1章 1



第一章 ミュンヘン発17時06分





 オリンピック公園前から市電に乗って市の中心部に向かったヘフナーと森崎 は、窓からまぶしそうに街並みを眺めていた。かつての公領地が現在はそのま ま公園スペースとなって、このバイエルン州の州都はとりわけ緑の多いことで 知られている。
 しかし中心街に近づくにつれて建物の並びが混み始め、また背も高くなり、 市電はやがてヨーロッパでは珍しく街の中心部に位置する中央駅前広場に着い た。
「さあ、降りるぞ」
「あっ、うん…」
 周囲の建造物の古めかしさと都会らしい人と車の波の不思議な調和に見とれ ていた森崎があわててヘフナーの後を追った。
「匂うな…」
「えっ?」
 中世からの歴史を刻んだ広場のたたずまいとは対照的に、中央駅の真新しい 駅舎がその正面にそびえ立っている。ヘフナーはそれを見上げながらぽつりと つぶやいた。森崎が振り返る。
「え、ああ…」
 ヘフナーはちょっと表情を緩めて英語で言い直した。
「確かにな、何かある。ここに」
「何かって…」
 森崎は緊張する。
「シュナイダーの?」
「いや、よくはわからんが…」
 珍しく曖昧なヘフナーの言葉に森崎はやや疑問を抱いたが、ヘフナーのほう はさっさと駅の中に入って行く。
「ここ、案内所か?」
 ヘフナーについて入った部屋は、カウンターと、いくつものスタンドの並ん だ広いスペースだった。
「そう。…あ、これだな」
 ヘフナーはそのスタンドのABC順に並んだカードに目を走らせていたが、 やがてSの棚から1枚を抜き出した。森崎も側に来て覗き込む。
「時刻表だ。行き先別のな」
 ヘフナーが取ったカードはシュトゥットガルトーミュンヘン間のものだっ た。胸ポケットから出したペンで、マーガスの言っていた列車に印をつける。 それからヘフナーはカウンターに行って係員になにやら調べてもらっているふ うであった。
「何を訊いてたんだ?」
 戻って来たヘフナーに森崎が尋ねる。ヘフナーはカードの余白に小さくメモ をしながらそれを森崎に示した。
「あの列車に乗ってシュトゥットガルトに着いたとして、乗り換えの場合接続 はどうなのか、その行き先はどういうのがあるのか、一応調べてもらったん だ」
「で?」
 ヘフナーは真面目な顔で森崎を見下ろした。
「多すぎてわからん、だそうだ」
「なんだよぉ、それは…!」
 森崎が思わず大声を出す。正確無比な事実こそが美徳、というドイツ的感覚 には日本人としてどこかついて行けないものがあった。確かにシュトゥットガ ルトは南ドイツ中部の交通の要所で、国内はもとよりスイスやフランスなどへ の国際列車のターミナルとなっているのは事実なのだろうが…。
 と、ヘフナーが案内所の戸口ではたっと立ち止まった。
「しっ…!」
「えっ?」
「やっぱり何か匂う」
 ヘフナーは油断のない目で素早く周囲を見渡した。
「どっちだ…?」
 森崎があっけにとられているうちに、ヘフナーの動きが一気に活発化した。 まずヘフナーは今彼らが入って来た正面入り口を背に、平行した多くの引き込 み線を持つプラットホームの一つへと早足で歩いて行った。と思えばまたせか せかと引き返して来て隣のホームに入りかけ、考え込み、また戻る。これであ と鼻を地面にすりつけてさえいれば完全に警察犬の追跡である。
 19番ホームでヘフナーはやけに迷っているふうだった。いや、迷っている のは彼が追っている「匂い」の痕跡のほうだと言うべきかもしれない。ヘフナー はホームの真ん中あたりで何度もぐるぐる回った。今度は下を睨みながらであ るから、ますます犬である。
 ヘフナーの足が止まった。じっと足元を凝視し、それから体を起こして森崎 に手を上げた。
「モリサキ!」
 あわてて19番ホームに走った森崎は、ヘフナーがコンクリートの細い割れ 目から拾い上げた物に、目を丸くした。
「鍵だ!」
「…こいつは」
 目の前にぶら下げた鍵をヘフナーが首をかしげるようにして睨みつけた。
「ひょっとすると…」
「コインロッカーの鍵?」
 森崎が引き継いだ。確かにそのプラスチック製の握りには数字の刻印が読め る。
「シュナイダーのだと、思う?」
「当然だ」
 ヘフナーは自分の鼻にいささかの疑いも持っていないようだった。大股にコ ンコースに戻り、北出口横のコインロッカーにまっすぐ向かう。
