二章−2 夜を駆ける







「…ええと、やっぱり狙われてるのは俺たちかな」
「このタクシーの車体が欲しいなら喜んでくれてやるがなあ、この破壊っぷりから見て 違うほうに賭けるな、俺は」
「若林さんちが爆破されたのが殺人未遂なんだったら今のこれも殺人未遂…?」
「未遂で終わればな」
 事が自分自身に関わることでも、若島津の過激さは変わらないようだった。思わず森 崎が言いよどんでしまったその時、タクシーのエンジンがかかって車体が振動し始め た。
「ヘフナー?」
「連中が追いつくのをここで待ってやる気はないだろ。こっちもそろそろ行くとしよう ぜ」
 二人があわてて身を起こそうとしたとたんタクシーは急発進した。二人ともどっと座 席に倒れ込む。若島津の下敷きになりかけた森崎がうめいた。
「…若島津、ひ、ひじっ」
 体勢がほとんどネックブリーカーになっている。体重が全部かからなかったのが幸い だった。なにしろ若島津の得意技だっただけに、事実これまでにも試合中に数多くの犠 牲者が出ているのだ。
「おい、ヘフナー、おまえ運転できるのか?」
「うーん、できるとは思わなかったが、現に車は動いている」
 ヘフナーの言葉の通り、確かにタクシーは走っていた。しかもものすごいスピード で。
「国際免許持ってるとか?」
 やっと身を起こした森崎が尋ねる。
「まさか。国内でも持っていないのに」
「ヘ、ヘフナーっ!!」
「せめてスピード落とせっ!」
「いいのか? やつら追いつくぜ」
 振り返って見れば、オースチンも負けじとスピードを上げてまっしぐらについて来 る。
「追いつかれる前に激突死、なんてごめんだぜっ!」
「そうか? じゃ…」
 言うと同時にヘフナーはさりげなく急ブレーキを踏み込んだ。タイヤが軋り、後ろの 二人は今度は前の座席の背に頭から突っ込んだ。
「いて…っ」
 彼らが抗議の声を上げるより先にヘフナーは再びアクセルを踏み込み、と同時にハン ドルを大きく切る。
「わああっ!」
 座席から転げ落ちそうになるのをかろうじて耐えた二人は、今度はしっかり抱き合う かっこうになった。若島津の長い髪が森崎の顔にかかる。柑橘系の甘い香りが鼻をかす め、思わず森崎は顔を赤くしてしまった。
「何やってんだ、ヘフナー!」
 抱き合う腕もそのままに顔だけ振り向けて若島津が怒鳴る。
「とりあえずいろいろ。…おーっと!」
 車は高架下の分離帯を越えて反対車線に飛び込み、今来た方向に逆戻りしかけたが、 勢い余って歩道に片足乗り上げたままガタガタガタッと突っ走り、それを元に戻そうと ハンドルを切ったところが今度は右側に回り過ぎて隣の車線の軽トラックにありったけ のクラクションを浴びせられてしまった。
「う〜ん、何だろうなこれは」
「自分でやっておいて関心するなっ!」
「思ってた以上に右・左の感覚が違っててなあ。どうも左側通行ってのは調子が狂う ぜ」
 これが左右の感覚だけの問題だろうか。今度は前を走る小型車を追い越したはいい が、元の車線に戻る代わりに追い越し車線よりさらに右に針路を向けてまた高架下に飛 び込んだのだ。高架の柱をよけようとして左にまわり、まわりすぎて逆にハンドルを切 れば次の柱の右っ側に飛び出す…といった按配で、要するに柱をジグザグにまわるドリ ブル練習状態になっているのだった。
 考えてみれば見事なドライビングテクニックだったが、問題はこれは意図してのもの ではなくむしろその逆だという点だった。
「ヘフナー、道路を走れ!」
「そうしたいのはやまやまなんだが」
「め、目が回る…」
 ヘフナーの暴走運転と若島津の抱擁とで、森崎は既に失神寸前だった。だがおかげで 銃撃はいまのところやんでいる。オースチンもかろうじて彼らの追跡を続けているもの の、これでは狙うことさえできないのだろう。安心ついでに――これが本当に安心でき る状況かどうかはともかく――大事なことを一つ思い出した若島津だった。
