PROLOGUE 1



PROLOGUE





 税関のゲートをくぐるといきなりそこはドイツだった。広い空港の構内は朝 まだ早いこともあって人影はまばらである。ちょうど正面のベンチには出迎え の一団が思い思いに陣取っていたが、その中から見た顔がぬうっと立ち上がっ た。
「よお」
「ああ」
 半年ぶりの再会は素っ気ない一言だった。あとは肩を抱き寄せながらの無言 の握手。それぞれに緊張していた表情が一瞬緩む。
「確か予定を早めたことは連絡していなかったと思ったがな」
 若林を振り返ったヘフナーの口元に微かな笑みが浮かんだ。
「俺の鼻もまだ捨てたもんじゃないだろ」
「ヘフナー!」
 続いて出てきた二人が小走りに近寄って来た。若島津と森崎…こちらは約3 年ぶりの顔である。
「ああ、やっぱりワンセットで来てくれたか」
「ヘフナー、これ、本当なのか?」
 森崎が手にしていた雑誌を振り上げる。丸めたまま広げられたそのページに は、
『K・H・シュナイダー、ドイツサッカー界から永久追放か!?』
の見出しが大きく躍っている。読めるはずのないその日本語の文字にちらりと 目をやったヘフナーは、苦しそうに口を歪めた。
「真相はまだわからん。ただ、騒動が起きているのは事実だ」
「しかし、八百長の疑いって、シュナイダーがまさか…」
 ヘフナーは大木のようにその場で身じろぎもせずに立ち尽くしていた。そし てようやく苦しそうに言葉を絞り出す。
「金を受け取ったのはどうやら動かせない事実らしい」
 3人とも黙って息をのんだ。重い空気が流れる。
「で、シュナイダーは…?」
 若林の言葉にヘフナーは一瞬迷ったそぶりを見せた。一度足元に目を落と し、そののち若林をまっすぐ見て声を低めた。
「二日前から消息不明なんだ。おまえが帰るのをずっと待ってた」








