Little Magic in the Air
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国立競技場井戸掘り事件 4















「森崎っ、伏せろーっ!!」
 センターサークルと南葛ゴールの間は水柱にさえぎられて全く視界がきかない。しかしな お、本能で、としか言いようのない感覚で日向はシュートレンジをギリリと一点に定めた。  そしてこちら側、森崎は、頭の中で絶叫するその声が何なのか正しく認識するより先に、 見えないその焦点のパワーに圧倒されてパニックを起こしていた。
 逃げまどっていたスタンドの観衆もグラウンド内のスタッフたちも動きを止め、一斉にそ れを注視した。
 日向の右足から放たれたボールが水の浮いたフィールドに一直線の水しぶきを上げてぐん ぐんと突き進む。
「もりさき――っ!!」
「……若島津!?」
 森崎は迷った。伏せろ、という言葉の意味が一瞬遅れて彼の脳神経に届いたのだ。そして その「声」の主も。
「あっ、ああああああ…っ!!」
 熱血多弁型で有名なそのアナウンサーは絶叫しながら絶句するという器用な技を披露し た。国立競技場の全ての目撃者も同じ思いだったに違いない。
『これは何の試合だったんだっけ?』――と。
 千駄ヶ谷ゴール裏に陣取っていたカメラのうち1台が奇跡的に三脚を倒さずに水の中に立 っていた。その持ち主である記者はシャッターを切った記憶がないと後日証言したが、あの 非常事態のさなかきっと無意識に押したのだろうということになった。翌朝の新聞のスポー ツ面がその写真で大いに盛り上がったのは言うまでもないが、それは後のこととして…。
「ばーか、よけろって言ったのに」
「……うん」
 白いカーテン越しにぼそりと返事があった。若島津は額のバンデージの端が前髪を数本巻 き込んでいるのに気づいて顔をしかめる。少しの沈黙の後、また森崎の声がした。
「なあ、…あれ、何だったんだ?」
「俺は知らん」
 若島津はそっけなかった。国立競技場に井戸を掘り当ててしまった当事者としては二人と もノーコメントで通したいところだろうし、「あれ」が日向の最後のシュートを指している としたらそれを目撃した者は(例のカメラ以外)誰もいないのだ。若島津も森崎も、それに 日向だって見てはいない。水柱を突き抜けてなお威力をほとんど衰えさせないままゴールに 突っ込んできたタイガーショットは、反射的にそれに向かって行ってしまった森崎を無残に 弾き飛ばして――そしてそれきり消え失せてしまったのだった。グラウンド内にもスタンド にも、念のため調べた競技場の外周部にも見つからなかった。残骸すらも、である。水柱の 勢いに巻き込まれてゴールに達していないのでは、という推論は、後に唯一の証拠写真によ って否定された。そこには白いボールがキーパーを直撃している瞬間がはっきりとらえられ ていたのだ。何より、森崎の顔にくっきり残ったボールの縫い目の跡と青あざは、それが幻 でも見間違いでもないことを示していたのだから。
「おまえの声が聞こえた…」
「ああ、おまえの悲鳴もな」
 何だったのだろう、という思いはむしろこちらのほうに向けられていた。自分たちをつな いでいたあの波長。これまで、若林を介してのみ通じていた通話だったのに。
「おまえの夢って、いつも人騒がせだよなぁ…」
「誰のせいだと思ってる!」
「…え?」
 森崎の気の抜けた声が、若島津の疲労をさらに増やしたようだ。しかしこの件に関しては 森崎だけを責めるわけにはいかない。競技場の下を通っていた上水道菅を破壊してしまった のは事実だが、その原因が何であれ、自分たちも被害者であることだけは間違いないのだか ら。
「でもまあ、よく我慢したよな、あの状況で」
 森崎も、そして自分も。主語を出さなくてもキーパー同士わかり合ってしまうのがまた悲 しい。
「少なくとも若林の名前を呼ばなかったのはエライ。ほめてやる」
「どーゆー意味だよ、それ!」
 森崎が抗議の声を上げた時、いきなりドアが開いた。
「なんです、二人とも。怪我人は静かになさい!」
 戻って来た医師の鋭い声に、カーテンの内側で森崎は首をすくめる。競技場の医務室は再 び静まりかえり、デスクで医師がペンを走らせる音だけとなった。
「今、病院に手配しましたからね。検査をちゃんとやってもらいなさい。二人とも派手に頭 を打ったんですから」
 はぁーい、と口だけ動かして声のない返事をする森崎であった。
 表彰式、閉会式は割愛され、わけのわからないまま大災害の決戦は終りを告げた。両チー ムの選手たちはもうシャワーで泥も流し終わり、ロッカールームで着替えをすませた頃だろ う。若島津が用意していた大量のタオルも少しは役に立っただろうか。
 まさに嵐が去った後のような気分だった。もう便利な「通話」もできなくなっていた。こ れが元通り、であるのかどうかは別として。だがそんな力を使わなくても今の二人はカーテ ンを隔てて互いの気持ちは十分わかっていた。
 そう、今年も大会は終わったのだ。ひとまず、無事に。





――若島津、実は俺、一回だけ呼んだんだ、あの時。
 別々に病院に送られる時、森崎は振り返って独り言を言った。
――日向の、最後のシュートが来た時に…。
 その名を呼んで、そして呼んだことに気づいて自分に驚いて。
 森崎は忘れていたのだ。その瞬間まで。遠い地の、かつては常にその存在を意識していた 若林を。彼にとってその存在はお守り以上の安心感であったのに。
「変な試合だったなぁ…」
 今度は声に出して、前の助手席にいたコーチを振り向かせてしまった。もぐもぐと語尾を ごまかして鼻の頭をさする。
 ヨーロッパはようやく朝が明けたばかり。早朝ランニングをしていたハンブルクチームの 列にいきなり飛び込んできた泥まみれのボールのことをもちろん森崎は知るはずもない。
 タイガーショットに直撃されてひっくり返ったのが、他ならぬ若林であったことも、ね。










《 END 》






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