「なあ、運ちゃん大丈夫なのか?」
 森崎の体に回していた腕をようやく解き、助手席側にぐったりしたままの運ちゃんを 覗き込んだ。ようやくここで自由になった森崎も大きく一つ息を吸って同じように向き 直る。
「俺は忙しい。代わりに見てくれ」
 言いつつ、右に左にヘフナーはハンドルを切り続ける。その切り方が過激すぎるのだ という自覚にどうも欠けているらしい。歩道と仲良くしたかと思うと反対車線を逆行し たりで、交通量の少な目の大晦日の道路なのがせめてもの救いだった。この上わき見運 転などさせたらとんでもないことになると見た若島津はあっさりこのにわか運転手を見 捨てて本来の運転手のほうに注意を向けた。
「ここだな、太ももをかすってる」
「痛みで気絶してるのかな」
「いや、倒れた時に後頭部を打つかして脳震盪を起こしてるんだと思う。一応止血して おこう」
 包帯がわりのものは…と見回して後部座席の白いカバーを外した若島津は一息にそれ を引き裂いた。弾創の上に当て布をしてやや強く押さえた後、ぐるりと巻いて固定す る。若島津の手元を横から覗き込みながら心配そうに森崎がつぶやいた。
「早く病院に運んだほうがいいよね」
「――気の毒なことをしたな。俺たちを乗せたばっかりにとばっちりで」
 日本語の会話は分からないはずのヘフナーが口をはさんだ。
「とばっちりなら俺たちだってそうだよ。しかも命まで狙われるって、有りなのか?」  横揺れに縦揺れ、遠心力、さらに慣性の法則に負けないように座席の背もたれにしっ かりしがみつきながら森崎がこぼした。
「…ワカバヤシがいたのはドイツじゃなかったんだ」
「えっ?」
 唐突なヘフナーの発言に森崎と若島津が顔を上げる。タクシーはうろうろ周った挙句 に首都高速に乗っていた。スピードがぐんと上がる。ヘフナーはやっとまっすぐ進みな がら目は前方に向けて言葉を継ぐ。
「俺が二日前に嗅ぎ当てたヤツの居場所はな、北海の上だったんだ」
「…北海?」
「船の上さ。ハンブルクとイギリスのハリックを結ぶフェリーだ。ヤツはイギリスから ハンブルクに向かっていた」
「てことは、若林はイギリスに行っていたってことか」
「そうなるな。時間的にはハンブルクに戻ったその足で空港に向かって今度は日本行き の便にのったんだろう」
「イギリスに何の用があったんだろう。それに飛行機じゃなくわざわざフェリーを使う なんて…」
「カムフラージュ、てとこか」
 若島津が口を開いた。
「カムフラージュって?」
「おそらくは、追っ手の目をくらますためだ」
 ヘフナーがうなづいた。
「追っ手って、最初に言ってたあの株価の話と関係があるのか?」
「それに、そうだとしてもここまで話が物騒になる理由もわからん」
 森崎、若島津ともにまだ納得がいかない様子だ。
「俺にもそこはまたわからん。ただ。この事件には経済界、証券界だけでは片付かない 何か大きなものが隠れている気がする。ワカバヤシはそれに巻き込まれたんだ」
 ヘフナーの口調は重かった。何より、今現在の若林の所在をどうしても嗅ぎ当てられ ない自分自身にいらだっているのだろう。
「うわっ!」
 彼らの会話に飛び込んで来たのは、文字通り一発の銃弾だった。びしっという鈍い音 に振り返ればリアウィンドウのど真ん中に穴が開き、一面に細かいひび割れが走ってい る。
「頭引っ込めてな」
 ミラーで追跡車を覗きながらヘフナーは平然とアクセルを踏み込む。左右の感覚だけ でなく、スピード感覚も日本人の常識とは一致しないようだ。なにしろ速度制限のない ことでかつて知られたドイツの高速道路網、アウトバーンである。時速120kmでも ノロノロ運転と見なされてどんどん抜かれて行ってしまうのだ。
