1章 5





 




 秘書は顔を上げて、部屋に入って来た副社長に目礼した。副社長は腕にコー トを引っかけた姿で秘書の前に立った。
「伝言はあるかね」
「ええ、30分ほど前に電話がありましたわ」
 副社長は会長秘書のデスクをぐるりと回ると、その背後に立って彼女の示し たメモに目を走らせる。
「なるほど、また逃したか…」
「のようですわね」
 秘書はタイプの手を止めることなく、素気なく相槌を打った。
「3人ばかりじゃ荷が重いかな」
「まさか。これ以上手は割けませんわ。会長はともかく専務側に感付かれてし まいます」
「それは困る…。ここで失策を暴露して会長の心証を悪くしたら元も子もない からな」
 副社長はつぶやきながら顎で背後のドアを示した。
「どうだ、今日は…?」
「いつもの通り。午前中2件ばかり承認書にサインしたきり、あとはまたうつ らうつらしたりチェスで時間をつぶしたり…」
「医者はどう言ってるんだ」
「昨日見えましたけど、検査結果や詳しい症状なんかはおっしゃらなかったん です。会長自身には伝えてあるから、って」
「何か手を回されてるんじゃないのか? 秘書の君に話さないなんて妙じゃな いか」
「普通は家族にでも言うものですけど、身寄りのないものはしかたないですし ね。そういう点では会長もまだ頭はしっかりしてるということじゃありませ ん?」
「しっかりしてるなら苦労はないがね。完全にボケる前にちゃんと後継者を指 名しておいてもらわないとな」
「ええ、あなたにね」
 互いに薄く笑みを浮かべる。将来がかかっているのだ。そう、これだけの企 業のトップに立てるかどうかの瀬戸際となれば、それなりの苦労はいとってい られない。
「今の所は私に有利に進んでいる。株主総会のほうもうまく手を打ってあるし な。後はご老人の気持ちが動かないようにするだけだ」
「急いだほうがいいでしょうね…」
 秘書の言葉は途中で切れた。秘書室の外に人影が映ったかと思った途端、勢 いよくドアが開いたのだ。
「やあ、これは副会長、もう退社なさったと思ってましたよ。こんな奥座敷ま ではるばる何の御用ですかな」
 快活そうな顔に目だけはあからさまに挑戦的な色を浮かべて総務部のトップ である専務は両腕を広げた。副会長もさりげない風を装いながら軽く応じる。 「会長の具合があまり良くないと聞いたのでね、様子を見に寄ったんだよ」
「良くないと言う言い方は感心しませんな。ご覧の通り毎日元気にご出社だ し、お仕事ぶりもいつも通りだ。相変わらずと言ったところでしょう」
 互いに相手の腹を探り合いながらも、会長の病状については率直そのもので ある。
 現会長はかつてその強引とも言える才気と手腕とで一地方企業だったこの会 社を国で一、二の大企業にのし上げたのだったが、ちょうど1年前に社長の椅 子を辞し、顧問役として立場上は経営から直接の手を引くことになった。まだ 60代の声を聞いたばかりであったし、この唐突な引退劇は社の内外に少なか らぬ波紋を引き起こした。その第一が後継者問題である。
 会長は独身で身内もほとんどなく、唯一の血縁者が新社長となった若い従兄 弟だった。その新社長はしかし就任以来南アメリカの新プラント事業のために この本社には常駐していない。名目こそ社長だが、それも正式に会長が引退す るまでの臨時措置であって、いずれはその子会社の一つを任されて本社の中枢 からは遠ざけられることになるだろうというもっぱらの噂だった。
 そしてここ数ヶ月、会長はめっきり老け込み病気がちになった。一応仕事は 続けているものの、時折ぼけ症状も目立ち、それにつれて社内の勢力分布が目 に見えて活発化し始めたのは言うまでもなかった。
「君こそどうしたのかね、専務」
 副社長の言葉に、専務は薄く笑みを見せた。
「呼ばれたんですよ。さっき、会長ご自身からね」
 秘書が無言で眉を寄せた。彼女を通さずに会長が人を呼び出すなどというこ とはまずないのだ。異例中の異例と言ってよい。副社長も納得がいかないとい う顔であった。
「…それはどういうことかね?」
「さあ」
 専務は肩をすくめた。
「どんなご用かは今から伺うわけですからまだわかりませんがね」
「……」
 副社長はその背中が会長室に消えていくのを憎々しげに睨みつけた。
「ヨアンナ…」
 その視線を動かさないまま、副社長は秘書に言った。
「遠慮は無用だ。スタッフを増員したまえ」
 目を見張る秘書に今度はくるりと向き直ると、彼は低く、しかしきっぱりと 命じた。
「猶予はできん。シュナイダーの行動が何かを意図してのものなのかを一刻も 早く突き止めねば…」
 彼はそこで言葉を切って、先程秘書が示したメモをもう一度確かめるように 凝視した。
「そしてこの友人どもの妙な干渉を即刻断ち切るんだ、どんな手を使ってでも な」







