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秘書は顔を上げて、部屋に入って来た副社長に目礼した。副社長は腕にコー
トを引っかけた姿で秘書の前に立った。
「伝言はあるかね」
「ええ、30分ほど前に電話がありましたわ」
副社長は会長秘書のデスクをぐるりと回ると、その背後に立って彼女の示し
たメモに目を走らせる。
「なるほど、また逃したか…」
「のようですわね」
秘書はタイプの手を止めることなく、素気なく相槌を打った。
「3人ばかりじゃ荷が重いかな」
「まさか。これ以上手は割けませんわ。会長はともかく専務側に感付かれてし
まいます」
「それは困る…。ここで失策を暴露して会長の心証を悪くしたら元も子もない
からな」
副社長はつぶやきながら顎で背後のドアを示した。
「どうだ、今日は…?」
「いつもの通り。午前中2件ばかり承認書にサインしたきり、あとはまたうつ
らうつらしたりチェスで時間をつぶしたり…」
「医者はどう言ってるんだ」
「昨日見えましたけど、検査結果や詳しい症状なんかはおっしゃらなかったん
です。会長自身には伝えてあるから、って」
「何か手を回されてるんじゃないのか? 秘書の君に話さないなんて妙じゃな
いか」
「普通は家族にでも言うものですけど、身寄りのないものはしかたないですし
ね。そういう点では会長もまだ頭はしっかりしてるということじゃありませ
ん?」
「しっかりしてるなら苦労はないがね。完全にボケる前にちゃんと後継者を指
名しておいてもらわないとな」
「ええ、あなたにね」
互いに薄く笑みを浮かべる。将来がかかっているのだ。そう、これだけの企
業のトップに立てるかどうかの瀬戸際となれば、それなりの苦労はいとってい
られない。
「今の所は私に有利に進んでいる。株主総会のほうもうまく手を打ってあるし
な。後はご老人の気持ちが動かないようにするだけだ」
「急いだほうがいいでしょうね…」
秘書の言葉は途中で切れた。秘書室の外に人影が映ったかと思った途端、勢
いよくドアが開いたのだ。
「やあ、これは副会長、もう退社なさったと思ってましたよ。こんな奥座敷ま
ではるばる何の御用ですかな」
快活そうな顔に目だけはあからさまに挑戦的な色を浮かべて総務部のトップ
である専務は両腕を広げた。副会長もさりげない風を装いながら軽く応じる。
「会長の具合があまり良くないと聞いたのでね、様子を見に寄ったんだよ」
「良くないと言う言い方は感心しませんな。ご覧の通り毎日元気にご出社だ
し、お仕事ぶりもいつも通りだ。相変わらずと言ったところでしょう」
互いに相手の腹を探り合いながらも、会長の病状については率直そのもので
ある。
現会長はかつてその強引とも言える才気と手腕とで一地方企業だったこの会
社を国で一、二の大企業にのし上げたのだったが、ちょうど1年前に社長の椅
子を辞し、顧問役として立場上は経営から直接の手を引くことになった。まだ
60代の声を聞いたばかりであったし、この唐突な引退劇は社の内外に少なか
らぬ波紋を引き起こした。その第一が後継者問題である。
会長は独身で身内もほとんどなく、唯一の血縁者が新社長となった若い従兄
弟だった。その新社長はしかし就任以来南アメリカの新プラント事業のために
この本社には常駐していない。名目こそ社長だが、それも正式に会長が引退す
るまでの臨時措置であって、いずれはその子会社の一つを任されて本社の中枢
からは遠ざけられることになるだろうというもっぱらの噂だった。
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