ひどく暑かった日のラヴソング 2









「……いざわ」
 揺り起こされて井沢は目を覚ました。視界が灰色にぼやけている。
「起きなよ、見せたいものがあるんだ」
「…何時だ?」
 よく見ると、視界をさえぎっていたのは古ぼけた蚊帳だった。この部屋の天井からベッドだ けを包むようにぶら下がったその蚊帳をそーっと押しのけると、井沢はベッドの「フタ」部分 に頭をぶつけないようにしながら体を起こして、側に立っている反町を見上げた。
「朝だよ、とりあえず」
 反町は井沢の腕時計をその目の前にぶら下げて見せた。5時少し過ぎを指しているのを見 て、井沢は顔をしかめた。
 なるほど天窓を見上げればまだ弱々しい白みがかった光が差している。
「これ、日本からの情報が届いたんだけど…」
 この部屋にはまったく似合わないノートパソコンが青い画面を井沢に向けていた。
「ODAの特例措置法案が来週にも国会を通りそうだって」
「やれやれ」
 井沢は首を振った。
「自分から先に切り札を切るなんて、あの男も何をあせってるんだか。…なあ、反町」
「え、えっ?」
 突然井沢の目に射すくめられて、反町はあいまいな笑顔を浮かべた。
「少しは正直になったか、って聞いてるんだ」
「何のことかなあ」
 一歩下がろうとしたが、その前に井沢の腕が伸びる。
「なぜ俺を引き止めた? 俺に接触するだけなら、こんな所でなくてもできたはずだ」
「…俺が、一緒にいたかったから、じゃダメ?」
 ダメ、と答えるかわりに井沢はつかんだ手を思いきり引いた。つんのめった反町は目の前で 井沢の鋭い視線とぶつかる。
「痛いよ、いざわー」
「いいか、ここの情報はおまえのほうが詳しいんだ。俺がホテルに戻っちゃいけなかった理由 は何だ」
 後退ろうとする反町を両腕で捕まえておいて、井沢はノートパソコンをちらりと目で指し た。
「おまえの言う情報はただ受け取るだけじゃないはずだ。自分からも発信して、操作する。そ うじゃないのか?」
「…誘拐なんだ」
 胸元を押さえつけられて、反町は苦しそうに声を上げた。
「そいつらのシナリオを狂わせるために、おまえをここに隠したんだってば」
「誘拐? 俺をか?」
 ようやく大きく息をついて反町はうなづいた。
「この国の建設省が要求してくるはずの巨大リベート対策に、って依頼だったんだろ? A社 は実際はどっちに転んでもいいように、根回ししてあったんだ。リベートも身代金も結果的に は同じだ、ってわけ。損失としてちゃんと回収するアテがある以上ね」
「同じだと?」
 井沢はすばやく頭を巡らせた。
「A社が俺を呼んだのは、誘拐のターゲットに差し出すためだったってことか…」
「やらせ誘拐だけどね」
 井沢の手が緩んだのをいいことに、反町はするするとベッド側へ後退る。
「政界と財界のくっつき方なんて、国が違ってもそう変わらないってことだよ。井沢が商売繁 盛になるわけだよな」
「皮肉な役回りになったもんだ」
 井沢はしかし愉快そうにつぶやいた。そうして反町に目を向け直す。
「ならおまえは別口の誘拐組織登場、ってことになるのか」
「そうそう」
 安全圏まで離れたので、反町は余裕でうなづいている。
「犯行声明は会社宛てにEメール送っておいたし」
「じゃあ、反町、人質は大切にしてくれるんだな、取引完了までは」
「…うん?」
 が、井沢はすばやく間を詰めると、そのまま反町をベッドに押し込めた。
「なら、朝メシをサービスしろ」
「え? あ、待てよ、井沢…。それとこれとは…あっ、ちょ、ちょっとってば!」
 早朝に起こされた仕返しも含めるつもりなのか、いささか手荒な朝食になる。
「あまり声を出すなよ。まわりに迷惑だからな」