「今どこ走ってんだ?」
「ヘフナーにだけは訊くな。その気になってドイツ大使館の玄関先に突っ込みかねん」  冬至を過ぎて間もない時期である。わずかの間に暮色が濃くなって窓の外を流れて行 く都心の風景には灯がともり始めていた。こんな場合でさえなければこれはこれでなか なかに風情のある光景だったろう。が、現実には、左に右にと揺すぶられる車体、タイ ヤの軋る音、次々に浴びせられるクラクションが、自分たちの置かれている状況を如実 に物語っていた。何より、先ほどから執念深く迫ってくるオースチンにはこちらに照準 を合わせたままの消音器付の銃があるのだ。黒い箱型のその車体は、だんだんと西洋風 の棺桶にさえ見えてくる。
「あそこ、何だ?」
 森崎の指差す先、進行方向の右前方にはあかあかと灯をともす高層ビルがそびえてい た。
「アークヒルズだな。ヘフナー、その先で左車線に入れ。高速を下りるんだ。このまま だと目的地から離れるばかりだ」
「よし、高速には飽きてきたところだ。このままじゃヤツらを振り払えんしな」
 今やヘフナーはずいぶんと楽しんでいるふうであった。車線をジグザグに行き来して は他の車の間をすり抜けていく。確かにほんの数十分前に初めて車を動かした時と比べ ると上達してしまったようだ。何事も実践である。
「あいつらも大概しつこいな」
「これがメシの種なんだろう。ご苦労なこって」
「さっき地下鉄にいたヤツかな…」
「さあ、暗いしな、この距離じゃちょっと見えん…おっと!」
 若島津が向きを変えようとして足元のトランクを蹴飛ばしてしまった。森崎が手を伸 ばして拾い上げ、改めてまじまじと見る。
「でもこれ鍵がかかってるだろ、どうすんだ?」
「ワカシマヅが叩き割ってくれるさ」
 ヘフナーはどうも本気らしい。若島津は思わず宙を見つめてしまう。身から出たサビ と言われればそれまでだが、東洋の神秘などという表現で未知のものに勝手な期待と崇 拝をしてしまう欧米人の先入観にはこれまでもさんざん嘆息してきたのだ。しかしこの ヘフナーにここまで言われてしまうと変に義務感なぞ覚えてしまったのか、そのトラン クを膝に乗せてロックの具合を確認する若島津だった。
 森崎も横から心配そうに覗く。
「鍵はやっぱり若林さんが持ってんだよな…」
「ええい、若林! 隠れてないで何か言ってこい! 俺たちばかりわけもわからずに追 い回されて…」
 普段無口で物静かだからといって、性格が穏やかとは限らないのだ。それはこの若島 津を見ていればよくわかることだった。森崎は一瞬、本当にトランクが真っ二つになる のではと身を引いてしまった。生命の危険がどうのよりもこの「わけもわからずに」と いう点が若島津をとことん苛立たせているのだった。実のところ若島津は基本的に短気 な人間なのだ。それを普段外に出さないのは精神修養によってコントロールしていると いうより、単に面倒だからに他ならないのだったが。





「ヘフナーっ! 左へ戻せーっ!!」
 車体が突然左に傾いだ。鈍い摩擦音とともに片側へ横滑りしていく。
 若島津の叫びはしかしヘフナーには届かない。ヘフナーは大きな体をハンドルにかぶ せ、全身の力で方向を立て直そうとしていた。
 ぐるーっと車外の風景が回る。次の瞬間――
 前方から強い衝撃。
 しかし車はまだ止まらなかった。ガードレールを斜めに突き破って背の高いコンクリ ート壁に車体の右側から突っ込む。
