2章 1



第二章 白い闇





 こう見えてもシュナイダーは当惑していた。なぜこんなことになったのか、 さっぱり解らなかった。周囲の騒ぎはそんな彼を置き去りにしたままいよいよ 高まっていく。
「あ、ありがとうございます、ありがとうございます…」
「本当にあなたが助けてくださらなかったら今頃この子は…」
 椅子に掛けて全身を毛布にすっぽりくるまれた彼の前で二人の婦人が涙を流 しながら抱きつかんばかりに礼の言葉を繰り返す。
「あ〜、俺は…」
…別に助けるつもりであそこにいたわけじゃなく、ただ偶然通りかかっただけ で。
「ご自分の危険も顧みず、助け上げてくださって、何とお礼を申してよいやら …」
 シュナイダーの自己表現の努力を完全にさえぎって、年配のほうの婦人がさ らに感謝の言葉を浴びせかける。もともと口の達者なほうでないシュナイダー にはとても太刀討ちできる状況ではなかった。言いたいことの9割以上は口か ら出る前にその勢いに押され、また腹の中に出戻ってしまう。
「さあさあ、とにかく温かいスープを。体が冷え切ってしまいますよ」
 そこへまた別の婦人が現われた。湯気の立ったスープ皿を持っている。と、 その後ろからどやどやと数人の男たちがなだれ込んで来た。
「マチアスが見つかったって本当か!」
「良かった良かった、正直もう駄目かと…」
「ほう、この人が助けてくれた学生さんかい?」
 シュナイダーはもはや反論する余地もなく、とにかく渡されたスープをゆっ くり口に運んだ。深い雪にはまり込んで寒い思いをしたのだけは確かだった し、何より空腹だったのだ。
「そうかそうか、まったく、見ず知らずのお人がそこまでしてくださったと は、ありがたい事だ」
 狭い部屋は今や人であふれかえり、口々に興奮して言葉を交わすものだから その賑やかさと言ったらなかった。いかに常日頃、万の単位の観衆の熱狂の渦 巻く中でプレイしているシュナイダーでも、これはもうお手あげと言うしかな い。
「おかわりはいかがですか? たくさん召し上がってくださいね」
「はあ、じゃ…」
 差し出した皿にまたなみなみとスープが注がれ、シュナイダーは再びそれを 口に運び始めた。純朴そうな村人たちは、そんなシュナイダーの若者らしい食 欲ににこにこと見入っている。
 この雪深い村には単に迷って入り込んだだけのシュナイダーだった。そして 村に通じる雪の山道で足を踏み外して沢に転がり落ちたのである。ところがそ の吹き溜まりに何と先客がいたのだ。体を丸めて意識を失いかけていたその小 さな少年をシュナイダーが助け起こそうとした時に、折りよく上を通りかかっ た村人が彼の赤いザックに気づいて二人を収容した、というわけだった。
「あ、村長」
 また一人現われた。男たちが道をあける。
「この人です、マチアスの命の恩人は…」
「おお、それはそれは…」
 目を潤ませて手を差し伸べてきたその老人は、シュナイダーの手を力いっぱ い握りしめた。
「心から礼を言わせてもらいますぞ。本当にありがとう…」
「はあ、…実は、俺…」
 シュナイダーが再び事情を説明しようと口を開きかけたその途端、隣室から ばたばたとさっきの女性が駆け込んで来た。
「マチアスが、マチアスが気がついたわ!」
 おおっ、とどよめきが起きる。マチアスと呼ばれた遭難少年の母親と思われ るさっきの女性を先頭に、数人がドアに向かって走って行った。それを笑顔で 見送った村長は、再びシュナイダーに向き直る。
「見れば旅の途中のようだが、お急ぎでなければこの村でゆっくり休んで行っ てくれませんかな。せめてもの感謝のしるしに」
 これだけの人間がいながら誰一人この青年があのブンデスリーガのスーパー スター、カールハインツ・シュナイダーであることに気づかないのも妙な話だ が、なにしろこの騒ぎと興奮の中である。そして何より、ろくに口もきかずに スープをすすっているこのボーっとした様子を見ている限り、フィールドのあ の雄姿と結びつけるのはとても無理というものだった。
「……行きたい所があったんです」
 シュナイダーはようやく言葉を発することができた。村長は優しく目を見開 く。
「でも、列車を乗り違えて…それから道に迷って…」
 ついでにバッグもロッカーに置き忘れて…。
「この雪ですからな。土地の者でも夜道は避けますわい」
 村長はまたシュナイダーに向かってうなづいてみせた。
「ベッドはこの家で用意してあります。とにかく今夜はゆっくりお休みになる ことだ」
 シュナイダーの返事も待たず、村長はお休みを言って部屋を後にした。シュ ナイダーは皿を膝の上に下ろしてそれを黙って見送る。ドア越しに聞こえてく るなごやかな人声と、丸太組みの暖炉の火が、何か懐かしいような気分にさせ た。ゆっくりと、…そうゆっくりと眠れるかもしれない、と彼は心の中でつぶ やく。なんだか妙にそう信じられた。














