二章−1




第二章 夜を駆ける






「なあ、俺たちどう動けばいいんだ、一体…?」
 ベッドで横になって目を閉じているヘフナーに遠慮してか、森崎は声を低めて窓辺に 立つ若島津に呼びかけた。ヘフナーは一言、「しゃべり過ぎた」と言ってベッドに倒れ 込んだのである。靴のまま仰向けに大の字になっている。もっともこのベッドでは彼に は小さすぎて足の先の分だけ宙に浮いているのではあったが。
 若島津が答えないので森崎はヘフナーに視線を戻した。目を閉じてはいるが眠ってい るわけでもなさそうだった。やはり母国語でもない英語で込み入った話をするのはヘフ ナーとて疲れないわけにいくまい。森崎は知らなかったが、先ほどのヘフナーの発言量 はふだんの彼の1ヵ月分くらいに相当するものだった…(と、推測される)。
 若島津はさっきからヘフナーのメモを読んでいた。若林が乗ったという434便に関 したいくつかの事項が読みづらい字で書きつけてある。ついでにドイツ語であったりす るのでほとんど暗号解読である。
 フランクフルト発、次にハンブルク――若林はここで搭乗。これが夕方の4時50 分。つまりアパートの爆破の時刻には若林は既に機上の人だったわけだ。シベリア上空 を越えて成田に着いたのが予定より1時間近く遅れての5時40分。入国審査に税関を 通って何やかやで、外に出たのは6時をはるかにまわっていたはずだ。
「すると――若林が俺たちに危険信号をよこしたのは成田に着いてそんなに経ってない 頃ってわけか」
 突然若島津が声に出したので森崎が驚いて視線を戻した。
「『キケン』たってなあ、それだけじゃなんのことだか…」
「若林さん自身に危険が迫ってたのか、それとも俺たちに…。どっちかじゃないの か?」
 ぼやく若島津に森崎は不安げに応じる。
「ワカバヤシはたびたびおまえらにこういう通信を送るのか?」
 二人がベッドのほうを振り向くと、ヘフナーは仰向けに天井を見上げたまま腕組みを していた。
「いや、ふだんは全然。この夏に一緒だった時に2、3回あったけど…。なあ?」
 若島津も軽くうなづいた。実際に「力」を持っているのは若林のほうであり、自分た ちはそれを受けるだけでこちらから発信をすることはできない。もっともただ受けるだ けと言っても、このヘフナー言うところの「受信能力」はゴールキーパーである彼らに 限られたものであって、それ以外の者には若林の力を持ってしても伝えることはできな いのだ。
「俺は心配なんだが…」
 顔のどこにもそういう感情を表わしていないヘフナーが口を切った。
「もしワカバヤシの身に何かが起こって、それを身内に伝えなきゃならん状況にいるの なら、その後のことも含めてもうとっくに何か連絡して来てもいいんじゃないのか」
 遠慮のない若島津は、その言外の意味を受けてあっさりと口に出す。
「つまり、それすらできない状況――たとえばあの世にいるとかってことか」
「なっ…!!」
 全日本チームの某コーチ兼任選手なら心臓を押さえて立ちすくむところだが、あいに くもともと心臓のない森崎である。それすらできずただ真っ白になってしまった。無 口・無愛想・無表情の三無主義で定評のあるこちらの二人はそれを見捨てて話を続け る。
「第一、おまえらが聞いたという『キケン』の言葉だが、あのワカバヤシにしちゃずい ぶん舌足らずだと思わんか」
「すくなくとも俺たちより雄弁なはずだ、あいつは」
「ということは、それだけを伝えるのがやっとだった…」
 話の方向がどんどん暗くなっていく。
「ヘフナー、お得意の鼻は利かんのか」
「それなんだが、成田に着いてからの道中ずっと気をつけてはいたんだが、何も引っか かって来ない」
「この近辺にはいないってことか…」
「それとも生体波そのものが既に途切れているか」
「――やめろよ! 若林さんを勝手に殺すなーっ!!」
 突然反撃に出た森崎だった。肩で息をしつつ二人を睨みつけている。これでひるむ相 手なら森崎も苦労はしないだろうが、いかんせん相手は東西二大妖怪だ。
「お、もう正午だ。ニュースを見よう。若林が出るかもしれん」
