1章 4





 




「問題はさっきからしつこく追ってくる連中と、あの『鬼火』氏の関係だ。同 じ仲間か、別件か…」
 若林はややうんざりした顔でアンダーシャツを一枚つまみ上げた。着替えが 少し…それがシュナイダーのバッグの中身の全てだった。教会を出て、向かい の公園の芝生の上で店開きをしたはいいが、どうも収穫としては上出来とは言 いがたい。
「だからあのおっさん、一人つかまえといて締め上げりゃよかったんだ」
「おまえが本調子ならな…」
 過激なことを口走るヘフナーに、若島津がぼそっと応じる。若林もうなづい た。
「こっちの態勢が十分でないうちはそう無茶もできんだろう」
「どこが無茶だ。それに俺ならもう治ったぞ」
「お前な…」
 一応は平穏な学生生活に埋没していたはずのヘフナーが一気にその借りを取 り戻そうとしていた。故郷の南ドイツの空気のせいか、それともこの顔ぶれの せいか。
「さっきのアレが消えた時、俺の熱も引いたんだ」
「本当に…?」
 言いつつ森崎が手を伸ばしてヘフナーの額に触る。すぐさまヘフナーが無言 で森崎を投げ飛ばした。
「しかし気に食わんな」
 みごとに転がった森崎に同情の目を向けながら若林がつぶやいた。
「シュナイダーの痕跡をうまく辿ってるって言うより、俺たちの行動自体が予 測されてて、予め張られてたワナに端からかかってるんじゃないかって気もす るんだ」
「ワナか…」
 ヘフナーの目が光った。
「相手がそれだけのESP(ちから)を持ってるなら、なんでそんなまわりく どい方法をとるんだ。俺ならすぐにでも目の前に行って叩き潰すがな」
「あのな…」
 年月もGKの過激さを変えることはなかったらしい。若林は呆れながらシュ ナイダーのバッグを脇に置いた。と、ふと向かいに座る若島津に目を止める。 若島津は何か妙に考え込んでいるふうに足元の草を弄んでいる。が、すぐ若林 の視線に気づいて目を上げた。
「…何だ?」
「何だはお前だ。さっきから何考えてるんだ」
 若林の言葉に、若島津はやはり無表情のままぽつりと応えた。
「あの怨念ともう少し話をしたかったな、と…」
「…おい!」
「お前は実はエクソシストだったのか」
 とにかく何が困ると言って、この手の話題が若島津の場合、冗談ではすまな いような説得力があることである。言ったヘフナーが本当に冗談のつもりだっ たのかは不明だが。
 若島津はゆっくりと顔を上げて若林にまっすぐ向き直る。そうなると若林も 何か話を合わせなければ、と妙な使命感にとらわれてしまった。折りしも日は 既に落ちて公園の木々もその姿を黒いシルエットに沈ませ始めている。舞台効 果は実によく効いていたのだった。
「あれが…何かお前に話しかけて来たか?」
 多少引きつり気味の冗談は、こうなるとほとんどマジにしか聞こえない。
「お前たち気づかなかったか。森崎が近寄った時、あれは微かに反応したん だ。…光の色が微妙に変わって、森崎のほうへわずかに動いた…。まあ『声』 とは言わんが、何か言うくらいの真似はしたかもしれん」
 3人は一斉に顔を上げてさっきまでそこらで転がっていた森崎の姿を捜す。 「おいっ…!」
 若林が顔色を変えて飛び上がった。向こう側の芝生の上で森崎が仰向けにな って目を閉じている。若島津とヘフナーもすぐさま後を追った。3人の胸に期 せずして同じ記憶が蘇る。3年前の新宿。あの嵐の夜の出来事が…。
「どうしたっ、森崎!」
 どたどたと走り寄って若林が叫ぶと、森崎はそおっと片目を開け、周囲を確 かめた。
「あ、若林さん…? どうしたんですか?」
 思いきり間の抜けた返事に、3人は顔を見合わせた。そしてぱっと森崎に向 き直る。
「眠いのかっ、森崎!!」
 日本語とドイツ語で、3つの言葉が見事に重なった。
「えー、違いますよぉ」
 森崎はその剣幕にきょとんとしている。
「俺、死んだふりしてたんです」
「な…にぃ〜?」
「ほら、あの犬が…」
 森崎が指した先に、黒い大型犬が立っていた。ふんふんと草をかぎ回ってい る。
「さっきすごい勢いで俺の方に向かって来たんですよ、あれ」
「…で、死んだふりしてたってわけか」
 若林はざっくりと肩を落とす。
「あ〜っ、またこっち見てる…!」
 立ち上がりかけた森崎がまた情けない声を上げた。ヘフナーがその頭をふわ っと抱え込む。
「お前、犬が苦手か?」
「違うよ。でも、あんな大きな野良犬だし…」
