1章 3





「手伝え、モリサキ」
「ああ…」
 扉は2つ、日本式に言うと観音開きの形に並んでいた。ヘフナーは疑問顔の 森崎を後目に、その取っ手の一つを握る。
「この真下が酒場のビール倉になっているんだ。毎朝工場から馬が配達に来 る。で、ここからホースで店の樽を一杯にする」
「馬…?」
 ヘフナーの説明はいたって簡潔明瞭だった。余計謎が深まる。
「そら、お前も引っぱるんだ」
 確かにそのドアは年代物であった。金具は黒光りしているし木目にも歴史が しみこんでいる。森崎は扉が思った以上に重いことに気づき、そしてヘフナー の顔を見た。そうか、それだけ体調が悪いということだ。本来のヘフナーなら 手を借りることなど考えもしないだろう。
「う〜、寒ーい!」
 ヘフナー言うところのビール倉に降りての第一声であった。ついでに扉を閉 めてしまうと、もう真っ暗である。
「み、店の人は…?」
 闇に目が慣れてくると、森崎は周囲にそそり立つ樽の山を恐る恐る見上げな がらヘフナーのコートを引っぱった。ヘフナーは倉の戸口の前で気配を窺って いる。
「大丈夫、行こう」
 ヘフナーはそっとドアを押した。森崎もその背に隠れるようにして後に続 く。短い廊下があって、その先はもうカウンターの内部だった。棚の横でいき なり店の親父さんらしき人と顔を突き合わせる。
「…はぁん?」
 親父さんもあまりの意表の突かれ方に頭が空白になったらしかった。目と口 をこれ以上ないくらいに大きく開けて二人を見つめる。
「あのう、トイレ…」
 ヘフナーが無表情にぼそりと言った。親父さんはそのポカンとした顔のまま で手だけを上げて店の片隅を指差す。
「ども」
 ドイツ人てのは不意打ちに弱いのだろうか…、と考えながら森崎はヘフナー についてこそこそと店のフロアに移動した。客は多くない。地下1階に当たる この店には、天井に近いあたりに横長の明かり取りがわりの窓が一つあるだけ で全体に薄暗い。テーブルは3つ4つしかなく、あとはカウンターに立って飲 むだけらしい。
「俺たちも飲むか?」
 本当にトイレに行ってしまったヘフナーが森崎のそばに戻って来た。
「あのねーっ!」
 抗議の声を上げかけた森崎の背がぎくりと凍る。肩に誰かの手の感触があっ たのだ。
「やあ、寒いのにご苦労だね」
 向かい合っているヘフナーの目にさっと厳しい色が宿ったのを見て森崎はこ わごわと振り返った。瞬間に跳びすさる。
「…ジノ・ヘルナンデス!?」
 森崎の叫び声に、ジノはにこにこと微笑を返した。
「確か1年ぶりかな、君とは」
「えーと…」
 ジノの言葉に間違いはない。1年前のユース大会で、日本とイタリアは因縁 の対決をしたのだ。ヤボ用で現地入りが遅れた若島津の代わりにスタメン出場 した森崎は、この時初めてジノ・ヘルナンデスとフィールドでの対面を果たし た。結果は引き分け。残りを全勝してともに決勝トーナメントに進出したもの の、日本が決勝戦に駒を進めた時にはもうイタリアは姿を消していたのだっ た。翼のいない日本チーム。ジノは何を思い、そして去って行ったのか。いつ もどこかに喪失感の残るジノとの出会いは、森崎にとっても何か苦い記憶の中 にあった。
「…消えろ」
 ヘフナーの低いうなり声に、森崎はぎょっと我に返った。
「お前を見ると思い出したくないことを端から思い出すんだ。消えろ!」
「ひどいなあ、ヘフナー」
 ジノは大きく両手を広げると、悲しそうな顔をして首を振ってみせた。
「僕は何か手助けができないかと思っただけなのに…」
「何ぃ?」
「第一、あれだけ耳元で騒がれると誰だって気になってしまうじゃないか」
 ジノは言葉を切る。いつの間にか真顔になっていた。
「そうでなくてもシュナイダーの件は同じ世代の者として見過ごせないしね」
「ジノ、お前…!?」
 森崎は絶句した。ヘフナーさえも表情を動かす。ジノはにこにこと自分の頭 の上で指を広げて見せた。
「そう、僕も持ってるんだ、実はね」
「…俺のカンは正しかったわけか」
 ヘフナーににらみつけられて平然と笑っていられるとは相当の人間であろ う。いや、ESPを持っているかいないか以前に。