 ガリガリと嫌な音を立てながらなおも数メートル進み、そこでようやく動きが止まっ た。最後まで諦めず、道路に対して進路を平行に保とうとハンドルにしがみついていた ヘフナーの執念が結局激突という事態から彼らを救ったのだった。道路がちょうどゆる い登りにかかっていたのも幸運だった。100km近くのスピードを出していながら、 タクシーは大破することもなく車体の右前方から右側面にかけて大きな傷を作っただけ の状態で壁に対してほぼ真横に停まっていた。
「…森崎?」
 若島津が顔を上げると目の前に森崎の背中があった。彼自身逆さになったかっこうで 全部座席との間に頭からはまりかけていたのだが。
「…だ、大丈夫。どこかぶつけたみたいだけど」
 背中が答えた。声は案外しっかりしている。ほっとした若島津は左腕で体を支えてよ うやくその狭い隙間から体を起こした。最初にドアかどこかで頭をしこたまぶつけた気 がするが、別にどこもこれといった怪我はしていないようだった。森崎も続いて起き上 がり、座席に体を戻すと大きく息をついた。
「すまん、ちょっと止まり方が派手すぎたな」
 ヘフナーはハンドルの上に覆いかぶさっていた。顔を伏せたまま低い声でうなる。
「なんの、見事だったぜ、ヘフナー」
「そうだよ、みんな無事だ、怪我もないし」
「タイヤを撃たれたんだな」
「そのようだ」
 ヘフナーは頭を大きく一振りして身を起こした。見ればシートベルトはしっかりと装 着している。あの大変な中きちんと法律を守るとは、と後ろの2人は感心したが、この 場合これがヘフナーを助けたのは間違いない。
「おい、来るぞ!」
 身を起こしざまバックミラーに目をやったヘフナーがそれに気づいた。ライトが近づ いて来る。先ほど一度まいたはずのオースチンはいきなり正面から現われてすれ違いざ まタクシーのタイヤを狙ったのが命中したのだが、一度後方に走り去ったオースチンが Uターンしてこちらに迫ろうとしていた。
「どこなんだ、ここ」
 ドアを開けて森崎がきょろきょろと見回した。夕闇に包まれた塀や立木に囲まれた閑 静なたたずまいは高級住宅街らしい。タクシーがぶつかったこちら側のコンクリートの 塀は道沿いに長く続いていてその向こうは木々が繁っていた。
「おい、あれ病院じゃないか?」
 続いて降り立った若島津が歩道の先を指差した。20メートルほど先、木立に隠れる ようにして赤レンガの建物が見えている。その前に広く取られた駐車スペースや正面エ ントランスの造りといい、間違いはなさそうだった。
「じゃ、この人診てもらえるね!」
 まだ助手席でぐったりしているタクシーの運転手を森崎が振り返ろうとしたその時だ った。
「森崎、危ない!!」
 突然の声に森崎が身を伏せたのと開いたままのドアの窓が砕け散ったのとが同時だっ た。道路の離れた場所に停車していたオースチンからもバラバラと人が飛び出すのが見 えた。
「だめだ、逃げろ!」
「こっちだ」
 ヘフナーが森崎を引っ張り起こし、その腕をつかんだまま歩道を駆け出す。若島津も シートにあったトランクをつかむとその後を追って走る。
 歩道沿いに続く塀は病院の手前で切れており、そこから深い木立がその奥に続いてい るのが覗けた。三人は迷う暇もなくその中へと駆け込む。
「何だ、ここは。公園か?」
「森みたいな場所だな。暗くてよく見えんが」
「あ、こっち、池がある!」
 全力疾走をしながらもこれだけの会話ができるあたり、ゴールキーパーというポジシ ョンの日頃のハードさが窺える。というより、実は彼らが、あるいは彼らの周囲の者た ちが化け物揃いなだけだったのだが。
 鬱蒼と繁る常緑樹の間に池があり、その水面がさらに奥へと続いていた。それをまた いで丸太造りの簡素な橋がかかっている。
「あの向こうに逃げ込め」
 先頭を切ってヘフナーが大きな杜松の根元の植え込みに転がり込んだ。あとの二人も それに続いて、素早く腹這いになる。
「連中は?」