「8816…と」
 大きな体を狭い通路で窮屈そうにかがめながらヘフナーは問題の鍵のロッカ ーを捜した。
「ヘフナー、ここだ!」
 先に見つけた森崎が手を振って呼ぶ。ヘフナーが振り返った。振り返った途 端に表情が一変する。
「…モリサキッ!!」
「…えっ!?」
 その声にぎくりと顔を上げた森崎はその場に立ちすくんだ。
「うわああっ!!」
 落雷のような衝撃音が轟いた。そこかしこで悲鳴が上がり、だだっぴろく薄 暗いロッカー室はたちまち大混乱となった。
 駅の職員や構内にいた旅客たちが駆けつけて来る。ロッカー室はさながら金 属の箱の雪崩の後、といった惨状だった。幸い居合わせた利用者の数が少なか ったこともあって、直撃を受けたり下敷きになったりした者はなかったらし い。が、突然の出来事にまだショック状態から回復できずにいる婦人客たちの ヒステリックな泣き声が続いていた。
「ヘフナー…」
 森崎もまだ呆然とへたり込んだままであった。
「な、何だったんだ…?」
「怪我はないか、モリサキ」
 まだちょっとした拍子に崩れ落ちないとも限らないロッカーの山である。ヘ フナーは手を伸ばした。注意深くその下から森崎を引き出しながら、念を押す ように低く言う。その目が獲物を見つけた動物のようにぎらぎらと光ってい た。
「ちょうどな、お前のすぐ上の列がぐにゃりと波打ったのが見えたんだ。その 瞬間に弾けるようにして全体が崩れた…」
「え、ここ、から…?」
 森崎が顔を引きつらせながら振り仰いだ。彼らが開けようとした8816番 のロッカーは最上段にあったはずだが、さてどこへ吹っ飛んだか…。
『……おい、どうかしたのか!?』
「ワカバヤシ…?」
 突然割り込んできた声にヘフナーが微かに顔をしかめた。
「なんでわかったんだ…」
『呼んだだろうが、俺を』
「…今、か」
 言いつつ森崎のほうをじろりと見やる。
「え、と…、あ、とっさに、ほら…」
 ヘフナーの凶暴な目つきに恐れをなして、森崎があわてて言い訳をする。ヘ フナーは答えなかった。
『事故か…?』
 こちらの状況の見えていない若林と若島津は、ともあれ心配しているのだろ う。ヘフナーは森崎への追及はひとまず置いておいて、周囲をもう一度見回し た。
「シュナイダーの残したロッカーの鍵を見つけてな。その中身を改めに来たん だが…」
 ミュンヘン中央駅ロッカー倒壊事件は、しかし発生1分後にその真相を知る のは無理というものだった。何かの衝突でもなく、爆発物が見つかったわけで もなく、翌朝の新聞でさえ「謎」と断言したくらいなのだから。
「ワカバヤシ…」
 ヘフナーはちょっと言葉を選んでいる様子を見せた。
「俺は気に入らん。ひどい危険の匂いがする。何もかもが妙だ。シュナイダー はいない。いないのにそのシュナイダーの影を追うように事故が続いている。 いないあいつを狙って…」
『いないシュナイダーを狙って…?』
 若林がおうむ返しにした。森崎もへたり込んだまま不安そうにヘフナーを見 上げる。
「あ…」
 その時森崎の目が何かをとらえた。
「あれ、バイエルンの…」
 ヘフナーがその視線の先を追い、扉の壊れたロッカーからはみ出しているそ れに気づいた。森崎の頭越しに手を出して、ぐいっと引き寄せる。
 ガタン、とまた一つロッカーがずり落ち、予想外に大きな音が反響した。入 り口近くに立って救出作業をしていた職員たちがぎょっとした様子でこちらを 見たが、ヘフナーはまるで頓着せずにそのバイエルンのロゴ入りのスポーツバ ッグを抱え込んだ。
「出るぞ」
「ああ、うん」
 確かにいつまでもいたい場所ではなかった。「目に見えない危険」が漂ってい るとすればなおさらである。
 立ち上がって振り返ると、なるほど彼らのいたあたりをちょうど中心として 同心円を描くようにロッカーの列が崩れているのがわかった。
「俺たちの、せいなのかな…」
「正確には、こいつの…いや、シュナイダーのせいだと言うべきだな」
 小声でささやき交わしながら二人はなんとか入口までたどり着いた。駅の職 員たちには当り障りのないことを言っておいてまんまとその場を離れる。
 若林の問いが届いた。
『俺たちも合流するか?』
「いや、ちょっと待ってくれ…」