 ということで森崎の主張はあっさりと流された。腕時計に目を落とした若島津の提案 であったが、その言葉の意味を飲み込むのが一瞬送れた森崎が再度抗議しようとした時 には二人はさっさと背を向けて部屋を出て行こうとしていた。テレビは階下の食堂にあ る。森崎も急いで後を追った。
 期待はしていなかったが、テレビのニュースはいたってのんびりと各地の歳末風景を 映し出しているばかりで、血なまぐさい話題と言えばアンコウの吊るし切りの紹介くら いであった。ヘフナーは大層な賑わいを見せるアメ横や錦市場の様子を興味深そうに眺 めていたが、アナウンサーがお辞儀をしてスタジオの引き映像にエンディングテロップ がかぶさると「はは…」と低い笑い声を漏らした。森崎がギョッとして椅子から腰を浮 かしかける。
「何か可笑しかったか?」
「お辞儀をした。さすがオリエンタル・マジック」
 尋ねる若島津にわざとこういう単語を使うところが只者ではない。黙り込んだ若島津 の目が一瞬キラリと光った。それにしてもアナウンサーのお辞儀のどこが珍しいという のだ…。二人の日本人少年は顔を見合わせた。日本以外の国でもお辞儀くらいするんじ ゃないのか? …自信はないが。
 ともあれ一応笑えることを証明してみせたヘフナーが立ち上がった。
「昼メシにしないか」
「ああ、じゃ、出るか」
「せっかくだから日本食を食いたいが」
「そばだけはパスだからなっ!!」
 森崎のトラウマは深かった。





 関東地方にはこのところ10日連続で異常乾燥注意報が出ている。舗装された路上と はいえ、上がった土煙はもうもうたるもので、若島津にはすぐそばに転がっている二人 の姿すらすぐには確認できないほどだった。
「おい、命あるか?」
「うん、一つは…」
 むせながらの返事にしてはなかなか元気な森崎だった。そのさらに向こうでヘフナー がむっくり体を起こす。自慢の前髪に砂ぼこりが降り積もっている。彼はコートの胸の あたりをパタパタはたきながら寒心したように言った。
「日本は車は左側通行だったな」
「ああ。しかし道路の真ん中にこんなもの放り出していいなんてことは道路交通法には ないぜ、日本だって」
 若島津の言うところの『こんなもの』とは、どでかい、重そうな建材らしき鋼板であ る。彼らが合宿所の門を出て間もなく、後方から大型トレーラーが猛スピードで迫って 来たかと思うと追い越しざまにはた迷惑な落し物をしていったのだ。さすがにそれぞれ の国の代表として選ばれているキーパーたちである。相手がボールであろうと何トンも ありそうな鋼板であろうとみごとに反応してみせたわけだ。
「落としたことに気づかずに行っちまうにはモノがモノだけに…」
「どうやら、わざわざ俺たちにプレゼントしてくれたみたいだな」
 のんびりした口調でしゃべりながら三人はようやく立ち上がった。一応どこもケガは ない様子だ。鍛えられているのは体力だけでなく肝っ玉もらしい。なにしろ普段やって いるサッカーがサッカーだから、多少の異常事態ではいちいち驚いていられないのだろ う。
「ヘフナー、おまえ尾けられたんじゃないのか?」
「目立たんように来たつもりだが」
 自分ではそのつもりでも、180cmをはるかに超える長身とあの独特な風貌を目立 たせずにおくことなど所詮無理な話だ。成田のグラウンドサービスで前日の便のことを こまごまと尋ねてまわっているこの男に注意を向けたのもその道のプロならずとも当然 のことだったろう。ヘフナーを追及することは諦め、若島津は嘆息と共に宣言した。
「これで『キケン』な状況にいるのは若林だけじゃないことがわかったわけだ、とにか くも」








 ドアが閉まり銀座線の電車が日本橋駅のホームからすべり出しはじめると、森崎は少 し離れて立つ若島津とヘフナーの顔を不審げに窺った。確かここで降りるはずではなか ったか。
 若島津はそんな森崎の疑問は見越して、視線は外したまま微かにうなづいてみせた。 そして髪をかき上げるしぐさにカムフラージュして、さっと背後を指で示した。
 森崎ははっとした。しかしなるべく表情に出さないように努力しながら、電車の揺れ によろけたふりをして向きを変えた。