「この暗さだ、こっちにはまだ気づいていないと思う。…あ、あの入り口のあたりにま だウロウロしてるぞ」
 ヘフナーは追っ手の姿を認めてすぐに声を低めた。
「若林さんのトランクは?」
「ここにある」
 若島津が自分の脇のトランクを叩いてみせた。
「モリサキ、さっきは危なかったな」
「ああ、おかげで命拾いしたよ、ヘフナー」
「え?」
 ヘフナーは森崎を見返した。
「声掛けてくれただろ」
「俺は違うぜ。ワカシマヅじゃなかったのか?」
「俺も何も言ってないが」
 若島津とヘフナーがいぶかしげに顔を見合わせる。互いに相手の声だと思っていたの だ。その二人に挟まれていた森崎が、いきなりガバッと上体を起こした。
「――若林さんだ、あれは若林さんの声だった! あの時はとっさでわからなかったけ ど、絶対にそうだ、間違いない!」
「若林…? そう言われてみれば…」
 若島津もさっきの記憶をたぐり寄せる。確かに若林の声は外見の渋さとは裏腹の妙に 明るいトーンが特徴で、その記憶と一致する。
「ワカバヤシは――無事でいるってことか」
「どうだ、ヘフナー。若林は近くなのか?」
「……」
 問われるよりも先にヘフナーは感覚を一点に集中させていた。首をやや傾けてじっと していたが、少しの間を置いて二人を振り返った。
「距離は難しいが、かなり近い。ただバイブレーションが弱い上に安定していなくてた どるのが難しいな」
「弱いって、どういうことなんだ?」
「そこまではわからん。だがワカバヤシのさっきの声が偶然のわけがない。ヤツは俺た ちをモニターしてる。俺たちがここにいることもな」
「よし、これで少しは道が開けて来たな」
 若島津が拳で掌を打ちつけた。何と言ってもこの事件の真相は若林が握っている。何 が何でも経緯を残らず説明させないと、という意志がその言葉に込められていた。この ままわけもわからない状態が続けばイライラのあまり胃を悪くしかねない。とはいえ、 自分の神経が胃炎を引き起こすような可愛いシロモノでないことにはちっとも気づいて いない若島津だったが。
「ああ〜、よかった。若林さん、無事だったんだ。そして俺を助けてくれたんだ…」
 一人でうるうるしている森崎を見て、ヘフナーは若島津を振り返った。
「何て言ってるんだ、こいつは」
「メロドラマさ」
「はぁ?」
「若林はこいつのアイドルなんだ」
「奇特なヤツだな」
 ヘフナーの森崎を見る目に尊敬の色が宿った。わけないか。
「しっ! 一人こっちへ来るぞ」
 頭を伏せながら若島津がささやいた。あとの二人もあわてて枯れた下草に身を沈め る。追っ手は3人だった。それぞれ分散して探すことにしたらしい。うちの一人が丸太 の橋を渡りかけていた。
 その時である。塀の外でどやどやと人声が上がり、こちら側の追っ手3人はそれぞれ の位置でぎくっと動きを止めた。互いに身振りで合図を交わし、その中の橋まで来てい た男が急いで公園の外に飛び出して行く。
「人が集まって来たんだな」
「まあ、あれだけ物音がすれば気づくだろう」
「となりゃあのオースチンもあのまま乗り捨てておけないだろうしな、やっぱり」
 ヘフナーがうなづく。が、言い終わるより先にオースチンの急発進らしいタイヤの軋 る音と走り去るエンジン音がこちらにまで聞こえてきた。
「タクシーの運ちゃんもこれでやっと手当てしてもらえるな」
「うん、よかった。なんか他人事に思えなくて…」
 森崎がほっとしたようにため息をついた。それから隣のヘフナーに非難を込めた目を 向ける。
「ヘフナーも、大体あっさり見捨てすぎだよ、気の毒に。いくら俺たちが逃げるのが優 先だったからって」
「代わりに、ヘッドライトを上げたままにしておいたからな。あの病院の入り口目がけ て」
「え?」