 ヘフナーが目をぎらりと光らせた。素早く背後に視線を投げると、森崎の背 を抱える。
「お客さんだ」
 ヘフナーはちょうど来た市電に森崎を押し込む。行き先をかまっている暇は なかった。ついでながら切符を買っている暇もなかった。2両編成の先頭の車 両に移りながら窓の外にも目をやる。
『どんな奴だ?』
 若林の声にも緊張が走る。スーツ姿の2人の男が車に乗り込むところだっ た。タクシー乗り場に二重駐車していたらしい。一見何でもない駅前の光景の 一つではあったが、訓練されたGKの目はごまかせない。2人は明らかに何ら かの「目的」を持ってその場にいたのだ。
「2人…ビジネスマン風だな」
 その白いアウディは右折に手間取ったものの、車道に出ると思った通りまっ すぐ市電の後を追って来た。
『今の騒ぎもそいつらの仕業だったのか?』
「いや、逆だろう」
 ヘフナーは座席にもたれるように腰を下ろした。すべてが大ぶりに作られて いる…少なくとも森崎の印象では…ドイツでも、このヘフナーは規格外らし い。背中半分が座席の背からはみ出している。
「逆…?」
 森崎もその次の列の席に座った。
「あいつら、俺が鍵を見つけてロッカールームに向かった時から尾けてたん だ。あれがなけらばすぐにでも手を出してきてたはずだ」
『とすればさっそくもう二手の追っ手が食いついてきたってわけか…』
 若林の声に森崎は眉をひそめた。そしてヘフナーの背後からその腕の中のバ ッグを覗き込む。
「こいつのせいか…」
『よし、俺たちもすぐ行く。待ってろ』
「待ってられるものならな…」
 市電はさっき彼らが来たルートを逆行する形で繁華街に向かって走ってい た。
「やば…」
 窓から見ていた森崎がつぶやいた。ヘフナーもむくっと顔を上げる。信号の 間に前に回った追跡車から男が一人電停に降り立ったのだ。
「うわ、乗ってくるぞ!」
 気づかれているのは承知の上なのだろう。スーツ姿のその中年の男は、二人 の方に視線を止めながら2両目中央の乗降口からゆっくり車内に入ってきた。
「な、何か用があるのかな」
「ああ、たぶん、こいつにな…」
 ヘフナーはバッグを抱えた腕にぐっと力を込めた。いざとなれば実力行使も 辞さない、という顔である。
 男が連結部まで来た。
 ヘフナーが、くっ、と笑った。森崎は思わずどきっとする。
「……?」
「検札おばさんだ」
 ヘフナーはおばさん好きだったのか、と一瞬思ってしまった森崎を責めては いけない。静岡にはこういうおばさんは存在しないのだから。いや、日本中そ うか。
 おばさんは実は一つ前の電停で乗り込んできて、先ほどから熱心に職務に専 念していたのだった。日本でもかつて「バスガール」と呼ばれたバスの女性乗 務員がいたが、こちらのおばさんは私服でいわば抜き打ち的に突然乗り込んで きて無賃乗車のチェックを始める。市電はワンマンであるが、運転手は運賃に ついては関知していないのでその点では客の自主管理となっているのだ。だが こういうおばさんが存在するということはその管理もさほど当てにはならない と見える。
 筋肉隆々、かどうかは定かではないにせよ、なかなか体格の立派なそのおば さんは、これ以上ないというほど厳格な表情で…きっと職業病なのだ…席につ いている客一人一人に切符を提示させている。森崎は改めて車内をきょろきょ ろ見回した。なるほど車内の中ほどにCのマークをつけた小さな器具があっ て、確かに客が乗ってくるごとにそこに切符状のカードを差し込んでいたこと を思い出す。そのつど『チーン!』という高い音が響いていたっけ。
「なあ、もしかして俺たちも…切符持ってないぜ」
「そうだな」
 買っている暇がなかったのは事実であった。が、ヘフナーは余裕を見せて、 自分たちを追って来た男と検札おばさんの来るべき対決を見守る構えに入って いた。彼をオトリにしておいてそのスキにさっさと逃げる気なのだ。
「いいタイミングだ」
 ヘフナーは森崎の肩をつついた。
「次、降りるぞ」
 森崎は降り際に振り返って思わず同情の目を向けてしまう。彼らの追跡者 は、手帳を広げて罰金徴収の演説を始めたおばさんのこわーい形相を前に、実 に恨めしそうにこちらを盗み見ていた。








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