 外の暗さを背景に窓ガラスには車内の風景が映っている。若島津が指し示した方向、 つまり自分たちが二手に分かれて立っているドアとは反対側のドアのそばにダークグレ ーのオーパーコートを着込んだ金髪の外国人が体を半分こちらに向けて立ち、さりげな く、しかし注意深くこちらを見ていた。
 検見川の路上でホコリまみれになった後、三人は結局あわただしく昼食を済ませて合 宿所を後にし、東京に戻って来た。とにかくあそこで訳もわからないまま標的にされる よりは、ヘフナーが若林の所在を嗅ぎ付ける可能性を求めて心当たりの場所を当たって いこうということになったのである。しかし、こちらがなんとかなる前にもう追っ手が 貼り付いてきたとなると…。
 森崎は前途の暗さに思わず肩を落とした。これでは、さあキックオフだと思った途端 にゴールを許したようなものではないか。彼は決して悲観主義者ではなかったが、14 年間生きてきた中で、物事がどうも自分の前まで来ると妙にねじくれて災いを呼び込む ような気がしてならないのだった。
 京橋を過ぎ銀座の駅に着くと、森崎と後の二人の間で開いたドアをどやどやと人が降 りまたどやどやとその倍近い人々が乗り込んできた。車内は一気に混み合う。特に入り 口付近は人がたまりやすくて、三人のキーパーたちと謎の追跡者との間にはちょっとし た人の壁が出来上がった。しかしその分だけ相手は警戒色を強めたようで、今度はまっ すぐに彼らのほうを向いて、三人のちょっとした行動にもすぐ対応できるような態勢に 入ったようだった。
 次の新橋でも虎ノ門でもドアは進行方向の左側、つまり追跡者の立つ側のドアが開い たので彼もややリラックスしている様子だった。これなら自分を出し抜いて下車するこ とは不可能だと見たのだろう。やがて、聞き取りにくいアナウンスの後、電車は赤坂見 附のホームにすべり込んで来た。
 今度開いたのは少年たちの側のドアである。またも大勢の客が降り、同じくらいの数 の客が乗った。ここは丸ノ内線との連絡駅で同じホームの反対側に赤いラインの電車が 入って来るところだった。その到着は待たずにこちらの電車はプシューッという排気音 を合図にドアが閉まる。緊張をみなぎらせて身構えていた男は三人が動かないままこの 駅もやり過ごすのを見てようやく気を緩めたらしかった。
 その瞬間だった。
 閉まりかけるドアの扉に、ヘフナーがすっと足先を突っ込んだ。ドアはまるで生き物 のようなあわて方で排気音を出して再び開く。ヘフナーはこれを実にそっけなく、視線 は前に向けたまま他人事のようにやってのけたので、向かいにいた森崎もドアが開いた 原因がヘフナーの仕業だととっさにわからなかったくらいだった。あっと思った時には 隣から若島津に腕を引っ張られてドアの隙間をすり抜け、ホームに立っていた。
 その後を追うようにドアはピシリと閉じる。走り出した電車の窓越しに追跡者があわ てて駆け寄る姿が見えたが、そのまま電車はホームの向こうに消えて行った。
「達者でなー」
 ぼそっとヘフナーがつぶやく。
「今の――ヘフナーがやったのか?」
 まだあっけにとられている森崎の問いに、若島津がにやりとうなづいた。ヘフナーは 電車が走り去ったトンネルの暗がりの先から視線を戻して向き直り、少し情けなさそう に自分の右足を見下ろした。
「俺の靴が――幅が狭くなっちまったみたいだぜ」
「中身もじゃないのか?」
 珍しく面白がっているふうに若島津がからかう。反対側の丸ノ内線に着いた電車から ぞろぞろ降りてきた乗客たちがこの目立つ三人組をちらちら見ながら行き過ぎていく。 若島津は真顔に戻った。
「よし、下のホームだ」
 ホームの階段を駆け下りるとまたさっきとそっくりなホームがあり、ちょうど反対方 向の銀座線の電車が入って来るところだった。
「よし、うまいぞ。これならヤツが次の駅で引き返すタイミングより早い」
 渋谷方面の一つ先の駅になる青山一丁目はここ赤坂見附とは距離がある。確かにさっ きの今であの追跡者がこの電車に間に合ったとは思えない。
「それに俺たちが向かうのがこの銀座線かそれとも丸ノ内線かさえわからないもんな、 アイツには」
