マーガスの口ぶりはいつもの通り軽かったものの、その表情の硬さはやはり
隠しようがなかった。
「実は妙な事件(こと)があってな」
「妙な…?」
「昨日、ロッカールームでボヤ騒ぎがあったんだ。朝早くにだ。警備員がすぐ
気がついたんで大事にはならなかったが」
マーガスはいったん言葉を切って4人を眺め渡した。
「その燃えたロッカーってのがな、…やつの、だったんだ」
「なんだって!?」
「部屋には鍵がかけてあった。鍵は警備員だけが持っている。それに外から忍
び込んだ形跡もなかったんだ」
「どういうことだ、それは…」
「わからんよ」
マーガスは肩をすくめた。
「どっちにしろ、この件を知ってるのは内部の者だけだ。こんな時だろ。警察
に届けるわけにもいかんらしい」
シュナイダー失踪については、もちろんクラブ内部で厳重に緘口令が敷かれ
ていた。当然、今回のシュナイダーの事件について取材申し込みは殺到してい
たが、事件の調査が済んで正式な処分が決定するまでは、と、クラブのフロン
トは『現在シュナイダーは謹慎中である』で通していたのである。
「俺たちだって詳しいことは何も知らされてないんだ。最初はあいつの失踪っ
てのもフロントが偽装のために仕組んだ芝居かと疑ってたんだぜ。けど昨日の
騒ぎではっきりしたな。シュナイダーは本当に姿を消したんだ…」
マーガスはポケットから1枚の紙を取り出した。
「クラブハウスのロビーで見つけた。電話のメモだ」
「シュナイダーの字だ」
ヘフナーが断言する。鉛筆でこすり出した中に特徴のある右流れの文字が白
く浮き出て、一つの地名が読み取れた。
「…シュトゥットガルト?」
「駅に問い合わせたらしいんだ。目撃者もいる。ちょうどその時間の頃に、ホ
ームで」
メモを受け取りながら若林がギロリと目を上げた。ドイツ語のわからない若
島津と森崎はさっきから3人の表情をいぶかしげに眺めている。
「信用できる情報だろうな、その目撃者」
「もちろん」
マーガスはきっぱりとうなづいた。
「俺の婚約者だ」
「そりゃ…信用のおけることで」
冷やかし口調で応じながら若林はメモをヘフナーに渡した。ヘフナーがそれ
を読んでいる間に若島津・森崎にかいつまんで状況説明をする。
「ただ、問題は…」
マーガスは情けなさそうにため息をついた。
「シュナイダーの、あの天才的方向音痴、だな」
若林も後を受けて眉をしかめる。
「はっきり言ってあんなやつが一人で外をうろつくっつーのは自殺行為だ」
「クラブハウスの中でも時々迷うんだぜ。フィールドで自軍のゴールを間違え
ないのが不思議なくらいなんだ」
話がどんどん情けなくなる。天才というのは全てに超越しているものらし
い。
「よし、行ってみる」
「ヘフナー!?」
その唐突さにあわてる同僚たちには目もくれず、ヘフナーはさっさと歩き出
した。若林が急いで呼び止める。
「待てよ。単独行動はまずい。連絡一つとってもな。森崎、おまえ一緒に行っ
てくれるか」
「え、ええ。いいですけど…」
「連絡…?」
ヘフナーがゆっくり言葉を切って問い返した。
「そいつにかけちゃ、おまえが不自由するとは思えんがな」
意味ありげににやりと笑ったヘフナーであったが、
「じゃ、お言葉に甘えて…」
と森崎の肩をがしっと抱え込んだ。つまさきが宙に浮いてしまいそうになった
森崎が情けない顔でヘフナーを見上げる。
「おいっ、ヘフナー…!」
「なんだ、おまえ、伸びてないんだな」
「おまえが伸び過ぎなのっ!」
もうすぐ18才の誕生日を迎える森崎はこれでも南葛高では高杉に次ぐ上背
の持ち主なのだった。大体このヘフナーと比べようと言うのが間違いなのだ。
順調に伸びていても、3年前のヘフナーの身長にすらまだまだ届きはしないの
だから。
「いいのか?」
二人の姿が建物の角を曲がって消えて行ったのを見送って若島津がぼそりと
言った。主語、目的語が省略できるのは日本語の特徴の一つだが、この男の発
言の場合それが顕著である。
「まあな」
が、それでも動じない若林もなかなかのものであった。もっともこれくらい
