「手伝え、モリサキ」
「ああ…」
扉は2つ、日本式に言うと観音開きの形に並んでいた。ヘフナーは疑問顔の
森崎を後目に、その取っ手の一つを握る。
「この真下が酒場のビール倉になっているんだ。毎朝工場から馬が配達に来
る。で、ここからホースで店の樽を一杯にする」
「馬…?」
ヘフナーの説明はいたって簡潔明瞭だった。余計謎が深まる。
「そら、お前も引っぱるんだ」
確かにそのドアは年代物であった。金具は黒光りしているし木目にも歴史が
しみこんでいる。森崎は扉が思った以上に重いことに気づき、そしてヘフナー
の顔を見た。そうか、それだけ体調が悪いということだ。本来のヘフナーなら
手を借りることなど考えもしないだろう。
「う〜、寒ーい!」
ヘフナー言うところのビール倉に降りての第一声であった。ついでに扉を閉
めてしまうと、もう真っ暗である。
「み、店の人は…?」
闇に目が慣れてくると、森崎は周囲にそそり立つ樽の山を恐る恐る見上げな
がらヘフナーのコートを引っぱった。ヘフナーは倉の戸口の前で気配を窺って
いる。
「大丈夫、行こう」
ヘフナーはそっとドアを押した。森崎もその背に隠れるようにして後に続
く。短い廊下があって、その先はもうカウンターの内部だった。棚の横でいき
なり店の親父さんらしき人と顔を突き合わせる。
「…はぁん?」
親父さんもあまりの意表の突かれ方に頭が空白になったらしかった。目と口
をこれ以上ないくらいに大きく開けて二人を見つめる。
「あのう、トイレ…」
ヘフナーが無表情にぼそりと言った。親父さんはそのポカンとした顔のまま
で手だけを上げて店の片隅を指差す。
「ども」
ドイツ人てのは不意打ちに弱いのだろうか…、と考えながら森崎はヘフナー
についてこそこそと店のフロアに移動した。客は多くない。地下1階に当たる
この店には、天井に近いあたりに横長の明かり取りがわりの窓が一つあるだけ
で全体に薄暗い。テーブルは3つ4つしかなく、あとはカウンターに立って飲
むだけらしい。
「俺たちも飲むか?」
本当にトイレに行ってしまったヘフナーが森崎のそばに戻って来た。
「あのねーっ!」
抗議の声を上げかけた森崎の背がぎくりと凍る。肩に誰かの手の感触があっ
たのだ。
「やあ、寒いのにご苦労だね」
向かい合っているヘフナーの目にさっと厳しい色が宿ったのを見て森崎はこ
わごわと振り返った。瞬間に跳びすさる。
「…ジノ・ヘルナンデス!?」
森崎の叫び声に、ジノはにこにこと微笑を返した。
「確か1年ぶりかな、君とは」
「えーと…」
ジノの言葉に間違いはない。1年前のユース大会で、日本とイタリアは因縁
の対決をしたのだ。ヤボ用で現地入りが遅れた若島津の代わりにスタメン出場
した森崎は、この時初めてジノ・ヘルナンデスとフィールドでの対面を果たし
た。結果は引き分け。残りを全勝してともに決勝トーナメントに進出したもの
の、日本が決勝戦に駒を進めた時にはもうイタリアは姿を消していたのだっ
た。翼のいない日本チーム。ジノは何を思い、そして去って行ったのか。いつ
もどこかに喪失感の残るジノとの出会いは、森崎にとっても何か苦い記憶の中
にあった。
「…消えろ」
ヘフナーの低いうなり声に、森崎はぎょっと我に返った。
「お前を見ると思い出したくないことを端から思い出すんだ。消えろ!」
「ひどいなあ、ヘフナー」
ジノは大きく両手を広げると、悲しそうな顔をして首を振ってみせた。
「僕は何か手助けができないかと思っただけなのに…」
「何ぃ?」
「第一、あれだけ耳元で騒がれると誰だって気になってしまうじゃないか」
ジノは言葉を切る。いつの間にか真顔になっていた。
「そうでなくてもシュナイダーの件は同じ世代の者として見過ごせないしね」
「ジノ、お前…!?」
森崎は絶句した。ヘフナーさえも表情を動かす。ジノはにこにこと自分の頭
の上で指を広げて見せた。
「そう、僕も持ってるんだ、実はね」
「…俺のカンは正しかったわけか」
ヘフナーににらみつけられて平然と笑っていられるとは相当の人間であろ
う。いや、ESPを持っているかいないか以前に。
「もっと早く君に打ち明けようとしたんだがね。なのに君は僕と話すらしてく
れなかったじゃないか」
「いいからなつくなっ!」
ジノも森崎から見ればかなりの上背の持ち主であるが、ヘフナーとは比べる
べくもない。ヘフナーはジノを振り払ってとりあえず深呼吸をした。
「聞いたか、ワカバヤシ」
『…びっくりした』
あまりびっくりした様子はないが。
「やあ、ワカバヤシ。それにワカシマヅ」
『…やっと俺の名前を覚えたな』
若島津には若島津なりのトラウマがある。この世でもっとも間違えられたく
ない相手と取り違えられて、あっさりそれを忘れられるような性格はしていな
いのだ、彼は。
『で、ヘルナンデス、何してるんだ、こんなとこで』
直接対決の経験のない若林だけが一応冷静だった。
「休暇だよ。姉一家に会いに…」
「だーっ!」
唐突なヘフナーの大声に、ジノもさすがに驚いた顔で言葉を切る。ついでに
店の中の客達も、一斉にこの奇妙な取り合わせの3人に視線を集めた。
「言うなっ、それ以上!」
「いいけど…お客さんじゃないのかな、ほら…」
ヘフナーも森崎も息をつめる。ジノが目で指した通り、店の入口にひょっこ
り姿を見せたのは最初に市電に乗ってきて検札おばさんにつかまった方の男で
あった。
「僕が先に行こう。僕は顔を見られてないからね…」
片目をつぶっておいてジノは男の方に向き直った。そのまま入口に向かう。
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