「…んなこと、言って、…井沢がやってんじゃん」
 はだけた胸が井沢の腕の中で上下する。
「…こんなに日に焼けて、俺の知らない人間になっちまったのか、…それとも、おまえ本当は 反町じゃないのか?」
「あのね、井沢…」
 声を殺すどころか、井沢の強引な攻めに思考までが遠のいていく。が、そこをぎりぎりで踏 みとどめながら反町はなんとか言葉を繋ぎ直した。
「超過料金、払わないと追い出されるよ。誘拐犯も、人質も」
「…シビアだな」
 喉元から唇を離し、井沢は溜息をつく。
 楽しんだ者勝ち、の世界だった。










「アイツが日本語できてよかったよ」
「ん?」
 食事を運んできたティンがにこにことそう言い出したので井沢は呆れてしまった。
「英語も上手いけど、日本語ができると商売も違ってくるから助かってる」
「日本人の客はよくあるのか?」
 宿のホール兼食堂のテーブルについて、井沢はフォーを食べ始めた。毎日近くの屋台から運 ばれて来るこの米粉のうどんは思ったより口に合って、井沢のほうからリクエストするまでに なっていた。具のバリエーションは豊富でいいのだが、しかしこればかりではちょっと物足り ない。
「ここはないね。このへんは日本人はほとんど来ないんだ。もっと小ぎれいな所が好みらしい な。金もあるし」
「なるほど」
 ティンは客引きだが、この店の専属というわけではないらしく、つかまえた客によって案内 先を振り分けるシステムになっているようだった。彼の英語はあまり複雑な内容になると怪し くなるので、断片的なことしかわからなかったが。
「オキャクサン、アイツのこと、そんなに気に入った?」
「そうだなあ」
 井沢は苦笑する。ティンは井沢がここに連泊している本当の理由は聞かされていないのだ。 何か訳ありだとは思っているだろうが、反町にもらったユニフォームで日本人客がたまたま引 っ掛かってきてたまたま気に入ってしまった…くらいに考えているらしい。
「オキャクサンは、変わってるよ。日本人じゃないみたいだ」
 それは誉め言葉なのだろうか。ティンは屈託なくにこにこしている。井沢で日本人らしくな いと言うなら、反町はどうなるのだろう。
「ソリマチも相当変わった奴だよね。あいつ、忘れた頃にふらっと帰って来てしばらくこの町 にいて、また知らないうちにいなくなっちまう。第一、なに人なんだか。聞くたびにカンボジ アだとかタイだとかいい加減なことしか言わないし」
「日本人かもしれないよ」
 井沢が真面目に言うと、ティンは一瞬目を丸くした後、思いきり噴き出した。
「そうそう、いっそフランス人かもしれないし、ロシア人かもね」
「…どうぞ」
 ティンが笑い転げている横から、宿の女の一人がはにかみながら果物を手渡してくれた。最 初はこわごわと遠巻きにしていた彼女たちも、客とは幾分違った待遇をされている井沢に次第 に警戒心を解いてきたようだ。
「カム・オン(ありがとう)」
 と井沢が言うと、女は仲間を振り返ってくすくす笑いながら何事か囁き合っている。
「あの子たちは客から礼を言われたことなんてないから、面白がってるんだ」
「…そうか」
 ティンのほうは深い意味もなく言った言葉らしかったが、井沢は複雑な思いだった。前日の 夕方に見かけた、ここの女たちの一人、というよりまだ十代前半に見える少女のことを思い出 したからだ。
『うん、あの子も、ここで働いてる』
 井沢に問われて、反町の表情が沈んだ。さまざまな理由で、まだ年若い少女たちがこの世界 にやってくるのだ。国の発展の陰には大きな経済格差がその代償のようにもたらされる。いわ ゆるストリートチルドレンも、この町にはまだ大勢いるのだ。