 あっさりと言ってのけたヘフナーに、二人はギョッとせずにはいられなかった。とっ さの判断力と反射神経が必要不可欠なキーパーとはいえ、このデンと構えているだけに 見える無口な大男にこれだけの素早い対応ができたというのは目の前で見ていたことと は言えなかなか信じがたいものがある。もしかして、異次元の時間軸で生きているの か。――などと森崎はついため息をつきかける。
 だが、公園に隣接するその病院がいまだかつて成人男性が治療・入院をしたことのな いカテゴリのものであることは三人も知らずにいた。しかしまあ、医療施設であること には変わりない。医師も怪我人となれば赤ん坊でも妊婦でもない患者であっても治療に 支障はないだろう。この不運な運転手氏もこれで助かるはずである。
「しかしこれで相手は一人減ったわけだ。2対3――なら、チャンスだな」
 気を取り直してまず若島津が口を開いた。ヘフナーもうなづく。
「新しいフォーメーションで行くか」
「――分散、だね」
 さすが読みのポジションである。このあたり言葉は用いずとも伝わり合う。
 その2人の追跡者は事故現場に集まっている人たちを警戒して入り口に一番近い木立 のあたりに身を隠していた。公園の外と、そして中のどこかにいるとしてこちら3人の 動きも見逃すまいと油断なく目を配っている。
「俺たち3人のうち1人でも逃げ切れたら突破口が開くんだが…」
 そうつぶやくヘフナーの顔を、若島津が真剣な目で見据えた。
「その1人には、ヘフナー、あんたがなってくれないか」
 ヘフナーは一瞬黙り込んだが、その言葉の意味を自分の中で分析し直し、そして心を 決めたようだった。前髪を一振りして静かに身を起こし、身を伏せたままの二人を見下 ろして親指を立ててみせる。
「俺の鼻を信じてな」
「頼む」
 数歩行きかけたヘフナーを若島津が呼び止めた。
「3401−XXXX。覚えておいてくれ。兄貴の家の番号だ。俺たちはすぐに行ける かどうかはともかく、連絡の中継には使える」
 その数字を口の中で復唱したヘフナーはうなづいて軽く手を挙げ、池とは反対側の深 い木立の間に姿を消した。それと同時にこちらの2人も立ち上がる。逆方向に向かいか けた森崎は、若島津がまっすぐに橋の方に歩を踏み出すのを見てあわてて腕を捕まえ た。
「おい、やつら銃を持ってるんだぞ!」
「俺にも武器はあるさ」
 振り返った若島津の顔には不敵な笑みが浮かんでいた。そうして自分の腕を指し示す のを見て森崎は肩を落とした。これはもう彼の常識の範囲外である。プレイヤーとして も、この男がまさに攻撃型キーパーであることを森崎は思い出した。守備の最後の砦… というよりむしろ攻撃の一番手の位置を担うと言われるプレースタイルなのだ。彼の見 せ場となる空手技セービングも実は付加的なものに過ぎず、ゴール前の塗り壁とまで言 われる守備力は何よりその過激な性質を指すものだったのだ。
 今、森崎は心からそう納得した。
「…正当防衛が認められる範囲内にしとけよ」
 そう言って若島津の腕を離す。この場合あまり先のことまで考えないのが得策だろ う。
「はあ〜」
 駆け出すと同時に、案の定銃弾が飛んできた。
「俺、腹がへって来たかも…」
 それを右に左に避けつつ、森崎は現実逃避を図っていた。





 ヘフナーは森歩きには慣れている。故郷のシュヴァルツヴァルトの広大な森は彼にと っては庭同然であり、幼い頃からその中を駆け回って育ってきたのだ。が、こちらの森 は非常に勝手が違っていた。
「何なんだ、このメチャクチャな木の植え方は!?」
 もちろん追跡者たちの目から逃れるために道と呼べる所はあえて避けてわざわざ深く 繁る木々の間をジグザグに進んで来たのではあったが、歩きにくいことこの上ない状況 にヘフナーはうんざりし始めていた。
