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空港には迎えの車が来ていた。きちんとネクタイまで締めたスーツ姿の井沢を見て、迎えの
男は一瞬苦笑したようだった。
「気温は日本の夏とそう変わりませんが、冷房を期待できないだけ日本の夏服じゃあ辛いです
よ」
「そのようですね」
冷房の入った後部座席に乗り込んでから、井沢は上着を脱いだ。小河原と名乗った迎えの男
はルームミラー越しに笑顔を見せる。
「こんなお若い弁護士さんだとは思ってませんでしたよ。ベトナムは初めてですか、先生は」
「ええ。開放政策以降ですよね、こうして自由に渡航できるようになったのは」
タイやマレーシアなら大昔に試合で何度も訪れたことがあるのだが…とはもちろん口に出す
わけはない。弁護士として活動する中では、あえて隠す必要さえないくらい井沢の過去は知ら
れていないのだ。
「まずホテルにご案内します。お食事の席は私どもがささやかながらご用意していますので、
社長とはその時にお会いしていただくことになりますが」
「わかりました。お世話かけますがよろしく、小河原さん」
急な出張だった。ベトナムでの合弁事業を進めている商社の名前を聞かされたのは3日前の
ことだった。普通は取得に何日もかかると言われているベトナムのビザは、どういう力が働い
たのかたった一昼夜のうちに井沢の元に届けられた。日本から唯一の直行便の出ている関空ま
での移動も含めて航空券は迅速に用意され、井沢はただ飛んでくるだけ、という状態だった。
ごく一部の裏の裏側でのみ知られている井沢の真の力量を見込んで、となれば、そのこと自
体が今回の依頼の出所があまり公にできない種類のものであることを物語っている。あくまで
水面下で、至急、かつ的確に処理してもらいたい、ということなのだ。
流れていく街の風景は夕闇に沈み始めるその一歩手前にあった。淡い色合いに包まれていく
中、しかし首都ホーチミンの喧騒は、たとえば東京とは正反対に人間そのものが作り出す活気
であることが見て取れる。
建設中の高層ビルにしても、夕方の交通ラッシュにしても、そこには必ず人間の介在する
生々しい実在感がある。現在上向きの経済発展の途上にあるといわれるベトナムの、それが独
自のエネルギーなのだろう。
初めて訪れる国の見慣れない風景のはずなのに、何か記憶に呼応するものがあった。その既
視感を持て余して井沢はすっかり黙り込んでしまう。が、そんな井沢を見て、小河原はどうや
ら別のことを想像したらしかった。
「なに、今日はただの顔合わせですから仕事のうちには入りませんよ。食事の後はご自由に過
ごしていただけますから、私に何なりとお申し付けください。どこでもご案内しますよ」
「え…?」
聞き返しかけて井沢の顔は苦笑に変わった。海外駐在の商社マンも接待に気を使う点では東
京にいるのと変わりはないのだろう。
「今日は早く休みたいですね、疲れましたから」
「そうですか?」
小河原は今度はルームミラー越しにではなく、直接振り向いて井沢を見た。人の良さそうな
丸顔が、少しだけ意外そうな表情になったようだ。
「じゃあ、まあそのうちにでも」
そのうち…。あいまいなその表現から連想して、井沢は今回の依頼の件がさてどれほどきち
んとしたタイムテーブルを持っているのか、密かに危ぶみ始めていた。
そしてその危惧は、その点においてだけは当たってしまったのだった。
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「あ、ちょっとすみません…」
井沢の突然の声に、小河原は急いで車を路肩に寄せた。並んで走っていた自転車の群れから
迷惑そうな顔がいくつも振り返る。
高級レストランの個室での会食も終え、ホテルに戻ろうと走り出したばかりだった。ホーチ
ミン市の繁華街の一つ、ドン・コイ通りを南に向けて走っていたところだが、ここは一方通行