「もっと早く君に打ち明けようとしたんだがね。なのに君は僕と話すらしてく れなかったじゃないか」
「いいからなつくなっ!」
 ジノも森崎から見ればかなりの上背の持ち主であるが、ヘフナーとは比べる べくもない。ヘフナーはジノを振り払ってとりあえず深呼吸をした。
「聞いたか、ワカバヤシ」
『…びっくりした』
 あまりびっくりした様子はないが。
「やあ、ワカバヤシ。それにワカシマヅ」
『…やっと俺の名前を覚えたな』
 若島津には若島津なりのトラウマがある。この世でもっとも間違えられたく ない相手と取り違えられて、あっさりそれを忘れられるような性格はしていな いのだ、彼は。
『で、ヘルナンデス、何してるんだ、こんなとこで』
 直接対決の経験のない若林だけが一応冷静だった。
「休暇だよ。姉一家に会いに…」
「だーっ!」
 唐突なヘフナーの大声に、ジノもさすがに驚いた顔で言葉を切る。ついでに 店の中の客達も、一斉にこの奇妙な取り合わせの3人に視線を集めた。
「言うなっ、それ以上!」
「いいけど…お客さんじゃないのかな、ほら…」
 ヘフナーも森崎も息をつめる。ジノが目で指した通り、店の入口にひょっこ り姿を見せたのは最初に市電に乗ってきて検札おばさんにつかまった方の男で あった。
「僕が先に行こう。僕は顔を見られてないからね…」
 片目をつぶっておいてジノは男の方に向き直った。そのまま入口に向かう。
 男は最初からジノは目に入っていなかったと見える。ヘフナーと森崎に鋭い視 線を留めたまま、店の中へと一歩踏み出した。そこへジノがついっとすれ違 う。
「……!」
 派手な音を立てて男は板張りの床にはりついていた。
「あ、すみません、大丈夫でした?」
 きれいなドイツ語でジノが声をかけた。もっとも男にとってはそんなことは 何の慰めにもならなかったが。
「あれっ、ワルサーですか! 僕、本物に触るのは初めてです。ドイツの銃器 は優秀でいいですね」
「…こいつっ、返せ!」
 転んだはずみに一緒に床に転がったオートマチック銃をジノがひょいと拾い 上げた。男が逆上して飛びかかり、もみ合いになる。その騒ぎのすきをつい て、ヘフナーと森崎がそーっとその後ろをすり抜けようとした。
「あっ、待たんか!」
 男がすぐに気づいて体を反転させる。ちょうどそこにいた森崎がまともに突 き合った。男は森崎の襟首をつかんで締め上げようとする。加勢しようと手を 伸ばしかけたヘフナーがぎくりとその手を止めた。…部屋の空気が動いたの だ。
 壁際の大きな木のテーブルがふわりと浮き上がる。と思った途端、いきなり 横ざまに倒れかかってきた。
「うわっ!」
 背後からテーブルの直撃を受けた男は思わず森崎を放す。
「ああ、駄目ですよ、乱暴はいけません」
 ヘフナーの凝視に微笑で応えておいて、ジノが男に駆け寄った。いきなり後 ろから男のあごを抱え込み、もう片方の手に握っていた瓶からその口にビール をありったけ流し込む。
「うわっぷ、うぷっ…!」
「はい、もう一本ね」
 言いつつジノは目で合図した。ヘフナーがぱっと壁に飛びつく。照明…OF F。
 突然の乱闘に目を見張っていた他の客たちが一斉にどよめいた。完全に真っ 暗になった室内の各所でドスンバタンと音が響く中、やっと自由になった森崎 はヘフナーと一緒に出口に走った。
「じゃ、また後で」
 闇の中ですれ違ったジノの声が森崎の耳にも届いた。が、振り返った時には もうドアは閉まってしまった後である。
「くそ、あんなヤツに借りができちまった…」
 地上への階段を駆け上がりながらいまいましそうにヘフナーがつぶやく。
「俺が本調子でさえいたらあんなヤツの世話になんぞならなかったのに…」
「今の…、ジノの力なのか? あのテーブル」
「ふん、らしいな」
「ねえ、ヘフナー」
 森崎は不機嫌そうなヘフナーを横目でじっと見た。ヘフナーに続いて地上に 出ると、一日隠れていた太陽が街並みの屋根の向こうから弱い光を斜めに投げ かけていた。まだ3時だというのに早くも日暮れの風情である。
「ジノと親しいのか?」
