、何をしてる、健!」
 父の鋭い叱責は、しかしすぐに当惑を含んだ口調に変わった。
「…どうかしたのか、おい」
「健…!?」
 兄が駆け寄る。突き技が決まるかと思われた瞬間、いきなりその拳から力が抜け崩れ るように膝をついたのだ。若島津は時間が止まったかのようにそのまま身じろぎもせず 虚空を見つめていたが、肩に置かれた兄の手に、はっと我に返ったようだった。
「…ああ、いや、何でもない…。ちょっと気が乱れたんだ」
 言いながら立ち上がる。父はそんな息子の表情にふっと眉を寄せた。
「よし、今夜はこれまで」
 父の言葉に大柄な兄弟がさっと姿勢を正し、礼を取った。
「おまえ、疲れてんじゃないのか?」
 父が道場を出て行くのを見送ってから兄のほうが口を開いた。
「疲れてはいないけど、夢見が悪くてね、ここんとこ」
「夢ぇ〜?」
 兄は思わず声を張り上げてしまった。ちょうど昨日15才を迎えたばかりの中学生、 それでいて大学生である自分さえ呆れるほど醒め切った落ち着きを備えたこの弟にはお よそ似つかわしくない話題だった。
「…おまえな、そりゃ重症だな」
「何が?」
「要するに禁断症状が出てんだ、サッカーの。…いやそれとも日向くんの?」
 若島津は冷たい視線を兄に投げた。
「剛兄さん、あんた人のこと言えるんですか? さっきの足の運び、しっかり16ビー トしてたくせに。禁断症状はどっちです」
「はは、バレてたか。年明け早々新曲キャンペーンが控えてるんでな。振りを早いとこ マスターしなくちゃならなくて気になってんだ」
「そりゃご苦労なことで。どんな振り付けか知りませんが、いい加減に空手シンガーの 名を返上してまっとうな道を歩んでほしいもんですね」
「ほう、そう言えばおまえこそ正月早々国際試合控えてんじゃなかったか。空手キーパ ー、オリエンタル・マジックをしっかり売り込んでおくんだな。将来、外国のプロチー ムからいいオファーがあるようにな」
 若島津はその呼び名を耳にするとぴくりと眉を動かしたが、兄の言葉には口をつぐん だままだった。5年長く生きている人間に口でかなうはずもない。しかも相手は曲がり なりにも芸能人であったりする。逆らうだけムダなことはわかっていた。兄はむっとし た顔で黙ってしまった弟を見てカラカラと笑う。
「さ、メシだメシだ。早いとこ食って寝て、いい夢見るんだな」
 若島津は兄の腕が首に回され引きずるように母屋へ向かうのにもされるがままになっ ていた。冗談に紛らわしはしたものの、連夜の不吉なイメージの夢は確かに安眠を妨げ ていたのであり、そしてさっきの声…。
――確かに若林の声だった。一体あれは…。
 若島津は既に決心を固めていた。外は風が強い。
 年も押し迫った12月30日のことだった。







「わ、若林さん…!?」
 抱えていたザルの山がガラガラと床一面に散乱する。森崎は両手が空になったのにも 気づかず空中の一点を凝視した。
――キケン…。キ、ケ、ン!