のため、行きには通らなかった区域ということになる。
「どうしたんですか、先生」
井沢はドアに手を掛けて降りようとしていた。
「ここで降ります。後はタクシーでも拾いますから。すみません」
「なあんだ、ちゃんと行くべき所は決めてあったのか。お行儀がいいと思ったら先生もけっこ
うやりますね」
小河原の驚いた表情はすぐににやにや笑いに変わった。
「でも、一人で大丈夫ですか、案内しなくても。けっこうタチの悪いのいますから、気をつけ
てくださいね」
「どうも、失礼します、小河原さん」
下世話な誤解をしつつ小河原の車が去るのを振り返りもせずに、井沢は車道に出て行く。
が、横断しようにもこれが実に只事ではなかったのだ。歩行者の存在などまるで目に入らない
かのように押し寄せてくる車、そして二人乗りのバイクの洪水をかわしたり突破したり、その
タイミングを間違うと文字通り命取りになる。
「…こっちか?」
なんとか渡り終えて息をつき、追跡を再開する。
車の中から、井沢は見たのだ。夜の雑踏の波の中に、彼のデジャブの原因を。
タチが悪いのは覚悟の上だ、と口の中でつぶやいて、井沢は性急にあたりを見回した。明る
いビルの並ぶ大通りだが、その暗い隙間に細い路地がいくつも重なっているらしかった。
その一つの先へ視線を投げて、井沢は走るように歩き出す。物売りが腕を引き、シクロの運
転手が次々と声をかけてくるのも一切振り払って、井沢は路地の奥へとどんどん入り込んで行
った。
「有明中2年…?」
好奇の目が自分に注がれているのにも構わずに歩いていた井沢は、その人波の中に不思議な
ものを見つけて首を傾げた。どう見ても日本の中学校の、それも体操服である。学校名の刺繍
もそのままに、ベトナムの普通のおじさんが着込んでいるのだ。
「古着として日本から大量に輸入しているっていうのは聞いたことがあるな…」
しかし、名前までつけたままというのは…。
「まさか、さっきのもそうだって言うのか?」
井沢は路地に立ち止まってぐるりと周囲を見渡し、そしてついに探していたものを見つけ
た。窓から見えたあの姿は、やはり見間違いではなかったのだ。
そこにあるはずのないもの。しかし、あったとしても違和感のなかったもの。それがこの街
に最初に感じたデジャブだったのか。
「は?」
道端にたたずんでいた若い男は、突然そばに立った井沢を見上げて一瞬戸惑った顔をした
が、すぐに屈託のない声を上げた。自分の商売を思い出したのだろう。英語に切り換えて愛想
よく話しかけてくる。
「ホテルを探してるの? それとも女の子?」
「…その服、どうしたんだ?」
質問は無視して、井沢は男の着ている青いユニフォームを指さした。忘れるはずのない代表
ユニフォームである。19番の背番号と、そして名前もそのままの。
「これ? もらいものだけど」
20代半ばに見えるその男は、少し考えてから井沢をまじまじと見つめ直す。
「あんたが、お客さんだ。そうだね?」
オキャクサン、とそこだけ日本語を使って、男は再び笑顔になった。
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「…何やってるんだ、おまえは!」
怒鳴ろうとして、しかし空気が音を立てて抜けていくような気分を井沢は味わっていた。
「いきなりそんな挨拶はないだろ、井沢。もっと嬉しそうな顔してほしいなぁ」
「誰が…」
案内されてきた所は、どう見ても怪しげな安ホテルだった。路地の奥まった場所に看板すら
出さずに並んでいて、何人もの女たちが意味ありげな視線を送りながらたたずんでいる。ベト
ナムでももちろん法律違反になる職業の、しかし決して消し去ることのできない断面と言え
た。
こともあろうに、その安宿の奥の一角に自分の個室をもらって住み込んでいるのだと言う。
「飲む、井沢?」
自分も飲んでいた瓶入りのコーラをもう1本差し出して、反町はニッと笑った。白い開襟シ