「…誰がっ!! お前どこに目をつけてるんだ、さっき見ててそれくらいわから んかったのか!」
「親しく見えたよ…」
 ほとんど漫才である。森崎にその自覚はなかったが。ヘフナーもそれにやっ と気づくと息をついで声を静めた。
「あいつが…一方的に親しがってるだけだ」
 それきり完全に黙り込んでしまったヘフナーに、森崎もそれ以上尋ねること はしなかった。深入りしても恐ろしいだけだろうし。
『ヘフナー!』
 ちょうどそこに若林の声がした。
『そのまま行くと駄目だ、横丁に入れ。もう一人の奴がその先に車で待機して る』
「ダンケ」
 短く答えてヘフナーはさっと左に折れた。
「公園があるな…」
『その公園の門を入って左に突っ切れ。道を隔てて小さい教会がある。俺たち はそこで待ってるからな』
「…何だ、教会ってのは」
 口の中でヘフナーがぶつぶつぼやいた。
 その教会はすぐに見つかった。道路まで来ると戸口で若林が手を振っている のが見えた。
「妙なものが見つかってな…」
 若林は2人を急いで招き入れながら素早く周囲に視線を投げ、バタンと扉を 閉めた。
「ここは…?」
 一歩足を踏み入れた途端、ヘフナーが思いっきり顔をしかめた。ごくありふ れた造りの教会の内部はしんと静まり返って、夕闇をその懐に抱いたまま時間 の流れを止めてしまったかのようだった。ステンドグラスの一部分のみが弱い 西日を受けてぼんやりと色の陰影を石の床に落としている。
 そこに若島津が立っていた。
「…それか?」
 ヘフナーが低く声をかけると、若島津は横顔だけをこちらに見せて黙ってう なづいた。その視線の先を不思議そうに辿った森崎はぎょっと後ずさった。す ぐ背後にいたヘフナーとドシンとぶつかってしまう。
 祭壇の左下、聖燭台の前であった。ぼうっと白い光の塊が浮かび上がってい る。立っている若島津の半分ほどの高さだったろうか。塊と言ってもはっきり したものではなく、空気の一部が澱んで微かだがゆらめいているようにも見え る。
「ワカシマヅ、それ以上近づくな。俺の二の舞になるぞ」
「…そうだな」
 若島津は素直にうなづいたが、やはり目はその一隅から離さずにじっと立ち つくしている。
「ゆ、幽霊…!?」
 森崎がつぶやいた。
「馬鹿言うな。教会の中に幽霊だの悪魔だの入れるものか」
 ひょっとして本気のようなヘフナーであった。医学を学ぼうという者でさ え、宗教観となると話は別らしい。
「怨念…」
 が、続く若島津の言葉が一気に話をオカルト化してしまう。
「でなければ悪意…。いや、殺意、と言ったほうがいいかもしれない」
「まさか! そいつがシュナイダーを…?」
 若島津の顔からその白い光に視線を戻した森崎の目に戸惑いの色が浮かぶ。 「一種のテレパシー波だな。恨みにしろ怒りにしろ、そういう感情レベルの執 念がエネルギーとなって実体化しているんだ。もっともこいつ自体はその影み たいなもんだが」
 少し離れて立っていた若林が自分の手袋を外し、その光めがけて軽く放っ た。手袋がその中に吸い込まれてわずかに輪郭が霞んだ…と思った瞬間、光の 塊はすうっとかき消えていた。ぱさり、と手袋が力なく床に落ちる。
「誰かは知らんが、俺たちが相手にしようとしてるのは只者じゃないな」
「お前のお仲間ってわけだ」
 若島津は落ちた手袋をひょいと拾い上げ、片手でぽんぽん持て遊ぶ。腕を組 んでいた若林がじろりと若島津を睨んだ。
「他人事のように言うな。自分はどうなんだ。お前も、ヘフナーも、森崎も」 「おっ、俺は違います!」
 ムキになって叫ぶ森崎を見やった若林の目が微かに和らいだ。
「…お前も、だよ、森崎」
「若林さん…?」
「お前もだ、って言ってるんだ!」
 いきなり背後から首ごと抱えられて森崎は目をぐるぐるさせる。
「ヘフナーっ! やめろって、苦しい…!」
「バカヤロ…」
 森崎の耳に微かに届いたその言葉は独り言だったのだろうか。しかしいつも 通り、ヘフナーは無表情なままだった。








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