「ごちそうさま」
 井沢が食べ終えた果物の皮をテーブルに置こうとすると、さっきとは別の女がすっと手を出 してそれを受け取り、すぐに姿を消す。井沢が驚いて振り返ると、また笑い声が弾けた。
「今の、何ていう果物なんだ?」
 井沢が英語で問いかけると、女たちは困ったようにティンに視線を送る。
「タン・ロン」
 ティンが中に立って、やっと話が通じた。
「見たことない果物だったけど、おいしかったよ」
 井沢の返事を聞いて、ようやく2、3人が近づいて来た。遠慮がちに側に立ち、目が合うと 隣同士でつっつき合ってまた笑っている。
「日本人?」
 井沢がうなづくと、背後の女たちの間からも日本人、日本人…という囁きが上がった。
「お金持ちはここには来ないのよ」
 中の一人がこう言ってる、とティンはにやにや笑う。自分と同じ意見なのが面白いらしい。 「じゃあ、私も指名して。ソリばかりじゃなくて」
「私も、私も!」
 一人がおどけたように大きな声を上げると、他の女たちも声を揃えた。冗談のようで冗談で ないことを彼女たちの目から感じて、井沢は戸惑う。が、そこへいきなり聞き慣れた声が響い た。
「こらあ、何の悪だくみしてんだぁ? 俺がいない間に」
「きゃあ、ソリよ、ソリ!」
 女たちの嬌声が跳ね上がる。その一人を背後からつかまえて、反町がぬっと顔を覗かせた。
「井沢、おまえってやつはよほど女にモテるんだなあ。ベトナムに来てまで」
「大きなお世話だ」
 井沢は立ち上がった。食事は終わりだ。女たちも笑顔で一人また一人戻っていく。と、その 土間のがらんとした真ん中に一人だけぽつんと残っている姿が現われた。
「私、お金がほしい。ミスター、私を指名して」
「まあ、リンったら、生意気言って」
 反町につかまっていた女が少女の頬をすれ違いざま指でツンとつついて出て行ったが、リン と呼ばれた少女はまっすぐな視線を井沢から離そうとはしなかった。
「お金があったら学校へ行けるって、私…」
「井沢」
 横から反町が袖を引っ張る。
「この子、親がいなくてこの町に来た子なんだ。どこか地方から出て来たらしいことはわかっ てるんだけどな」
 低くそう説明しておいて、反町はポケットを探った。出て来たのは小さいノートである。そ れを差し出されて、少女はびっくりしたように反町を見上げた。
「こないだ、字の練習したいって言ったろ。俺が教えてやるから、これ使いな」
「字を…。ほんと?」
 少女の目にはまだ警戒の色が残っていた。反町は笑ってうなづくと、ノートを開いて鉛筆で 何かを書いた。それを少女に見せる。
「これ、おまえの名前だ。真似して書いてみな」
 少女はノートの字を睨んでじっと動かなかったが、ようやく鉛筆を握った。こわごわとノー トの端に小さく書かれた字を見て、反町はうなづく。
「上手いぞ。それがおまえの名前なんだ。もっと練習して、見なくても書けるようにするん だ、な?」
 うつむいていた少女の目が一瞬輝いたように井沢には見えた。が、顔を上げるとその輝きは また無表情の中に隠れてしまう。少女は井沢に小さい声で礼を言い、ノートを手に走って行っ た。
「あれ、おまえが買ってやったことにしたからな。あの子も、ただ物をもらうのは納得しない から」
 反町なら同じ立場なだけだが、井沢は違う。サービスを受ける者と与える者。その関係があ ってはじめて金という存在に行き着く…というのがリンがこの町で学んだことだ…と説明され て、井沢はまたやり切れなくなった。
「ノートを買ってやるくらいはできる。でも、そのノートは何冊あれば足りるんだ? リンは 一人だけじゃない。何千人も、何万人もいるんだ」