「あれは野良犬なんかじゃない」
 ヘフナーと目が合って、犬がまたゆっくりと駆けて来た。匂いをかぎながら 二人に近づく。
「ヘ、ヘフナー…」
 ヘフナーはおびえる森崎には返事をせず、黙ってまっすぐ犬のほうを向い た。犬も途中で足を止めた。しばらくそのまま見つめ合う。が、やがて何も起 こらないまま犬はくるりと向きを変えてどこかへ走り去って行った。
「怖がることないぜ、おとなしい犬じゃないか」
「う、うん…」
 森崎は去って行く犬の後ろ姿にやっと肩の力を抜いた。
「主人は向こうの方にいるらしいな。散歩の途中だったんだろう。気分がいい もんだから一人でうろついてたんだ。腹も減ってないようだったし」
「お前の『力』、動物の言葉も分かるのか?」
「まさか。『力』なものか」
 横から口を出した若林に、ヘフナーは平然と答える。
「今のは基本的な挨拶さ。初対面同士は特に丁寧にいかなくちゃな。耳をぴん と立ててこちらに向けたろ? あれが『これはこれは…』って、まず相手を認 めて注意を払ってるぞ、って合図。それも友好的な興味があるってしるしだ。 で、次に片方の耳をちょっと引き上げる。あれが『やあ』って一般的な挨拶。 鼻をふんふん言わせたのは俺を検分してたんだな。口元が優しかっただろ。で も近寄りはしなかった。だから敵対する気はないし、友達付き合いしてもかま わんが今のとこ間に合ってる、それにパートナーがあっちで待ってるから…っ てことさ。だから安心して背中を見せて戻ってったろ」
 ぼそぼそと、しかしいかにも嬉しそうに解説するヘフナーを森崎はぽかんと 見つめるばかりだった。
「それだけわかるなら、十分特殊能力だと思うけど…」
「単に犬に慣れてるだけだ。よかったら教えてやるぞ」
「…へ?」
「犬との意思疎通法。ちょうど今散歩タイムだから話し相手の犬はごろごろし てる」
「い、いいってば、もう!」
 今度は犬よりむしろヘフナーの前で死んだふりをしかねない森崎に苦笑しな がら、若林は組んでいた腕を解いた。これで怨念と相性がいいなどと教えたら どんな騒ぎになるか…。
「どうも気づいてないぞ、あれは」
「の、ようだな」
 シュナイダーのバッグを拾い上げて若島津も最後尾についてきた。森崎が耳 ざとく聞きつけて振り返る。
「何の話です?」
「いや、さっきの…」
「お前、今回は一人にならんほうがいい」
 軽く応じかけた若林の言葉をさえぎって若島津がぽつりと言った。
「若島津…!?」
「何でだよぉ?」
 顔色を変えたのは若林のほうだった。森崎はいたってのんびりと問い返す。 「また迷子になられちゃたまらんからな」
「そりゃないよー、ヘフナーのほうがよっぽど迷子の才能あるんだぞ」
 あっさり冗談に紛らわしてしまった若島津のポーカーフェイスを若林は横か ら厳しい表情で見つめた。今の言葉には若島津の『本音』があった。
「モリサキ…」
 ヘフナーが再び手を伸ばして森崎を抱え込んだ。
「そういう言いがかりはよせ。俺は単に酒場以外に興味がないだけだ。シュナ イダーの同類にされてたまるか」
 また二人だけの世界で漫才を始めた森崎とヘフナーを若林はそのまま市電に 押し込む。席について窓から注意深く周囲に目を配って追跡者を確認した後、 若林はゆっくりと若島津に向き直った。若島津は知らんぷりして暮れてきた街 並みを眺めている。
「若島津…」
 若林は真顔だった。
「お前、何か予知してるんじゃないのか?」
 若島津は窓に頬杖をついて黙っている。繁華街の灯が若島津の顔を片側を染 めながら流れていた。
「…俺たちには言えないようなことなのか」
 若林の言葉に若島津の眉が動いた。横を向いたまま、ぼそりと口を開く。
「口に出すとほんとになりそうなんでな」
 本気か、と応じかけて若林は口を閉ざした。若島津の視線がじっと森崎に止 まっていたのだ。ヘフナーにからまれて最前列でまだ漫才をやっている様子で ある。
「…俺は、嫌な夢しか見ない」
 若島津が今度はまっすぐ若林に顔を向けた。表情がまるでない相手に、若林 は肩をすくめる。
「運命は変えられんさ」
「お前が運命を信じてるとは思わなかったな」
「信じるフリくらいはできるからな」
 若林はまじめくさって指を振る。
「お前らしい…」
 ようやく若島津が笑顔を見せた。








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