「若林さんっ!」
 思わず絶叫になっていた。物音に驚いて奥の座敷から顔を出した家族が、ふだんは目 立たない末っ子の只ならぬ様子に立ち往生している。恐る恐る声を掛けたのは高校生の 兄だった。
「…有、三?」
 森崎ははっと視線を下に落とし、あわててかがむとザルを拾い集め始めた。家族の 面々はほっとしたように顔を見合わせる。
「あいつ、働き過ぎで頭がどーかしたんじゃないか?」
「さっき若林さんて言ってたが…。あそこの家からは注文は来なかったよな、確か」
「ええ、若林さんのところは今年もご一家で外国ですもの、お正月は」
「有三、あんた片付けはもういいから、ご飯にしたら?」
 口々に無責任なことを言いつつ夕食の卓に戻る家族たちであったが、最後に母がおず おずと声を掛けた。今日は明日の大晦日に備えての定休日、久々に一家揃って夕食を囲 んでいるわけだが、末っ子だけが厨房に居残っていたのだ。
 森崎は答えなかった。口をキッと結んだまま静かにザルを台の上に乗せ、母に背を向 けると階段を足早に登っていった。これが翌朝、森崎家大パニックの伏線になろうと は、いたって穏便な発想しかできない母親には当然予見できるわけもなかった。
「ゆうぞーっっ!! 気でも違ったかーっ!」
「待て待て待て!! どうしたっていうんだっ!」
 31日の早朝、森崎家に絶叫が響いた。
「合宿行くって、おまえ、2日からじゃなかったの!?」
「よりによってこんな日に出て行くだなんて、俺たちを見殺しにする気か!?」
 うろたえまくる家族を後目に森崎は黙ってスニーカーのひもを結び終え、スポーツバ ッグを手に立ち上がった。
「じゃ」
 もとより過激さとは縁遠い性格の森崎である。これから始まる修羅場の一日を考えて も、自分のいない『フランボワーズ』がどんな地獄を見ることになるか重々承知もし、 すまなそうな表情を隠さなかった。しかし決心は決心である。何より若林源三のためな のだ。彼は振り返ることなく、まだ薄暗い町へと出て行った。







 千葉県千葉市花見川区検見川町。一月初旬のヨーロッパ選抜との対戦に向けての全日 本ジュニアユースチームの合宿地である。この夏にも合宿が行なわれた場所なので、森 崎は迷うことなくたどり着いたが、門の前で思わずためらってしまった。合宿は母も指 摘した通り、明けて2日からの予定である。3日も早くやって来て入れてもらえるだろ うか。第一、ここへ来てあの若林源三の声とどうつながるのか、何の確証もない。
 一人いじいじと迷っている森崎の目に、その時玄関の扉が開くのが見えた。合宿所の 管理人らしい。人の良さそうな初老の男だった。彼はドアを後ろ手に閉めかけて森崎に 気づいた。
「おや、ご苦労さん。私は今日はこれで失礼するところなんで。鍵は先に来た子に渡し ておいたから、荷物を置いたら戸締りはしっかりして行ってくださいよ」
 彼はにこにこと説明すると、訳もわからず突っ立っている森崎を残して急ぎ足で駅の 方向へと去って行った。その姿が少し先の角を曲がって消えるのを見送ったところで、 管理人の言葉がやっと森崎の脳神経に到達したようだった。
「先に来た子、だってぇ!?」
 あわてて玄関に走り込んだ森崎は吹き抜けのホールに入った所でギョッとして足を止 めた。誰かが階段を下りてくる。しかしその人物は森崎を見てもさほど驚いた様子を見 せなかった。
「よう、やっぱり来たか」
「若島津…!!」
「朝メシ抜きでとんで来たもんで腹が減ってな、その辺へ何か食料を調達しに行くとこ だ。付き合うか?」
 森崎は納得した。やはりあれは空耳でも気のせいでもなかったのだ。ゴールキーパー にはゴールキーパーにしかわからない秘密がある。とりあえず仲間ができたことで森崎 は安心した。しかも他ならぬ空手使いの兄さんである。若林源三を案ずるあまり後先も 考えず家を飛び出した思いつめた気持ちが一気にゆるんだ。