 第一に下草が多すぎる。いや、下草ばかりでなく高木から低木まで混ざって生えてい て木の根元が見通せない。木の種類も落葉樹やら常緑樹やら統一性がないし間隔もバラ バラときているから、計画的植林による故郷の整然とした森しか知らないヘフナーにと ってはこれはまさにジャングルでしかなかった。
「おや、あれは…」
 そうやってどれくらい歩いたろうか。梢の間にライトがちらちら見える。信号機のよ うだ。いつまで続くかと思われた森もついにその果てまで来たらしい。
 ヘフナーは周囲を注意深く確認した後すばやく公園出口の門から道路に出た。あたり はすっかり暮れて、街灯以外の灯りのほとんどないこの狭い道筋は、身を潜めつつ姿を 消すにはもってこいだった。
 だがヘフナーはあくまでそういう正攻法は頭にない男だった。さっさと立ち去ればよ いものを、門の正面に見つけたアイスクリームのチェーンストアにゆうゆうと入って行 ったのだ。
 まず好物のラムレーズンを食べながらヘフナーはふとショーケースの英文表示に目を 止めた。在住外国人の多い土地柄、このアイスクリーム店も外国人客のために表示を二 ヶ国語にしているのだ。
「すいません、それ、ください。…24時間分」
 ヘフナーは追加注文をして外に出ると、くだんの森――元は皇族の屋敷跡だった公園 なのだが――に視線を投げた。交差点に面したその店には駐車スペースが広めに取って あって、信号の向こう側には黒々とした森がその不気味な姿を横たえている。あの中で は、自分を無事に若林のもとへ赴かせるべく2人の仲間が命がけで逃げ回っているはず だった。
「そ――れっ!」
 自軍ゴール前から相手陣内まで軽くボールを届かせる肩で、ヘフナーは今手に入れた ばかりのドライアイスの大きな包みをその森の奥めがけて力いっぱい投げた。白い塊は 音もなく梢の向こうに消えていく。ヘフナーはそれを見送ると黙ってきびすを返し、反 対側へと足早に坂を下っていった。







 森崎は一瞬何が起きたのかわからず、ただ落下に身を任せる。そして次の瞬間、大き な水音と共に彼は水の中にいた。
「つっめて――っ!」
 いや、実はその池は水の中と言えるほどの深さではなかった。池の底に尻餅をついた ような形で森崎は腰の下あたりまで水に浸かっている。服越しにじわじわとまとわりつ いてくる水の冷たさに彼は悲鳴を上げた。
「手間を取らせやがって…」
 頭上からの声にびくっと顔を上げると、3時間ほど前に銀座線の電車で顔を合わせて いた長身の外国人がサイレンサーをつけた銃を手に、1メートルほど上の池の岸に仁王 立ちになっている。もっともその言葉は英語でももちろん日本語でもなく、森崎には今 何を言われたのかまったく伝わっていなかったのだが。
――『殺すぞ』ではありませんように…。
 立ち上がりたかったが動けなかった。視線はその男から離さず、落ちたそのままの水 の中にただじっとしているばかりだ。歯が寒さにガチガチ鳴り始める。
「お、やっと1人押さえたか」
 そこへもう一人の男がゆっくり歩いて来た。
「あとの2人はどうした」
「さっき1人追い詰めかけたんだが…その先で見失っちまった。どうする、こいつ」
「車が戻るまで待とうぜ。中に閉じ込めときゃいい」
 理解できない会話をよそに森崎は男が立つ池の岸のえぐられた土に目を止め、納得し た。逃げる足元に銃弾が撃ち込まれて、その衝撃で足を滑らせたのだ。しかし――池の 中だけは避けたかった。水に浸かっている部分から感覚が無くなってきた気がする。森 崎は足を動かそうとした。水底にたまった泥まで重くまとわりついて立ち上がるのすら ままならない。上の二人はそんな森崎の動きに気づいてさっと銃を向け直した。
 その時。
 バシャーン!