「ここの上りと下りとだけで4通りだからな」
 三人は浅草方面行きの電車にゆうゆう乗り込み、今度こそ最初の目的地、日本橋に向 かったのだった。





 通称ティーキャット(TCAT)と呼ばれる、ここ東京シティエアターミナルは、大 晦日の午後だというのに多くの旅行客でごった返していた。出発便の集中する時間帯に 当たるのは確かだが、正月を海外でという風潮は既にここまで定着していることを確認 して、彼らは改めて感心してしまった。
「なあ、大晦日に出発すると年越すのって飛行機の中になるよな。日付変更線を越える 便だとさ、二回年を越したり、今年と来年を行ったり来たりなんてあるのかな…」
「俺が知るもんか」
 3Fから降りるエスカレーターの上で森崎が持ち出してきた素朴な疑問に若島津は顔 をしかめた。この会話は日本語だったので、ヘフナーはいつもの無表情な顔で他人にな りきっている。
 日本橋では結局収穫はなかったので彼らは若林が成田から利用したかもしれないこの ターミナルにもついでに足を伸ばしたのだ。日本橋には若林家の持ち会社の一つの本社 があって叔父に当たる人が社長をしているのだが、さすがに31日の午後では当直担当 者がいるだけで、若林がここに立ち寄るか連絡をとったという形跡は突き止められなか った。その社長もクリスマス前からオーストラリア出張中ということであったし。
 このターミナルと成田空港を結ぶリムジンバスは3階から発着しているのでまずはそ こまで行ってみた三人だったがやはり手掛かりはなく、落胆と共にこうして1Fに戻っ て来たところだった。さて、次に打つ手は…。
 そんな若島津と森崎の視線を受けてヘフナーはただ肩をすくめる。
「昨日ここに着いてそのままヤツが居残ってるなんて思うなよ?」
「まあな。それに時間的に考えて、成田からすぐリムジンバスに乗ったとしてもあいつ の危険信号はここに着くよりも前って計算になるしな」
「じゃあ、ここもボツってわけか…」
 肩を落とす森崎を見やったヘフナーは、突然その肩越しに向こうを指差した。
「おい、あれ!」
 二人が振り返ると、そこにはターミナルのオフィスがあってその受付カウンターの内 側に所在無げにぽつんと置かれた小型の革製トランクが見えた。
「…ワカバヤシのだ」
 断言するヘフナーの言葉にぽかんとした空白ができたが、顔を見合わせた瞬間、三人 はカウンターに向かって突進した。
「……ええ、昨日の19時35分着のバスですね」
 いきなり飛び込んで来た三人組の勢いに、カウンターの女性はたじたじとなったが、 よく見ればなかなか見栄えのする少年たちである。すぐに気を取り直して愛想よく対応 してくれた。
 リムジンバスでは手荷物はタグをつけて車体下部のスペースに積み込むことになって いる。TCAT到着後にターンテーブルに載って出てくるので各自引き取ることになる のだが、その中に一つ最後まで引き取られなかったトランクがあったわけだ。
「ご本人ではないんですか? クレームタグもお持ちでない? 困りましたわね…。え ーとじゃあ身分証明書を見せていただけますか。ここに住所とお名前と印鑑を…、あ、 拇印でもいいですわ」
 最初少し難色を示していた彼女だが、若島津がしおらしくすみませんと頭を下げ、思 いっきり奮発した笑顔を見せたので結局折れてくれた。隣でそれを見ていた森崎はその 見事な演技力に呆れつつ感動したほどだったが、所定の用紙に記入して生徒手帳をお姉 さんに示し、ようやく唯一の手掛かりとなる(なってほしい)トランクを受け取った。
「しかしだな、この中身ぶちまけて本当に何か手掛かりになるのか?」
「やってみなきゃわからんぞ。駄目でもともとなんだ」
「でも、こんなとこで?」
 オフィスから出ながら今にもトランクを開けてしまいそうな勢いのヘフナーに、おず おずと森崎が現実的な疑問を口にした。確かに場所柄、荷物を開けてごそごそしていて も旅行客が中身を確認していると見てもらえるかもしれないが、この目立つ顔ぶれでそ れが穏当かどうかは疑問である。何より、今もしつこい追跡を受けているさなかだとい う事実がある。