「おまえがここを住みかにしてる理由がわかったよ。おまえ、自分もその何万人の一人だって 思いたいんじゃないのか?」
「そんなこと、ないって」
 ほんの一瞬反町は上の空になったように見えた。が、すぐに井沢を見上げてにやっと笑う。 「おまえ、それよりさ、女もけっこういけるクチかも。いい感じだったぜ、さっき」
「バカ言え」
「初恋が強烈すぎて、思い込んでるだけじゃないのかなぁ?」
「…初恋? そんないいものか、あれが」
 井沢は自信を持って断言してみせた。
「いつもいつもあいつには圧倒されっぱなしで、引きずられて振り回されて…」
「そして忘れられない存在になった、ってわけだ」
「反町…」
 からかわれたと思ったのか、井沢の目つきが険悪になる。最もそんなことを気にする反町で はなかったが。
「だっておまえ、まだ引きずってるじゃないか。名前出しただけでそんな顔するしさ。似たや つしか恋人にしないしさ」
「なんだと…」
 井沢は突然振り向いた。
「おまえは似てなんかいない! 絶対だ!」
「似てるもんね。見た目も、性格も」
「この野郎…」
 後ろから首ごとつかまえて、反町を部屋に引きずり込む。こうなると子供の喧嘩である。
「わかった、わかったってば。それより、これ、いいもの見せるからさ」
 反町は4つにたたんだ紙を井沢に渡した。
「脅迫状の返事。交渉はA社と直接にじゃなく、間に情報屋が入ってる。警察の息のかかった ところさ。これで逆にA社は被害者のふりをし続けるしかなくなる」
「俺はいつ解放されるんだ」
「身代金だけは直接いただくつもりだよ。A社から、手渡しで」
 反町は人差し指一本で井沢の胸を押した。井沢は目を見開く。
「俺が、受け取るのか」
「適役だと思うけど」
 井沢はさっきのメモにもう一度目を落した。
「『31番北方面行き最終バス』…これが接触場所か?」
「金の受け渡し場所、ってことで指定してあるけど、そのまんまじゃ面白くないよね」
 反町はノートパソコンに手を伸ばして、ホーチミン中心部の市街地図を呼び出した。
「バスはこのルートを走ってる。いつどのバス停から犯人が乗り込んで来るかがわからないわ けだから、たぶん警察は車内とバスの外と両方に配置される。その裏をかくんだ」
「ここか」
 井沢は横から画面を覗き込んだ。黄色い点滅がその地点を示している。
「名残惜しいけど、今夜でお別れ、だよ」
「惜しいもんか」
 井沢はどさっとベッドに腰を下ろして考え込んだ。反町に反町の利害があるのと同じよう に、彼には彼の職務がある。全面協力ができるかどうかはそこにかかっているわけだ。
「反町、この間の例のODAの開発白書をもう一度見せてくれ。確か、中部の国境地域だった な」
「いいよ」
 火力発電所の建設を軸にした、新しい工業地区開発計画の概要が地図と共に示される。その 地図を指して、井沢は振り向いた。
「このあたりの村ごとに、別のリンがいるわけだな。何人も、次々と新しいリンが生まれるっ てことだな」
「うん、俺たちにできる限りのノートを買うんだ。ただし時間を先回りして、ね」
 誘拐事件のクライマックスが近づいて来ていた。最終バスの時間までいくらもない。準備も 必要だった。
「…だから、時間ないってば、井沢」
 唇が離れると、反町はふう、と大きな息をついた。そのまま上目遣いで井沢を見る。
「第一、ヒゲが痛いよぉ。人質としてはその不精ヒゲ、必要アイテムだけど、キスには向いて ないんだぞ」
「俺のほうは痛くないからなあ」
 ただそれだけの理由で、抗議は却下されたのであった。










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