ャツと細身のズボンをルーズに着こなし、いつもに増して日焼けした顔を見ると、井沢の目を
もってしてもすでに日本人の面影はない。ベトナム人と言ってどこまで通じるかはわからない
が、アジアのどこにでもいる、それでいてどことも特定できない無国籍な空気を漂わせて、反
町はこの場に馴染みきっていた。…腹立たしいくらいに。
「いきなり巡り会えるなんて、俺と井沢の仲ってけっこう運命的だよなあ」
「ワナだろうが、あれは! どういうつもりなんだ」
個室と言ってもちゃんとしたドアがあるわけではなく、カーテン代わりのテント布がだらり
と通路を仕切っているだけのその奥には箱型のベッドらしきものが覗いている。反町はその通
路にもたれて座っていたのだが、井沢とやり合っているそこへ、さっきのユニフォームの男が
そっと顔を出した。
反町と二言三言言葉を交わし、井沢をもう一度ちらりと見やってから、男はまたそっと戻っ
ていった。何人か興味ありげにこちらを観察していた若い女たちも、それが合図かのように姿
を消してしまう。
「…何だ?」
それに気づいて、井沢は背後を指した。反町は肩をすくめてみせる。
「ま、こっち入りなよ。お客らしくね。あいつ、ティンって言うんだ。おまえがここに泊まる
か確認しに来たんだよ」
「客って…」
ほんの一瞬言葉を失って、井沢は目を見開いた。
「反町、おまえ、まさかここで…何をやってんだ!」
「それ、質問になってないよ、井沢」
思い通りの反応だったらしく、くすくすと笑いながら反町は井沢を自分の部屋に押しやっ
た。
「おまえが派遣されるのがわかったから、ティンにユニフォームを着てもらってあのへんに立
ってるように頼んでたんだ。あそこの社長は接待にはいつも行きつけのレストラン一辺倒だっ
て調べがついてたしね」
窓と言うよりは気休めの明かり取りでしかない小さな天窓に、近くの店のネオンが反射して
いた。他に座る場所もないのでしかたなく井沢はそのベッドのヘリに腰を下ろす。
「…いいから、最初から説明してもらおうか、反町」
実際のところ、仕事の上で井沢と反町の行動範囲がクロスすることはほとんどないと言って
いい。どちらかが意識してそうしない限りは。
「着いてさっそく顔合わせってことは、あの社長、一人じゃなかっただろ」
「……」
井沢は黙って反町を睨んだ。弁護士として職務内容を簡単に明かすわけにはいかないのは当
然だが、それ以前に相手がこの男だとなおさらだった。
「トゥオン財務次官って、あの企業のお得意さんなんだよね。向こうとしてもまずはどんな弁
護士が派遣されてきたのか、値踏みしとかないといけないわけだしぃ」
「俺の仕事を嗅ぎ回るなと言っておいたはずだが」
「偶然だよ。半分はね」
反町は立ったまま手を後ろに組んで愉快そうに井沢を見下ろした。
「俺は先々月からずっとこの再開発計画のウラを調べてたんだ。金の流れがここんとこずいぶ
ん派手になってたんでね。まさかここでおまえの名前が出てくるとは、全然思ってなかったん
だぞ、ほんと」
「悪かったな、こういう専門で」
「て言うか、人気者、井沢って」
裏取引の世界で、確かに頼りにしうる人材というわけだった。
「だからって、こんな所でこんな真似してていいのか、まったく」
「心配してくれてんの? それとも…妬いてる?」
わざわざ顔を覗き込みながら、反町はささやき声になった。そのまま井沢の唇に軽く触れ
る。
「特別に後払いにしてやるよ。井沢だから」
「もっと正直になるまでは払ってやらないからな」
ネクタイをほどきにかかった反町の手を押さえて、井沢は体を入れ替えた。今度は自分のほ
うが上になる。
「…じゃあ、長期戦になるなあ」
「俺もそう思う」
懲りないことにかけては、どちらもどちらというわけだった。
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