「ああ、でも年越しそばだけは勘弁な。当分は見たくもない。――少なくともあと1年 はね」







「問題はヤツが今どこにいて、どういう状況かってことだ」
「この間聞いた話だと、ヨーロッパチームと同じ日に帰国ってことだったけど…」
 元修哲組の若林への思い入れは並大抵のものではなく、それをベースにした情報網に もそうそう手違いはないはずである。若島津は指を折って考え込んだ。
「オレたちが同時に若林の声を聞いたのが昨夜の7時頃。ドイツとの時差は8時間だか ら朝の11時か、あっちは」
「うん」
 うなづいてはみたものの、だからどうなんだと言われると困る。森崎はいい加減食べ 尽くしたファーストフードの残骸の中から既に冷めてしまったフライドポテトの最後の 数本を口に放り込んだ。
「飲む?」
 ポットのコーヒーはまだ温かかった。合宿所の台所には幸いにもこれまでのいろんな 団体さんが合宿時に持ち込んでは置き去りにしていった各種のインスタント食材が揃っ ている。後は勝手にお湯を沸かしさえすれば温かい飲み物にも不自由しないという訳だ った。
「ああ」
 森崎の差し出すカップを受け取ろうとした若島津の手が途中で止まった。森崎も同時 に気づく。
「誰か、来る…!」
 彼らがいまいるのは二階の一番階段に近い部屋である。階段の物音も玄関ホールの物 音も聞きつけやすい位置ではあったが、それは足音以前に、まさに彼らにしかわからな い「気配」を持っていた。
 二人は腰を浮かしかけた。ドアが静かに開き、そこに上背のある黒い姿が立ってい た。見間違えるはずはなかった。
「ヘフナー!?」
 自分の名前が叫ばれたのを聞いて、彼は頭をひょいと下げてドアをくぐってきた。無 言で部屋の中央まで歩いて来ると、床の上に座り込んでいる二人を見下ろす。
「コーヒーをくれ」
 いたって簡潔な英語だったので若島津と森崎にも十分理解できた。理解できないのは この男の表情のなさである。森崎が反射的に手にしていたカップを渡した。
 ヘフナーはそれを受け取ると一口飲み、口を離した。また何か言うぞっ、と二人は身 構えた。しかしヘフナーはそのまま再びカップを口に運んでまた一口飲んだ。そして口 を離し、また数秒の間をおいて再度コーヒーを口にした。その間、顔の筋肉はピクリと も動かさずに、である。
 若島津と森崎は中腰の姿勢から申し合わせたように座り直し、床の上に正座した。
「…若島津」
「オレに何も聞くな」
 二人は空しく目をそらし合った。外国人だから…という納得のしかたではとうてい済 みそうにない。おそらく同国人ですらこの男の正体を把握し切れてはいまい、と考えた 若島津の勘は当たっていた。ヘフナーの行く所、その先々で空間の歪みが生じる…とい う風評がヨーロッパ選抜チームの中でささやかれていることはまったく知らずにいたの だが。
「うまかった」
 頭上から降ってきた声にあわてて振り仰ぐと、ヘフナーが空になったカップを差し出 しているところだった。森崎はあたふたとそれを受け取った。
「空港から直行したんでな、喉が渇いてたんだ」
 ヘフナーが説明をしたのでともかく二人は安心した。一応人類ではあるのだ。
「今朝着いたのか? ドイツからの便でこんな早朝に着くのってあるのか?」
 中学生とは言え、二度の海外遠征の経験は彼らに一応の英会話能力――つまり最小限 の単語を繋ぎ合わせて自分の意思を伝えようとする度胸のことである――をつけさせて いた。ちなみに今若島津が英語で何と言ったかというと、
"This morning? From Europe?"