 例えるならば、それは青白い炎だった。
 闘志をあらわにフィールド内を駆け巡る他の選手たちとは確かに一種異質な その静けさは、しかし鋭利な刃のように、触れようとすればたちまち深い傷と なって相手を襲う。『風に切られる』とは、彼と対戦したある選手の言葉だっ た。プロ入り前から数多くの伝説を作り続けていたこの若き皇帝は、ブンデス リーガにその名を連ねるや否や、この国の新たな英雄として熱狂的に受け入れ られたのだ。…そう、問題のあの瞬間までは。
「あの試合、あいつは見たこともないくらい不調だった」
 ヘフナーは片手で髪をかき上げながら重い口を切った。その髪をあおりなが ら、低く垂れこめた曇り空を真冬の風が鋭く渡って行く。
「優勝をかけた最終戦、それこそ国じゅうの注目の中で、あいつはゴール前で 何度もミスキックし、ボールを奪われ、客もそりゃひどいブーイングだったも のな」
「ああ、あれは覚えてる。日本でも衛星中継されてたからな。じゃ、あれが問 題の、か」
 若島津がサイドに切れ込みながらショートパスを出す。それを左足で止めて 若林が深い息をついた。
「試合中のブーイングがそのまま試合後にはエスカレートしていったって感じ だったな。地元では夜通しほとんど暴動のような騒ぎだったらしいし、マスコ ミも…」
 結局その試合を落としたバイエルン・ミュンヘンはいったん逃したかに見え た優勝を、2位にいたブレーメンが翌週大差で負けたため得失点差で辛うじて ものにしたのだったが、自力優勝を信じて疑わなかったファンを含む関係者の 間ではその後もかなり長い間なにがしかのしこりが残ったのだった。今回のシ ュナイダーの事件も、言わばその埋み火が再燃したというかっこうになってい る。
「ああ、覚えてます。シュナイダーにも新人ゆえのプレッシャーがあったの か、って日本の雑誌でも書きたててたし」
 正面から森崎が飛び込んできた。そのままドリブルで持ち込もうとした若林 にタックルをかける。が、スライディングでこぼれたボールは横から若島津が あっさりと取り返した。
「それに、特例で18才前にブンデスリーガ入りさせた是非も問うべきだ…、 とかな」
「勝手なもんさ。結果がよければ何の問題にもされなかったような事がたった 一度のミスでありったけ叩かれるんだから」
 若島津を追いながら若林が吐き捨てる。逆サイドのヘフナーはぱたりと足を 止めた。硬い表情のままちらりとゴールエリアに視線を投げる。
「敵が多かったってのが当てはまるかどうかはわからん」
 無人のゴールの、その見えない敵をにらみつける目に、どこか暗い光があっ た。
「だが誤解されやすい男だってのは確かだからな」
「誤解以前の問題って話もあるぞ…」
 若林は無表情にボールをキープしている若島津にちょっと手を上げて合図し た。と同時に森崎の右後方に回り込んで再びパスを受ける。が、ぬっとその前 に長身をさらしてパスコースをふさいだヘフナーの動きが一瞬早かった。
 白いボールが思いっきり高く宙に上がる。ヘフナーがクリアしたボールはタ ッチラインを大きく越えて行き、直接ネットフェンスにバウンドした。
「こらこらこらっ!」
 その時彼らの頭上から大きな声が降ってきた。
「お前ら、寄ってたかってウチのグラウンドを耕すのはよしてくれ! 穴ぼこ だらけになっちまう!」
「よぉ、マーガス!」
 若林が大きく息を弾ませながら手を上げた。ネットフェンスの向こう側、ク ラブハウスの非常階段の上でハリネズミのような頭を振り立てて叫んでいるの は、バイエルンのFW、マーガスだった。
「GKが揃って2対2だなんて凶悪なマネはやめてくれよ!」
「どっちが凶悪だ、呼びつけておいてさんざ待たせやがって…」
 マーガスは少し真顔になると、今そっち行くから、と怒鳴っておいて姿を消 した。
 弾んで戻ってきたボールを足で拾い上げて、若島津がヘフナーを振り返っ た。
「『隠居』してるわりにけっこう鈍ってないようだな」
「ふん、あいにくとな」
 ヘフナーはにやりと笑い返す。
「医者も体力だからな、一応地元のスポーツクラブに入って最低限のトレーニ ングは続けているんだ」
 ヘフナーは2年前突然サッカー界の表舞台から姿を消した。周囲は慌てふた めいたが、『獣医になる』と言い残して大学への道を進み始めた彼を思いとど まらせることは結局どこの誰にもできなかった。かつての代表選手達がそれぞ れ第一線で名を成し始めているのに比べれば、それは大きな、思いも寄らない 方向転換だった。
「でも、ヘフナー」
 やはり側に来ていた森崎がちょっとためらいながら口をはさんだ。
「シュナイダーとは会うこともあったんだろう? その…サッカーをやめてか らも…」
 シュナイダーとヘフナー。かつて周囲から謎の無言コンビと呼ばれて遠巻き にされていた二人は、本人達の一見無関心そうな付き合い方はともあれ結局は 仲がいいのだろう…と、勝手に期待されていたものだ。もちろん真相は、自分 たちには到底望めそうにないシュナイダーとの意思疎通をヘフナーならなんと かやってくれるだろうという、言わばかなり日和見的な責任転嫁があっただけ なのだが。
「いや、俺はあいつにはずっと会っていない。今度のこともあのマーガスから 連絡があるまでは全く知らなかった」
「なんだって?」
 若林がベンチから振り返った。
「この2年、全然連絡をとってなかったってのか」
「それはまあ…、クリスマスカードくらいはな」
 ベンチに預けてあったコートを手に取ろうとした若林が危うく足を滑らせか けた。その背を嫌そうに支えながら、かわりに若島津が--ある意味ではけっこ う似た者同士という話もある--質問を引き継ぐ。
「なら、お前はまだシュナイダーとは何も話していないのか、今度の件で?」 「電話は入れた。だがその時にはあいつはいなかったんだ」
「じゃあ…」
「リーグから謹慎の処分が出たのは先週のことだし、それまではチーム内で普 段通り練習していたそうだ。だが二日前急に…」
 若林も暗い顔でうなづいた。
「まあ俺も間が悪かったしな。情報が届いて急いで連絡を取ろうとした時には もう電話も取り次いでもらえんほどの騒ぎの真っ只中だったし、結局俺もこの 件についてはやつとは一言も話していないんだ」
 W杯予選のための新チーム編成の件で見上氏から呼び出しを受け、若林はシ ーズンの中休みとなる長いクリスマス休暇を日本で過ごしていたところだっ た。それ以前にも何かとシュナイダーをめぐる雑音を耳にしていた彼ではあっ たが、よもやここまで話が大きくなろうとは予想もしていなかっただけに、だ 一方を受け取るや否や急遽帰国の途についたのだった。2月中旬にスコットラ ンドで開催されるユース大会に参加の決まっていた若島津と森崎も、その若林 から緊急の連絡を受け、合宿をすっぽかして渡欧したというわけである。
「よっ」
 降りてきたマーガスが駆け寄りざま若林の肩を背後から抱え込んだ。
「ずいぶん珍しい御一行様じゃないか」
「ちょっとした同窓会気分でな」
 応えつつニヤニヤする若林であった。さて何の同窓会かは彼ら4人の間だけ の秘密なのだが。






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