2章 2







『言っただろう? シュナイダーの件は僕にとっても他人事じゃないって』
「…あまえも独自に調べてたってわけか」
『まあね』
 ジノは短く答えてくすくす笑った。
『ミュンヘンで会えたのは偶然だったけど、いずれどこかでぶつかるとは思っ てたんだ。少なくともヘフナーとはね』
「…何が言いたいんだ」
 ヘフナーがうなる。その首をどうどうとなだめながら、若林が続けた。
「で、どんな情報だ」
『彼の周辺で動いていた者があったって事だよ』
「じゃあ…」
 森崎がつぶやいた。シュナイダーのスキャンダルはやはり仕組まれたものだ った…?
『ドイツのお二人、F・ヒンツ社の名は知ってるだろう』
 突然名指しされて、若林とヘフナーが目を合わせた。
「ああ、名前だけなら。確か最近は業界シェアを相当伸ばしているらしいが」
『ここの内部情報が手に入ってね…』
「内部情報だと…?」
『F・ヒンツ社はうちの取引先の一つなんだ。持ち株も少しある。今度の社長 交代劇にどうも不透明な点があるとかで、僕に内々に調べるよう父から命じら れたのさ』
「ヘルナンデス…」
 ブルータス、おまえもか、の心境で若林がつぶやいた。ジノの実家がイタリ ア北部の大手企業だということは聞いてはいた。確かにファミリーの絆が強い のがイタリア企業の特徴ではあるが、プロとしてしっかり身を立てている息子 の手まで借りるとはつくづく徹底している…。若林は我が身を振り返って、3 年前の事件の発端が父親の『ちょっと手伝いを頼めんかな』という軽い言葉だ ったことを思い出さずにいられなかった。
「…孝行息子なんだな」
『ありがと♪』
 ジノにその苦悩を理解してもらうのは難しいに違いない。
『でもね、確信があったから僕も引き受けたんだよ。上手くいけばシュナイダ ーとつながるんじゃないかってね』
 ジノは手短かに説明を始めた。
『F・ヒンツ社は現会長が一代で大きくした総合企業だけど、当の会長の引退 を前にして、今社内の勢力争いが活発化している状況なんだ』
 若林が振り返ったのでヘフナーは黙ってうなづいた。学生の身分で証券界に も首を突っ込んでいるヘフナーである。(本人はアルバイトだと言っている が)どうやらその情報は既にその筋では公認のものらしい。
『ところがある噂が持ち上がった。裏取引に使うための架空会社、つまりペー パーカンパニーのね。ヒンツ社全体が関与しているのか、あるいは一部、ある いは個人、それはわからない。…ただ、シュナイダーの礼の入金の時期が、そ のペーパーカンパニーの動きとぴたりと一致するんだ』
「シュナイダーと接触があったと…?」
 若林の問いに、ジノは一瞬迷いを見せた。
『証拠がまだ不十分なんだ。現段階ではその断片をつなぎ合わせることしかで きない』
「だが、おまえのカンはGOサインを出した…」
 ずっと黙っていた若島津が唐突に口を開いたので、残り3人がギクリとして しまう。常に落ち着き払った寡黙さと、悟りきった無表情で売るこの男、実は かなり短気な性格だということは身内の間では有名である。その実害を一度な らず受けたことのある若林と森崎が急いでフォローしたのも当然であった。
「チューリヒ、と言ったな。じゃ、そのペーパーカンパニーの『所在地』が …?」
「確かな証拠があればシュナイダーも助かるんだな」
 単に話題転換を図ろうとしたとっさの言葉が、しかし別の効果を生んだよう だった。言った本人さえ目を丸くしている。
「…シュナイダーが、助かる」
 森崎はもう一度つぶやいた。
『まさにそれさ』
 ジノの声が…はるか上空から…それに応える。
『僕はGKだ。シュナイダーとの勝負をこれきりにされるのは我慢ならない。 しかも当人の意思に反してのことならなおさらだ』
 同じ立場、同じ思いの者がそれぞれうなづく。
『こっちは僕に任せてくれよ。何かわかったらまたコンタクトをとるから』
「ああ、頼む」
 ジノの声はそれきり途絶え、そして3人の目がヘフナーに戻った。その無言 の圧力にヘフナーの顔が薄く紅潮する。
「なんだってんだ、え?」
「いやな、おまえにも苦手ってもんがあるんだな、と感心してるんだ」
「放っとけ!」
 ヘフナーが吐き捨てた途端、列車が突然ガタンと大きく揺れた。スピードが 急に落ちる。
「あ、もう次の駅かな」
「ウルムだな…」
 若林は腕時計に目を落とした。長距離列車であっても停車駅を知らせる車内 アナウンスなどしないのがこの国の常識だ。若林は窓の外を見た。
「変だな…」