「よし、俺に当てがある。タクシーで行こう」
 若島津が言いつつ先に立って歩き始めた。ヘフナーが大股で後に続く。人込みをかき 分けながらトランクを提げてそれを追う森崎は、こんな自分たちが他人からはどう見え ているのかひどく気になってきた。
 自分が3年間籍を置いているチームが全国大会三連覇という――結果よりその内容が 問題なのだが――とんでもないチームだというのは事実だが、自分ではごく目立たない 普通の中学生のつもりだし、実際陰に隠れるには格好の人物がキャプテンとして存在し ていたおかげで大抵の場合皆に忘れられて無事に過ごしてきた。(試合中は別だが…)  しかし、何の成り行きか行動を共にすることになってしまったこちらの二人は、同じ ゴールキーパーながら自分とはまったく正反対の、目立つためにそこにいるような方々 である。方や地味の派手好きの空手屋の兄さん、方や派手の地味好きのオカルトじみた 大男のドイツ人。見栄えもするし、中学生にはとても見てもらえそうにない体格と自信 に裏打ちされた貫禄をたっぷり身に付けている。俺はどうせ地味の地味好きさ…と森崎 は心の中で自嘲した。それにしても、普通の中学生でいることがこんなにも罪悪みたい な世界にどうして入り込んでしまったのだろう。
 タクシー乗り場の列にしばらく並んで三人はやっと一台に乗り込んだ。
「広尾へお願いします」
 若島津の指示でタクシーはぐいーんと加速をつけて発車した。助手席に乗り込んでい るヘフナーの前髪がゆさゆさ揺れる。
「変な気分だ」
 珍しく浮かれた口調である。
「何が?」
 その真後ろに座る森崎が尋ねた。
「ドイツだと右ハンドルだからな。ここに座っていると運転席にいる感覚なんだ――わ ーっ!」
 話の途中でヘフナーが大声を出した。交差点に入ったタクシーが大きく右折しただけ なのだが。運ちゃんが変な顔でこわごわとこの外人客を見やる。若島津がたしなめる口 調で声を掛けた。
「何を騒いでるんだ」
「…こ、これはすごい。ジェットコースターだ、まるで。…うわっ」
 今度は左折だった。ヘフナーは反射的に両腕を上げて顔をかばいながら声を上げる。 「――あー、ぶつかるかと思った。はは」
「喜ぶなよ」
 習慣というのは怖いもので、いったん身についてしまった感覚はそう簡単に順応でき るものではない。理屈でわかっていても、長年それを当然としてきた感覚で次はこうな るという予測があっさり裏切られていく居心地の悪さはどうしようもないのだ。逆に自 分もドイツでタクシーに乗って似た経験をしている若島津は、そのひやひやした錯覚を 思い出してヘフナーのその反応に苦笑した。
「それはわかったから、若林のアパートの爆破の件を詳しく聞かせてくれ」
「そうだよ、なんで若林さんがそんな目にあったんだ?」
 二人に真剣に言われてヘフナーはちらりと後部座席に目をやった。
「実際にはどの部屋が狙いだったのかは不明だと警察は発表してる。アパートの半分ほ どが吹っ飛んでしまったからな。ワカバヤシの部屋は3階なんだが、爆弾は階段に仕掛 けられていたそうだ。手口はテロを思わせるが今のところ犯行声明のようなものは出さ れていないし、アパートの住人たちにテロで狙われるような背後関係もないってことで 警察の捜査も行き詰ってるらしい」
「…で? 報道はともかくおまえはどう見てるんだ」
 ヘフナーの話の歯切れの悪さに何かの含みを見てとった若島津がその先を強引に促し た。
「その前日に電話をしたと言っただろう? 通じなかったのが気になったから29日の 朝にやつのクラブオフィスに問い合わせたんだ。するとクリスマス休暇以来クラブには 顔を出していないって話でな。あの練習の虫がだぞ。てことは少なくともやつが日本に 向かう4日前には少なくとも何かの異常事態が起きてたと考えられる」
「自宅にもいなくてクラブにも行ってない…。てことは若林さんはどこにいたんだろ う」
「…ヘフナー、はっきり言えよ。何をつかんでるんだ」
 一人でつぶやきかけた森崎は若島津が突然口を開いてそう決めつけたのでギョッと顔 を上げた。見ればヘフナーはやなり動じることなく前方に目をやったままあごをなでて いる。
