1章 2









 マルクトプラッツで降りた二人は道を横切ってマイエン通りに入った。今度 は信号そばで一時停止しながらそんな動きをじっと追っているアウディが相手 である。彼らが歩き出すと同時にスタートし、右折してゆっくりついてくる。 「ちょっと走ってみるか」
 不安そうに見上げる森崎に向かって、ヘフナーはどことなくおっくうそうに 言った。
「それはいいけど…」
 土地勘のない森崎としてはヘフナーに任せるよりない。言った途端、2人は 目の前のアーケードに飛び込んだ。急いで停車したアウディから運転者が飛び 出して来たのが目の端に入ったが、構わずその狭い通路へと突進する。しばら く走るとドーム状のガラス屋根で覆われた小さな広場に出た。
「そろそろ片付け始めてるな」
「朝市か?」
 なんとも緊張感あふれた市内観光ではあった。森崎は実は1年前のヨーロッ パ遠征の折にここミュンヘンには一度寄ったのだが、試合試合の過密スケジュ ールと、各々競い合うように行なわれた「秘密裡の」自主トレのせいで、のん びり観光などしている暇はなかったのだ。これはどの町でもそうだったが。
「サーカスには見えんな」
 南ドイツのでっぷりしたおじさんおばさんたちが野菜や花を木箱に片付けな がらいぶかしそうに彼らを振り返る。観光客にしては妙に殺気立っているあた り、確かに異分子かもしれない。森崎は嫌な予感がした。
「ひょっとしてお前もミュンヘンは不案内なのか」
「あたり」
 当たってほしくなんてなかった。
「ミュンヘンは何度か来たことあるんだが、なにせいつも行く所が決まってる んでな」
 それ以上言わなくてもわかる。森崎だってここが世界有数のビールの街であ ることくらい知っているのだ。
「そっちは後にしてくれよ。まだあのおじさん追っかけて来てるんだからな」
 一見紳士風の追跡者は、年に似合わずなかなか元気がみなぎってるようだっ た。ついでにこちらの2人と違ってここミュンヘンはホームグラウンドらし い。
「あっちが上手だな。先回りする気だ」
 毎朝市の立つこのあたりは入り組んだ裏通りで、ほとんど迷路である。そう しているうち、背後の男がふっと別の通りに身を隠すようにして消えた。
「ワカバヤシ!」
『…どうした!?』
 打てば響く、という感じで若林が応えてきた。無線をずっとオープンにして 待ち構えていたというところだろう。
「さっきのは訂正だ。ただのビジネスマンがこんな街中で護身用の銃を持ち歩 くってことはないだろうからな」
『…何だって?』
「ヘフナー…!」
 姿のない若林と、隣にいる森崎の声が重なる。
「さっきちらっと見えたんだ、あのおっさん」
「ど、どうする気かな…」
 攻め込まれる立場、というのは言ってみれば彼らの日常茶飯事である。そし てその点から見れば、攻められてただ逃げるだけ、というのはこの2人のキー パーにとっていささか不本意な状況であった。
「お前、小銭持ってるか?」
「…?」
 いぶかりつつも素直にポケットを探ってしまった森崎である。1マルクコイ ンが2枚出てきた。
「ああ、おばさん!」
 森崎の手からひょいと金を取り上げて、ヘフナーは向かいで箱を積み上げて いるおばさんに呼びかけた。森崎が呆然と見ているうちにみごとに商談をまと め上げる。
「ほうら」
 戻って来たヘフナーはにやりとしながら森崎に緑のかぼちゃを投げてよこし た。
「2マルクで半ダースだ。いい買い物だろ」
 そういう問題じゃないっ! 森崎はGKの習性を呪った。丸いものを投げら れると反射的に受け止めてしまうのだ。自己嫌悪にかられながら両腕に3個の かぼちゃを抱え直す。
「お前なっ、まさかこれボールがわりにしようってんじゃないだろうな!」
「ふん、進歩したな、モリサキ。この俺の考えていることを読むとは…」
 読みたくなんてないのに決まっている。若林が去り、翼が去った南葛でバケ モノの人口密度が低くなったのは事実であるが、それで森崎がすべてのバケモ ノから解放されたかというとそうはいかなかったのである。
「あのな、ヘフナー…!」
 森崎が言い終わらないうちにもう事態は次へと動いていた。ヘフナーの足が ずずっと横にスライドしたかと思うと、体を倒しざま森崎の腕をつかんで一緒 に引き倒す。
「お前、あの店のテントに回れ。俺はこっちから行く」
 それでもなんとか踏みこたえるあたり森崎の南葛での孤軍奮闘の3年間は無 駄ではなかったようだ。
「俺、できないよ。農家の人が丹精込めて作ったものをよりによって足で蹴る なんて…」
 しかし勝手に宣戦布告をし終えたヘフナーは聞いていない。3個のかぼちゃ を下に並べると、通路の陰から銃口を光らせている相手に向かって立て続けに 蹴り飛ばした。
 相手もとっさに避けてうち2個はやり過ごしたが、最後の一個を腹に受け、 さすがにひるむ。ヘフナーのかつてのゴールキックの正確さから推察すると、 初めの2個はオトリとしてわざと外したに違いない。
 男は悪態をつきながら立ち上がり、わずかのスキに通路に走って行くヘフナ ーを追おうとする。と、行き過ぎかけた店先から突然ぬっとかぼちゃを差し出 されて男は反射的に受け取ってしまった。
「ビッテ(どうぞ)」
「あ、ありがとう」