「これ、どう見ても相当長くここに入ってたみたいですよぉ…」
 ヘフナーはやはり無表情のまま天井を眺めている。
「消印を見ろ。前の年のだ」
 若林が森崎に指した先にはひいらぎのリースと特徴ある尖塔の教会を組み合 わせたクリスマス用消印があった。日付は1年前の12月。差出地はケルンで ある。ヘフナーは黙って足を組み替えた。
「中を見ようぜ」
 若島津は完全に面白がっている。森崎は遠慮がちにヘフナーに目をやった が、ヘフナーはやはり知らん顔をしているだけだったので、封筒を手に取って 中を覗いた。
「クリスマスカードだ」
 引っぱり出して目の前に挙げた物を森崎が素直に定義する。
「…だな、どう見ても」
 開いてみても、印刷されたグリーティングの言葉とその下にヘフナーのサイ ンがあるだけの、何の変哲もないそのものズバリのクリスマスカードである。  3人分の視線を一度に身に浴びて、ヘフナーもようやくそちらに向き直っ た。
「だからそんなに驚くなと言うんだ。言っとくが、クリスマスカードを出すの は俺だけじゃない。世界中で何億という人間が12月になりゃこれを書くん だ。日本人だってそれくらい知ってるだろうが」
「知ってるけど…俺、出したことはないな」
 森崎が首を振る。その素直すぎるリアクションに若林がまた脱力してしまっ た。
「ならブッダの誕生日にカードを交換するのか、日本人は」
「違うって。カードはお正月だよ。年賀状を…」
「…そういう話をしてるんじゃない!」
 とうとう横から若林が一喝して、不毛な漫才を止めさせた。
「俺が知りたいのはな、ヘフナー、何でここにおまえの出したクリスマスカー ドがあるのかってことなんだ」
「俺が入れたんじゃない。シュナイダーだ」
 あくまで動じないヘフナーを、若島津がじっと見つめる。
「…こうなったら隠し事はやめようぜ、ヘフナー」
 その唐突な言葉に、ヘフナーの髪がぴくりと揺れた。若林と森崎も驚いたよ うに振り向く。
「おまえがおまえなりに進路を決めたのは構わんさ。だが一つだけわからんの は、なぜそこまでシュナイダーを遠ざけようとしたかだ」
「ワカシマヅ…」
 反論しかけたヘフナーは、しかしすぐ口をつぐんだ。そして森崎の手からす っと封筒を取り上げる。
「…無理に、じゃなかった。そういう時期が来てたんだ。少なくとも俺はそう 判断した。だからこそ決断もできたんだ」
 封筒は四辺がすり切れかけていた。バッグの底の糸くずなどが紙に引っかか って、その場所にあった時間の長さを無言のうちに語っている。
「おまえが、シュナイダーと…離れる必要があった、と?」
「必要というのとは少し違うな。必然だ」
 若林はヘフナーの隣に腰を下ろした。その手の封筒を横から一緒に見下ろ す。若島津と森崎も向かいの席についた。
「だがな、シュナイダーのほうがそう思ってたかどうか…。俺にはわからん。 シュナイダーはただ無反応だったんだ。そう、いつも通りにな」
 ヘフナーは口の端で薄く笑った。
「あいつが何を考えてるか、わかる必要はないとずっと思ってたし、実際、わ かろうとしなかったからこそ俺たちはうまくやってたんだと思う。だが、一番 わからなくてはいけない時に俺はわからないままになった。…それがずっと俺 の引っかかりだったんだ」
「シュナイダーは」
 意外にも、口をはさんだのは森崎だった。
「ヘフナーのアンテナにも反応しないただ一人の相手だったんだろ。だった ら、シュナイダーは特別だったんだよ、ヘフナーにとって」
 ヘフナーが目を見開く。一瞬置いて、皮肉めいていた笑みがふっと優しくな った。
「それはどうかな。ワカバヤシのテレパシーも通じないんだぞ。ならワカバヤ シにとっても特別だろう」
「え、と…」
 森崎が困る。困りながら若島津に目をやった。若島津は肩をすくめる。
「そういう奴がいるのさ。たまにな。とにかく特別なんだ。能力が、とかじゃ なくその位置がだ。誰かにとってだけ特別なんじゃない、全ての人間にとって 特別な存在になってしまう…、ならざるを得んって奴が…」
「ああ…」
 森崎がはっとして息を飲んだ。彼は知っていたのだ、まさにそういう存在を 身近に。ずっと彼の前にいた、…そして今は遠い地に隔たってしまった一人の 少年の面影が森崎の胸に浮かんだ。
「…シュナイダーはそれを知ってるのかな。自分がそんな存在だってこと」
 複雑な想いが二重にかぶさって、森崎はぽつりぽつりと言葉を継いだ。足元 からは規則的な振動音が響き、窓の灯の向こう側で列車の影が様々な形をなぞ りながら夜の底を突き進んで行く。
「あ、雪だ」
 森崎が声を上げた。窓ガラスにぱたりぱたりと白い結晶がぶつかり、またす ぐ風に引きちぎられていく。
 ヘフナーも窓を見た。雪はますます強くなってくるようだ。若林は座席に深 く背を沈めた。車両がガタンと一揺れして、その一瞬部屋の灯がぽっと暗くな った。
「あいつは…、自分が特別だとは思いたくなかったのかもしれん…」
 ヘフナーはじっと若林を見た。
「俺も覚えてるよ。おまえがユース代表を辞退して進学するって噂が流れた直 後だ。ちょうどバイエルンと試合があった。試合の後、シュナイダーに俺は訊 いたんだ、噂は本当かってな。そしたらあいつは一言、『ヘフナーに聞いてく れ』って言ったぜ」
「あいつが変なのは俺のせいだって言いたいのか? まさか! あいつは俺と 出会うずっと前から変だったし、これから先もずっと変なままに決まってる。 あれはあいつの勝手ってやつだ。いちいち俺のせいにされるのは困る」
『そうかなぁ』
 妙な合いの手が入った。ヘフナーの表情が目に見えて変わる。
『君にそこまで言われるとシュナイダーが気の毒じゃないかな、いくら事実で も』
「…ヘルナンデス!?」
 絶句しているヘフナーに代わって、若林がいちはやく反応した。
「どうした! 今どこなんだ」
『チューリヒに向かう飛行機の中だよ。ちょっと耳に入れたいことができて ね』
 4人は顔を見合わせた。








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