ひどく暑かった日のラヴソング 3












 深夜をまわって、未明という時間になっていた。
 ホテルに往診に来た医者を送り出してから、小河原総務主任は携帯電話で会社に連絡を入れ た。
「小河原くん、どうだね、井沢先生の具合は」
「ええ、外傷は特にないそうです。血圧や内臓機能にも問題は見られないとのことですが、な にぶん精神的な疲労がかなり大きいみたいで…」
 ホテルの廊下で、声を落としての説明が続く。
「それは当然だろう。しかも交通事故にまで遭うとはなあ。どうなってるんだ、犯人は結局姿 を見せずじまいだったわけだし…」
 社長の言葉はどんどん愚痴に変わっていく。誘拐されていた弁護士が5日ぶりに無事に解放 された…これが何より肝心なはずなのだが。
「…小河原さん?」
 電話を終えて部屋に戻って来た小河原は、その声を聞いて急いでベッドに近づく。
「すみません、起こしてしまいましたか、先生。気分はいかがですか?」
「水をもらえますか、小河原さん」
 井沢は、ベッドサイドのランプをまぶしそうに避けながら、しかしはっきりとした口調で言 った。小河原はうなづくとテーブルの上の水差しを手に取って振り返る。
「先生!?」
 小河原は目を見開いた。ベッドから井沢が体を起こしたのだ。
「起きたりして、駄目ですよ。まだ安静にしているようにと医者も言ってます」
 身代金の運び役を務めた小河原にとっても、長い夜だった。誘拐犯からの指示に従って金を 用意し、警察と連絡を取り合いながら受け渡し場所であるバスに乗り込み…そして、あの事故 が起きたのである。
 交差点を右折してきたバイクタクシーと、彼が乗っていた最終バスとの接触事故。どちらに もたいしたダメージはなかったものの、現場の交差点のひどい渋滞の中で起きたために、他に も多くのバイクが巻き込まれる形で次々と追突したり転倒したりと大混乱になってしまった。
 バスを最初からずっと尾けていた覆面パトカー、覆面白バイもすぐに事故の対応にあたり、 そしてその中で事故現場に倒れている井沢を発見した…という、ある意味拍子抜けするような 謎だけが残る結末を迎えたのだった。
「大丈夫です、私は」
 井沢は、呆然とする小河原の手から水を受け取り、飲み干した。
 発見された時の井沢は、衣服は5日前に着ていた上着もネクタイもなくなってよれよれのワ イシャツのみ、ヒゲがうっすらと伸びてやつれきった様子だった。意識もはっきりしておら ず、そのまま救急車で運ばれたのだったが、一体どういう状況でそこまで来たのか、事故には いつ巻き込まれたのか、本人の意識がなかった以上謎のままである。
「社長は会社に残ってらしゃるんですね」
「は、ええ。警察が事情聴取に来ていましたし、あちこちから入る連絡の対応に当たっていま すので」
「身代金はどうなりました? 犯人は現われたんですか?」
「いや、それが…」
 小河原は首を振った。
「私はバスの座席でしっかり鞄を抱えていたのですが、あの事故で騒ぎになっている間に、消 え失せてしまっていて…」
「そう証言なさったんですね、警察には」
「…は?」
 小河原の顔が見る間に引きつった。黙って見つめている井沢のその視線に、思わず一歩下が る。
「いずれ保険金も下りるわけですから、会社に損失はない。それどころか二重取りです。どち らにとってもめでたい話ということになります。違いますか?」
「い、井沢先生…。何の話です、それは。私たちはそんなことは決して…」
「なるほど」
 相手の反応を冷たく観察しながら井沢は一方的に話を続ける。
「あなたの単独犯ということなら、背任罪、になりますね。自己の利益のために会社に損失を 与え…」
「そ、そんな!」
 小河原の顔がさらに歪んだ。
「この誘拐は私は知らない! …私がやった誘拐じゃないんだ!」
「では、あなたがやろうとしていた誘拐はどうなったんです」
 人質から解放されたばかりで起きることもままならない…はずの人間が、突然断罪を始め る。まるで客観的事実であるかのように。小河原が動転し怯えたのは無理もなかった。
「…社長との食事の後、あなたは私を別の場所へ執拗に誘おうとした。目的があったからで す。しかし私がそれを断り、さらにそのまま姿を消してしまった。あなたの計画はそこで挫折 したかに見えました。でもそこへ別の脅迫状が届いた。あなたの計画は、あなたが実行する前 に実現してしまったんです」
「そ、そんな事実はない! 証拠があるんですか!」
「ありますよ」
 井沢はポケットからフロッピーディスクを取り出した。
「これは人質の土産に犯人のところから失敬してきたものです。犯人がEメールで交わした取 引の内容が記録されています。会社側の交渉と一致するかどうか、調べればわかるはずです。 もっと別に、第三の人物との取引が入ってきていたかどうか、もね」
「あ…」
 小河原は腰が抜けたようにそのままへたりこんだ。視線が力なく宙をさまよう。
「日本のODAの窓口となる国際融資部門にポストを用意する…という話もあったようです ね。トゥオン経済省次官との間に。いずれはA社を離れるつもりでいらしたと」
「……気をつけろ、と言われてたんだ」
 うつむいたまま、小河原は消えそうな声を出した。
「派遣される弁護士は優秀なだけじゃない、それだけじゃすまない男だから気をつけろ…と念 を押されてたのに」
「外務省のあの人ですか。ずいぶん評価してもらったものですが、それは買いかぶりですね」
 井沢はフロッピーをしまうと、静かに微笑した。
「私は運がよかっただけですよ。誘拐されても命はとられなかった。それだけで幸運というも のです」
「ああ…」
 小河原は肩を落とした。その言葉とは裏腹に要求を突きつけられると覚悟したのだ。しかし それは彼の予想したものとは少し違っていた。
「…地元への補償額を倍に? 何ですか、それは…」
「インフラ整備は何も発電所や道路建設だけじゃないということです。賃金水準を含めた地域 への還元を優先する、教育・訓練施設の充実、この2点を特にお願いしたいですね」
「わ、我々にそこまで発言権はないですよ。無理です…」
「A社を通じての資金援助はこの開発計画の大きな鍵となっています。発言権そのものは十分 あるはずですよ。ただ、日本での根回しも多少必要でしょうから、それは私にお任せくださ い。外務省も下手に貸しを作りたくないでしょうから」
 まだ呆然としている小河原をそのままにして、井沢はベッドから洗面所に向かった。
「やれやれ。やっと風呂に入れるな。ヒゲも不評だったし」
「あ、あのっ、井沢先生……」
 医者の注意は…と言いたかったようだが、その先は結局消えてしまう。バスルームから、や がて湯を入れる音が響き始めた。
「そうだ、小河原さん。もう一つお願いがあるんですが」
 ドアから井沢の顔が覗く。
「社長のお宅に一人、使用人を増やせないものですかね。年はまだ若いですがまじめに働く子 です。できれば学校にも行けるようにしてもらえると嬉しいんですが」
「あ? は、はい?」
 小河原の疲れ切った顔に、大きな疑問符が現われていた。