「どうだ?」
「駄目だ。ブルドーザーでも持って来ん限り動きそうにないな」
 コンパートメントの入口でヘフナーは肩をすくめた。そばまで来て若林がち らりと中を覗く。なるほど、座席にはこれ以上ないほどいかめしい顔つきの中 年女性が3人、それぞれ豊かな体積の膝の上で本を広げたり編み物をしたりし ていた。その向かいでは連れらしい男性が…気の毒に、きっとこの中の誰かの 夫君なのだ…その細い肩を窓側にもたれさせてこっくりこっくりやっている。  若林はヘフナーと目を合わせた。
「妙に混んでるもんだな。しかたない、とりあえずアウクスブルクまでは別れ て座ろう」
「あっちも婦人会か?」
「いや、一杯機嫌の兄さん達だ。もうほとんど寝入ってるが」
「何でアウクスブルク、なんだ」
「切符、見たからな」
 若林はにやりと笑って人差し指と親指をあわせて目の前にかざして見せた。 「便利なやつだ…」
 ヘフナーの言葉が途中で止まる。中のご婦人がドアの外でぐずぐずしている 2人にじろりと視線を投げたのだ。2人は覚悟を決めるとそーっとコンパート メントの中に入り、居眠りしているおじさんの横に並んで座った。中央で園芸 の本を読んでいたおばさんが目を上げたので若林は軽く会釈したが、オバサン は無表情に再び本に戻った。
 ヘフナーは腕時計を見る。ミュンヘンを出たのが17時6分。外はもう真夜 中のように真っ暗である。シュナイダーもこの闇を見ていたのだろうか。ふと そんな思いがよぎった。
 クラブハウスに残されたメモとマーガスの婚約者の証言から割り出した限り では、シュナイダーが2日前のこの急行列車に乗ってシュトゥットガルトに向 かったことはまず間違いない。
 ヘフナーは隣の若林の視線に気づいた。その視線が物語っているものを読み 取って、低く抗議する。
「勝手に覗くな。趣味の悪いやつだな」
 さっきは便利だと誉めたのに…。
「俺も同じことを考えてたのさ」
 若林は悪びれない。
「何を考えて、何のためにミュンヘンを発ったのか、ってな」
「あいつはどこに乗ってたんだろう」
「匂いは残ってなかったのか?」
「全部の車両を回ったわけじゃないからな」
 若林の冗談にもヘフナーは真面目に応じる。そのこと自体がヘフナーなりの 冗談なのかもしれないが。
「それにこの列車、シュトゥットガルトで最後尾の3両だけ切り離して北行き の列車に繋ぐんだ。そっくり折返し運転に回されるわけじゃないから2日前と 同じ車両がミュンヘンから出ている可能性はまずないな」
 午後に駅のインフォメーションで聞いてきたことをそのまま説明する。若林 が感心したようにうなづいた。
 と、ヘフナーが急に振り返った。ドアのガラス越しに森崎が立っていた。ノ ックしようとした拳がヘフナーの視線でぴたりと宙に止まっている。若林はさ っと立って通路に出た。
「すぐ来てください」
「どうしたんだ」
「シュナイダーのバッグから封書が見つかったんです」
 ヘフナーも黙ってついてきた。前の車両の一番後方のコンパートメントに急 ぎ足で向かう。
「おい、もう着きそうだぞ」
 歩きながら若林が窓の外を覗き込んだ。確かに列車は減速を始めたようだ。 遠く右前方に市街の灯が見える。
 彼らが着いた時、コンパートメントの中では若島津が寝入った4人のドイツ 人を親切に起こそうとしているところだった。動機は親切心なのだろうが…方 法にいささか問題があったかもしれない。ほとんどもつれるように座席に伸び ている酔っぱらいたちを足でぐいぐいと蹴り上げているのだ。きれいな顔して 性格が荒っぽいのもコワイものである。もっとも同席して被った迷惑を律儀に 返していると言うのなら、その迷惑もどれほどだったか知れるというものだ が。
「おー、手伝ってくれ」
 ガタン、と一揺れして列車が停車した。アウクスブルク駅である。
 腕力なら銀行に定期預金できそうなくらい持ち合わせているキーパーたちは 酔っぱらいの若者をあっさり追い出してコンパートメントを占領した。
「どこにあった?」
「底です」
 中の衣類は既に座席の一つに積み上げてある。森崎はバッグの底敷きを持ち 上げた。白い封筒がその下から現われる。シュナイダーに宛てた名前の住所が 読み取れた。
「暇だったんでもう一度あちこちひっくり返してたんですよね」
 若林は手を伸ばしてバッグの底から封筒を取り上げる。
「差出人の名前がないな」
「待て」
 一番後ろに立っていたヘフナーが唐突に横やりを入れた。
「その字には見覚えがあるぞ」
「本当か!」
 3人が一気に色めき立つ。
「ああ」
 しかしヘフナーの声に興奮は見えなかった。いつものことであったかもしれ ないが。ヘフナーは天井に視線を投げて、どっかりと席に腰を下ろした。
「それはたぶん…俺の字だ」




【第一章 おわり】



1章 終




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