 こういう不意打ちがあるものだろうか。男が腕に3個のかぼちゃを抱えてぽ かんとした次の瞬間、テント屋根がドーッと降ってきたのであった。
「いいぞ、モリサキ」 
 店のおじさんにごめんなさいと謝りながら風のように走り抜けてきた森崎を ヘフナーが出迎えた。が、様子がおかしい。口調はいつも通りだったが、商店 街の裏口通路の壁にその大きな体をだるように寄りかからせているのだ。
「どうしたんだ、ヘフナー!?」
「いや、大丈夫だ。行くぞ」
 もちろん追跡者のことを考えればぐずぐずしていられないのは事実だった。 が、頑として耳を貸そうとしないヘフナーに、森崎はとっさにその腕を背後か らつかんだ。思わず驚きの声を上げる。
「ヘフナー、お前、熱い!」
「ああ、ちっとばかりな」
 額に伸びた手をうるさそうに払いのけながら、ヘフナーは壁から身を起こそ うとした。
「ちょっとなんかじゃないよ、ひどい熱だ!」
『本当か!?』
「こら、勝手に傍受するな、ワカバヤシ」
「キ、キライだ、病気の時も顔に出ない奴なんて…!」
 森崎の嘆きももっともであった。横から支えようと腕を出す森崎をそのまま ずるずる引きずりながら、ヘフナーは前進をやめない。
「いったい、いつから…?」
『お前、かぶっちまったな…』
 唐突に口をはさんできた若島津の言葉にヘフナーがやっと反応した。足を止 め、背後に素早く目を配ってからもう一度建物の陰に身を寄せる。
「お前もそう思うか、ワカシマヅ」
 森崎はきょとんとする。話が見えないのだ。
『でなきゃお前が熱なんぞ出すはずないだろう』
 的確な指摘であった。ヘフナーは少しむっとしたようだったがどうせ顔に出 るはずもない。
「だから、何なんだよ…!」
 じれた森崎が袖を引っぱった。
『クラブハウスのボヤ、それに今のコインロッカー…どちらも共通してたのは 「姿のない犯意」だ。シュナイダーを狙ったのか、その追跡者を狙ったのかは 別にして、目当ての奴が現われそうな場所にマーキングして待ち伏せていた。 ところが当人は現われず、かわりに別の奴が飛び込んで来てしまったわけだ』  若島津の説明にヘフナーもうなづく。
「つまり俺は出会い頭に地雷を踏んじまったってことだ」
『シュナイダーにはその手の「力」が及ばんってことを知らなかったらしい な、そいつらは…』
「そういうこった」
 答えた途端ヘフナーが立ち上がった。森崎を振り返って合図する。
「右だ…!」
 何を考えている暇もなく全力疾走である。右手の建物の陰からさっきの男が 銃を手にこちらを窺っているのがちらりと見えた。回れ右をして再びマイエン 通りを目指す。
「…なあ、シュナイダーに『力』が通じないって、どういうことなんだ?」
「お前は気がつかなかったか?」
 フェイントをかけるかのようにヘフナーが左右に大きくステップを踏んだ。 「あいつには気配というもんがないんだ。単に存在感、って意味じゃない。感 情というか、思考というか、そういう精神的な存在感がな…」
 ヘフナーがコートを翻してぱっと身をかがめた。そのすぐ前の壁が鈍い音と ともにえぐられたのが二人の目にはっきり映った。低い姿勢のままずるずると そばの非常階段下に身を隠す。
「俺のアンテナもワカバヤシのテレパシーも、要は人間の精神に働きかける能 力だ。それが奴相手には通じない。まあ、放送していないラジオ局に周波数を 合わせるようなもんだな」
 森崎はラジオというよりとっさにテレビを思い浮かべた。放送終了後のノイ ズだけの画面…。せめてテストパターン画面くらい出していてくれたらいいの に…。シュナイダーのテストパターン…これは怖い気がするが。
「で、この熱だが」
 ヘフナーの言葉に森崎ははっと空想から戻る。
「そういう奴に精神は攻撃をしかけても、結局はね返るだけなわけだ。現にこ うやって俺にはね返って来た。てことはシュナイダーは少なくとも生きてい て、物を考えている。…違うか?」
 ヘフナーの口調はあまり嬉しそうとは言えなかった。対照的に若林が大笑い する。
『シュナイダーの知恵熱を代理でヘフナーが出しちまった…!』
「笑うな、ワカバヤシ…」
 それなりに機嫌が悪いのだろう。まあそれほどの熱があるなら機嫌以前の問 題かもしれないが。
『はっはっは、まあ怒るな。俺たちもすぐそっちへ行く。それまでなんとかや り過ごせ、いいな』
「勝手言いやがって…」
 ヘフナーは座ったまままた壁に体を預けると大きく肩で息をついだ。森崎が 心配そうににじり寄る。
「ヘフナー、もう無理だよ。それで走るのは無茶だ」
 しかしヘフナーは黙ったまま動かない。
「モリサキ…」
 ヘフナーは自分の足先を凝視していた。
「見ろ、ドアだ」
「えーっ?」
 裏通りとは言え、ここは天下の往来である。森崎は思わず絶句する。なんと 石畳の道の真ん中に鉄製の金具のついた大きな気の扉があるのだ。
「なんだ、これっ!」
「知らんのか、ここは酒場だ」
「…?」
 首を曲げてその古いレンガ造りの建物を見上げる。もちろんこの裏通り側か ら見ても表が何の店かはわからない。
 ヘフナーはゆっくり立ち上がるとその扉に近寄った。








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