でないと、ブンデスリーガのレギュラー入りはもとより、何より全日本のメン
バーとしてやってはいけない。
「何か隠してるぞ、あの顔は」
「の、ようだな」
若林は素直に認めながら頭をかいた。そしてマーガスを振り返る。
「おい、ヘフナーだがな、シュナイダーとずっと会ってなかったってのは本当
か?」
マーガスは鼻を鳴らした。
「そこなんだ。俺とかさ、他の奴らって、ケルンに行くたびあいつを訪ねて飲
んだりもしてたんだが、シュナイダーだけはどうも全く会ってなかったらしい
んだな」
若林と若島津はちらりと目を合わせた。
「ケンカ別れでもしてたのか?」
「まさか! あいつらの間でどうやったらケンカが成立するってんだ。まあ、
あのシュナイダーだから、一般的な意味でならそう不思議なことじゃないんだ
が…」
シュナイダーの人付き合いの悪さ、と言うか、普段から何を考えているのか
わからない態度だけ考えれば、自分から積極的に誰かと付き合うなどというこ
とはまずありえない事である。
しかしそれはあくまで「自分からの働きかけ」であって、相手が接近してく
ることについてはこれも積極的に拒否をすることもない。日本式に言えば『去
る者は追わず、来る者は拒まず』というのが、彼シュナイダーの対人関係の全
てと言えただろう。
「ふん、そう考えると妙なのはヘフナーのほうだな」
若林の言葉に、若島津も黙ってうなづいた。
「あいつも思考回路が読めんことにかけてはシュナイダーと張るからな」
若林がそう言うのなら自分にわかるはずがない、という態度を露骨に表わし
ながら若島津はマーガスを見た。
「肝心なことをまだ聞いてないんだが、…シュナイダーが受け取ったっていう
金の話は一体どこから出てきたんだ」
「ああ」
マーガスはため息をついた。彼とチームメイトたちはこの数日その点を、密
やかに、しかし熱っぽくどれだけ議論し尽くしたことか。
「銀行の振込口座だ。…あいつの口座にこの半年間に数回大口の入金があった
ことをある新聞が独自調査ですっぱ抜いてな。中でも決定的だったのが、あの
最終戦の翌週に振り込まれていた百万マルクだったんだ」
「しかしシュナイダー自身は何と言ってるんだ、その金について」
若林の質問にマーガスは厳しい視線を上げた。ゆっくりと眉をひそめ、低く
答える。
「何も…何もだ。あいつはうちの理事会にも協会の調査委員にも、何も答えな
かったらしいんだ」
それが何を意味するか、いや、委員たちがそれをどう解釈したか…そこに楽
観をはさめそうにないのは明らかだった。
マーガスは目を閉じて頭を振った。シュナイダーを信じてはいる。だが、状
況証拠はこれでもかこれでもかというように悪材料を揃えていくのだ。信じて
いたくても、その根拠をどこに見つければよいのか…。
「あいつは否定しなくちゃいけなかったんだ! 逃げたりせずに、はっきり答
えてやるべきだったんだよ、チキショウ!」
こぶしを胸の前で固めるマーガスを沈痛な面持ちで見つめる若林であった。
「しかしなあ、相手がなんであれあいつが……あのシュナイダーが『逃げる』
なんてこと、俺は信じられねえんだが」
「逃げたとは限らんぞ」
若島津がいつもの無感動な口調で口をはさむ。
「何かの必要があってそこへ出向いた、あるいは自分の意志ではなく強制的に
連れ去られた…、最悪、消された、ってのもある」
「こら…」
さすがに元同僚として若林はそこまでドライになるわけにはいかなかった。
思わず相手の肩に沈没しそうになる。が、見上げた若島津の顔につい納得して
しまった。
感情表現が世間一般のそれと一歩ズレているこの男は、無表情のまま実は目
いっぱい怒っていたのだ。
「百万マルクだって…?」
若島津の拳に見えない力が込められた。宙を睨んだまま吐き捨てる。
「そんなはした金で…、皇帝のプライドが買えるものか!」
頭上で木のこずえがザザッと大きく鳴った。
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