 派手に水しぶきが上がると同時にそれがゴボゴボゴボという不気味な音に変わった。 「え? な、何…?」
 森崎の座り込んでいるすぐそばから白い煙が噴き出し始めたのだ。見る間にその煙は 池の水面を覆い始め、森崎もその煙に包まれてしまった。
「何だかわからないけどチャンスだ!」
 腰をやっと泥から引き抜いて、煙の中で低く体をかがめながら池の中を進む。少し先 で聞き覚えのあるささやき声が反対側の岸から聞こえた。
「こっちだ、ほら!」
 差し出された手にすがって岸に這い上がる。震えが止まらない。靴も水を吸って重か った。しかしそれにかまう余裕もなく手を引っ張られて這うように藪の下に転がり込ん だ。
「ヘフナーのやつ、なんて真似をするんだ、まったく」
「…ド、ライアイス…か?」
 文字通り歯の根が合わない。その様子を見て若島津は眉をひそめたが、今はまだそん なことは言っていられなかった。
「さ、急げ!」
「う、うん。――あっ、若林さんのトランク!!」
 叫んで森崎は若島津の手を振りほどき、池のほうに向き直る。
「バカ! そんなのはいいから、とにかく逃げるんだ!!」
「若林さんっ…」
 森崎の耳にはもう何も聞こえていなかった。ただ夢中で、その怪奇映画のセットのよ うになっている池のほうに取って返すと、その霧の中に再び飛び込もうとした。
「森崎っ!!」
 若島津が叫んで森崎の腕を捉えようとしたのと、二人が立っている岸の土がパラパラ と崩れたのがほとんど同時だった。
『動くな! もう逃げられないぜ」
 ドライアイスの煙の間から二人の追っ手がぬっと姿を見せた。やはり言葉はわからな かったが、今足元に打ち込まれた銃弾だけで十分に理解した。森崎は視線だけ背後に回 して力なくため息をつく。
「ごめん――鬼ごっこ、終わりだな」
「まあいいさ。今度は俺たちが…鬼になればいい」
 薄闇を通して見た若島津のその時の笑みは、森崎にとって一生忘れられないものとな った。鬼に――文字通り鬼と化したような光をたたえた若島津の目のほうが、銃よりも ずっとずっと凄みを見せている。
 森崎はがっくりとうつむくよりなかった。






「あら、外人…?」
 深夜勤務の申し送り事項などの準備をすませた若い看護婦が、詰所の窓越しに外を見 やってつぶやいた。
「今頃何かしら? 急患ってふうでもないし…」
 エントランス脇の夜間入り口にたたずむ男の姿が、やや落とした照明の下で鈍い光を 受けていた。長い前髪に隠れて顔は見えない。彼女が思わず窓辺に近付こうとしたとた ん、男はすっと動いて建物の中に姿を消した。
「何やってるの、行くわよ」
 同僚に声を掛けられ、彼女は詰所を出た。担当の外科病棟を進み、重患の個室から順 に見回る。と、その廊下で彼女は驚いて足を止めた。向こうの角を曲がって歩いて来る のはさっきの外国人ではないか。今夜の当直医と肩を並べて低い声で話しながらこちら に向かって来る。
「…なにしろ所持品も一切なかったものですから身元がわからなくて困ってたんです よ。本当にあなたのお知り合いだとしたら我々も一安心です」
「で、どんな様子だったんですか、運び込まれた時は…」
「ええ、昨日のちょうど今頃だったんですが、首都高の下に倒れていたのを発見された ということで、ひき逃げでしょうかね、お気の毒に。とにかく重態でした」
 若い医師は看護婦が通り掛ったのに気づくと、話しながら、付いて来るようにと手で 合図した。彼女は二人がすれ違うまで待ってから彼らの後ろに回った。
 三人が足を止めた扉の上には「集中治療室/ICU」のプレートがあった。金属的な 音を立てて扉が開かれる。医師について部屋に入ったヘフナーは、なぜかふっと寒気を 感じた。ガラスのはまった仕切に隔てられた向こうには落とした照明が一角にだけ当て られている。その周囲にそそり立つように並んでいる多くの機器が薄暗い中に冷たい影 を浮かび上がらせていた。
「意識は全く戻っていません。しかし、つい1時間ほど前に急にパルス、呼吸共に安定 状態になって、生命維持装置は必要なくなりました。一応危篤状態は脱したと言えるで しょう。症状にはまだ不明な部分が多くて、検査を待たないと何とも言えませんが…」 「ワカバヤシ…」
 医師の言葉はヘフナーの耳にはもはや届いていなかった。鼻に細い管を留められ点滴 の針を腕に刺してベッドに横たわっているのは、紛れもなく彼がこの数日手を尽くして 追い続けていた男だった。
「おまえ――何をのんびり寝てるんだ、俺が苦労してずっと探し回ってたってのに…」  若林の妙に青白い顔色が、このだだっ広い冷たい部屋の中でそこだけ浮き上がって見 える。ヘフナーは転がるようにガラス窓に近づいた。





                       ―― 第二章・おわり ――





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三章トビラ