の4つの単語だけである。しかしこれでヘフナーにはちゃんと通じたようだった。
「モスクワ経由の便で来た。スカンジナビア航空の最短ルートの便だ。なにしろ事態は 急を要したからな」
 彼の口調のほうにはどこもそういう切羽詰まった様子はなかったが、どうやら自分た ちがここに集まった件と少なからず関連がありそうだと読んだ二人はヘフナーにそばの 椅子を勧め、自分たちは立ち上がってそれぞれベッドに腰を下ろした。いい加減に首が 痛くなりそうだったからである。
「しかしよくここがわかったな」
「オレは一度会ったヤツの波長は忘れん」
 森崎は首をすくめた。まさにドイツ・シェパードだ。警察犬か、こいつは。
「おまえたちにはテレパシーの発信能力はないようだな。オレもだが。しかし本人も意 識していない所でわずかに波は出ているんだ。まあ、静電気みたいなもんだな」
「おまえにはそれが嗅ぎ分けられるのか」
 若島津に問われてヘフナーはうなづいた。
「一定の範囲内ならな。ドイツと日本なんてのはとても無理だ。だからこそオレは日本 に来たんだ、ワカバヤシを追って」
 思わず立ち上がってしまったのは森崎だった。
「じゃ、若林さんは日本に戻ってるってことか!」
「ドイツを発つ前に確認した。29日の夕方ハンブルクを発ったJANA航空434便 の乗客名簿にワカバヤシの名があった。もっとも日本に着いて今現在無事かどうかの保 証はないが」
「なんだと? どういう意味だ」
 この不気味なドイツ人キーパーにまったく引けをとらない無表情さで売る空手キーパ ーが、いつもの感情の読みにくい不思議な口調で言った。こちらは女顔である分だけ不 気味さもどこか怪談じみている。
「12月に入ってから、ある会社の株価が妙な動きをしていることに気づいてな」
 口を開いたヘフナーの言葉に、若島津と森崎の頭上を特大のクエスチョンマークが飛 び交った。ヘフナーはかまわず続ける。
「それまでは特に目立つ動きを見せなかったその株が急にじりじり値を上げ始め、クリ スマス休暇前にはとうとう倍にまでなった。ところがだ、休暇明けの27日、市場が再 び業務に入った時には一気に大下落。12月以前の値の半分以下になっていた」
「――ちょっと聞くがな」
 既に呆然となっている森崎の代わりに若島津が口をはさんだ。
「おまえ株なんてやってるのか?」
 見てくれはどうあれ、このグスタフ・ヘフナーは確か彼らと同じく中学生のはずであ る。ヘフナーはややむっとした面持ちで――つまりいつもとあまり変わりのない表情で 答えた。
「投資はやっていない。株式調査だ。平たく言えば、証券会社のリサーチャーをやって る。一昨年くらいからかな」
「…アルバイト、とか?」
「もちろんだ。本業にする気はない。ま、趣味だな」
 さしもの若島津も絶句するしかなかった。入れ替わりに森崎が復活してきた。
「そ、それが若林さんとどう関係あるんだ! 若林さんに何があったって言うんだ よ!」
 最後には涙声にすらなっている。熱血すると涙腺がゆるむ体質らしい。ヘフナーはそ れでも同じペースで話を続けた。
「もちろんオレはその会社についてすぐに調べた。デュッセルドルフ近郊に本社のある 鉄鋼会社なんだが、来春日本の銀行の出資を受けて、ある日本企業との合弁にする計画 を進めていたらしい。株価が上がっていったのは、その情報が事前に漏れていたという ことだ。相手の企業の名は、しかし極秘にされていてこれはとうとう突き止められなか った。だが、出資銀行というのが…」
「若林の家のってわけだな」
 若島津は腕を組んだ。ヘフナーは前髪の下からちらりと目を覗かせてうなづく。森崎 だけが話の急な展開にうろたえていた。
「え? じゃ、じゃあ…」
「もちろん話がこれだけなら偶然ってものに感心してれば済む。オレもゆっくりチーム の連中と来日できたんだ。だが念のためにワカバヤシのところに電話を入れたら通じな かった」
「いつだ」
「28日。夕方と夜の2回だ。どちらも出なかった。――そして翌日29日、ヤツのア パートの部屋が爆破された」
 二人は凍りついた。昨日の夜の若林の声がまた耳元に蘇るような気がした。
…「キ・ケ・ン」と。




                       ―― 第一章・おわり ――





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二章トビラ