「俺は今ケルンに住んでいる。ドイツの中では中部に当たる。俺の力を使えばドイツ内 のたいていの場所は探れる。特にワカバヤシほどの『力』の持ち主なら間違いなくな」 「なら、どこだったんだよ!」
 じれた森崎が思わず声を上げた。ヘフナーの座席の背に掛けた両手にもぐっと力がこ もる。若島津は運ちゃんがさっきからこの三人の英語の会話に戸惑いつつ何か言いたそ うにしているのに気づいた。森崎の肩をたたいて会話を一度止める。
「え、ええっと、何丁目のほうですかね?」
 口をはさむタイミングを待っていたらしい運ちゃんはやっとという感じで質問した。 「5丁目ですけど、南麻布のほうから入ってってください」
 運ちゃんはうなづいて車線を変えた。ヘフナーが背後を見る。
「ワカシマヅ、当てというのはどこなんだ?」
「話をそらすなよ!」
「俺の兄貴のマンションだ。正月は留守になってるから、とりあえず今夜の宿にいいか と思ってな」
 一人であせっている森崎をよそに二人がやり取りする。
 その時だった。
「おやっ?」
 運ちゃんが首をかしげる。
「すいませんね、ちょっと停めますよ」
 タクシーを脇に寄せて運ちゃんは車を降り、ぐるりと歩道側に回って左側のドアミラ ーを覗き込んだ。三人も何事かと車内から注目する。見ればドアミラーが大きく角度を 変え、あらぬ方を向いている。
「変だな――何だってこんな…」
 運ちゃんがミラーの端に傷があるのに気づいて顔を寄せたその時、突然の大きな衝撃 が彼の体をタクシーのボディに叩きつけた。一度宙に浮いてからずるっと路上に沈む。 「銃だ――モリサキ!」
 一番近くからそれを目撃したヘフナーが叫んだ。後部ドアを大きく開け放つよう森崎 に指示し、自分は車外に飛び出す。そして素早く、しかし細心の注意を払って運ちゃん を抱え上げると、森崎の開けたドアを盾にしつつ車内に運び入れた。続いて自分も中に 飛び乗って運ちゃんを乗り越えるように運転席に座を占める。その巨体からは信じられ ないほど機敏な行動だった。
 ただただあっけにとられる森崎の耳に、その時妙な音が届いた。ヒュン、という空気 を切る音である。
「伏せろ!」
 隣から若島津が飛びついて二人で座席に倒れ込む。その森崎が体を伏せたまま上目遣 いでドアに目をやると開け放ったそのドアのど真ん中に焦げた穴が開いているのが見え た。
「ひえっ、ほんとに銃だ〜!」
「早く閉めろ!」
 背後から若島津に怒鳴られても体が竦んで動けない。やむなく若島津が腕を伸ばす。 が、それより一瞬早くドアが動き、バタンと音を立てて閉じた。虚を突かれた若島津が 振り向くと、運転席のヘフナーがこちらを向いてにやっと笑った。
「日本のタクシーは便利なんだな。自動ドアとはね」
 TCATを出る時に運転手が操作していた自動ドアのスイッチを隣から興味津々で観 察していたヘフナーの好奇心が役に立ったようだ。ちなみにドイツのタクシーはドアの 開閉は手動なのである。
「あ、あそこだ!」
 さっきまで腰を抜かしていたはずの森崎が後部座席の背からそっと覗いて向こうを指 差している。このへんの切り替えの早さはさすが南葛と言うべきだろうか。呆れつつも 若島津はその指す先を見る。タクシーから100メートルほど後方、高速の高架下に黒 塗りのご立派なオースチンが停まっていた。暮れ始めた薄闇を通して、窓から身を乗り 出している人物が見える。その手にあるのは…。
「わっと!」
「うわ!」
 その銃口が赤く光ったと思った瞬間、タクシーの頭上に不気味な衝撃があって車体が 揺れた。鋭い音を立てて標識灯の破片がボンネット方向にを飛び散る。
 森崎と若島津は首をすくめ、目を合わせる。
「じょ、冗談だろ、東京のど真ん中で発砲ざたなんて…」
「俺はこういう冗談は嫌いだ」
 再び顔を覗かせると、オースチンがちょうど柱の陰から車道に出ようとしていた。
「あっ」
 だが車が移動を開始しても狙撃はやんでくれるわけではなかった。またも車体に衝撃 を感じて森崎は頭を引っ込める。





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