「いいのか、ソリマチ」
 ティンは背広を広げてちょっと嬉しそうな顔になった。
「いいよ。井沢がいらないって残して行ったんだから」
「これは高くで売れそうだなあ」
 反町のほうはネクタイを手にしている。
「こっちはいくらになるかな。バイクタクシーのお兄さんたちみんなに1杯ずつおごる約束に なってるからなあ」
「大丈夫、足りる足りる」
 いつもティンが仕事場にしている交差点だけに、バイクタクシーの顔見知りも多い。事故を 演出するくらい、喜んで、いや面白がって協力してくれたのだ。
「そうだ、かわりにあのユニフォームやっぱり返してくれるかな、ティン」
「え? ああ、いいよ。俺にはちょっとでかいし。でも、また別のオキャクサンを連れて来ら れるかもしれないのに、惜しいな。いい客だったのに」
 ティンは思い出すように背広を見た。
「ソリマチのこと、けっこう心配してたぜ、あの人。おまえもここで客を取ってるんじゃない かって思ってたみたいだし」
「ははは、こんなトウのたったのは客なんて来ないって。もっと若けりゃ稼いでみせるけど な」
 二人は声を上げて笑った。
「ソリ……」
 そこへ近づいてきたのはあの少女だった。
「ノート、見て」
「ふーん、ずいぶん書いたな。いいぞ、名前はもう完璧だ。次は何を覚えたい? 数か?」
「…また、あの人、来る?」
 少女は真面目な顔で反町を見上げた。反町は笑って首を振る。
「もう日本に帰ったからね。来られないだろうな」
「じゃあ、代わりにソリが渡して。私、ありがとうって書くから」
「俺が…?」
 リンはこっくりとうなづいた。反町は困ったように頭をかく。
「さあなあ、俺も先のことは決めてないからなあ。やっと建設省のトップまで風穴開けられた とこだから、もう一押ししときたいし」
「いつでもいいの。渡してくれれば」
 真剣な表情を浮かべる少女に、反町はまた笑顔になった。
「じゃ、それまでにもっと色々書けるようになっとこうな、リン」
「ほら、ソリマチ」
 いきなり背後からティンがユニフォームを頭にかぶせた。
「えっ?」
「あのオキャクサンにまた会えるようにおまえが着てな。おまえのほうが似合うし」
 反町は頭を出すと同時に笑い出した。
「ティン、だめだよ。俺が着たらあいつ来るどころか逃げちまうに決まってる」
「そうなのか?」
 これを着ていたのはもう何年前のことになるのだろうか…。井沢と同じピッチに立ったのは そのさらに前、大学リーグの頃だったか。
「かっこいいよ、ソリ。ほんとの選手みたい」
 リンがちょっと首をかしげるようにして、ユニフォーム姿の反町を見つめていた。
「リン、今、笑ったろ!」
「別に…」
 逆にびっくりしてしまった少女の肩に手を置いて、反町は満足そうにうなづいた。
「そうそう、もっともっといろんなこと覚えろな。楽しいことはいくらでもあるんだ。おまえ さえその気になれば」
「手紙の書き方も覚えたい」
「いいねえ。あいつびっくりするぞ」
 反町はその時の井沢の顔を想像してにんまりした。
「それに、身代金百万ドルの行方も、もちろんしっかり追及しないとな」
 自分のユニフォームを上から見下ろして、反町は一人でうなづいたのだった。





《おわり》









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