 ウルムはシュトゥットガルトの東約100キロにあるドナウ川沿いの都市で ある。停車時間はせいぜい1、2分のはずだ。なのにいっこうに動き出す様子 がない。
 ドアを開けて通路に顔を出すと、他のコンパートメントからも乗客が出てが やがやと騒ぎ始めているところだった。と、その通路の後方から車掌が急ぎ足 でやって来た。乗客たちの矢継ぎ早の質問を押し分けながらずんずんと進んで くる。ちょうど4人のコンパートメントの前にさしかかった時、車掌が背後の 客にこう言っているのが聞こえた。
「信号系統の故障だと思われます。臨時停車です…」
 しばらくお待ちください…と言いながら去っていく車掌の言葉を若林が日本 語に通訳すると。若島津が厳しい顔になった。
「また、だな」
「え?」
「これも、俺たちを妨害している力だとしたら?」
「さっきの…」
 森崎の問いに、若島津は黙ってうなづいた。その背後で席に深く座ったまま だったヘフナーが突然顔を上げる。そしていきなり立ち上がってコートを取っ た。
「…ほら、ポチが何か見つけたようだ。行こう」
 無言で突進していったヘフナーが、その車両の降車ドアの窓をバタンと落と して首を突き出した。風と一緒に雪が勢いよく車内に吹き込んで来る。ヘフナ ーは構わず左右に視線を投げ、それから手動のドアノブを回した。
「匂うのかな」
 昼間、ミュンヘン中央駅でヘフナーの警察犬ぶりを目撃している森崎がつぶ やく。
「だといいがな」
 ヘフナーのその動きを目で追いながら若林が応じた。人気のないホームの先 を見透かすと、先頭の機関車のあたりで乗務員や駅員たちが集まってガヤガヤ とやりとりしているのがわかった。
 が、ヘフナーはそちらには向かわず、いきなりホームの反対側にぴょんと飛 び降りる。
「何か見つけたのか!?」
 追いつきざま若林が声をかけると、ヘフナーはちらりと振り返った。
「回送車だ」
 ヘフナーは隣の車線に止まっていた車両の一つを指した。横殴りの雪にヘフ ナーの髪が見る見る白くなっていく。
「2日前の午後5時6分、ミュンヘン中央駅を出た列車のな」
「じゃあ、こっちがシュナイダーの乗ってた…?」
 沈黙が流れた。雪がまた激しく降りしきってくる。
 ヘフナーが手を伸ばしてドアを開いた。ひやりとした空気がヘフナーの侵入 によって僅かに動く。澱んでいた静寂が渦のように彼の身体を取り囲んだ。
「…いるのか」
「お待ちかねのがな」
 ヘフナーは車内の通路に仁王立ちになってじっと先を見つめていた。もちろ ん灯のない車内は真っ暗闇である。その中に、白いぼんやりしたものが浮かん でいた。
「今度こそ正体を現わしてほしいもんだ」
 若林はヘフナーの脇を抜けてゆっくりと中に入った。窓の外の雪を青白く反 射しているのだろうか、それはミュンヘンの教会で見た時より影が薄くなって いるようにも見えた。
 精神を集中してしばらくそのまま凝視していた若林が、ふーっと大きく息を 吐いて力を抜いた。そして振り返る。
「森崎」
「はい?」
「ちょっと側に来てみろ」
 若林でなければ従わなかっただろう。森崎はできることなら一歩でも離れて いたいその火の玉におそるおそる近寄った。
「な、んですか…?」
「ふ…ん」
 森崎が近づく間、光の塊をじっと観察していた若林がうなった。
「確かに若島津の言った通りだな」
「…えっ?」
 森崎の視線に反応して、背後の若島津が口を開く。
「つまり、おまえならそいつとウマが合うはずだ、ってこと」
「じょ、じょーだんっ!」
 あわてて後ずさりかけた森崎の背がどしんと何かにぶつかった。頭上からヘ フナーの声が降ってくる。
「なるほど…」
 あっと思った時にはどんと背中をはたかれて前につんのめっていた。
「あの時教会でワカシマヅが妙な顔をしていたのはそういうわけだったのか」
 そのまま光の塊に頭から突っ込みそうになった森崎は必死に踏みとどまる。 が、その瞬間、4人の前で光の塊が微かにゆらめいた。すうっと光の線が塊か ら真上に伸び、そして一瞬の後、また元の形に戻る。
「うわ…!」
 森崎は片手で口を押さえる。
「…そら見ろ。さっき若林が近づいた時には何の変化もなかったのに、おまえ が近寄るとこいつはこれだけの反応をするんだ」
 森崎は目をまん丸にした。確かに目の錯覚ではなかった。若島津に念を押さ れるまでもなく、今のは森崎自身の動きにつられて反応したものに間違いはな かった。








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