Little Magic in the Air
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国立競技場井戸掘り事件 3
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「いやー、上出来上出来!」
 おどけた口調で石崎が言った。最後にロッカールームに入ってきた森崎の背を手加減もな くバシバシとどやしつける。
「前半を無得点に抑える、ってのは予定通りにいったな」
「こっちも無得点だけどな」
 ほっとするように言った井沢に水を差したのは滝である。1年生の新田も不機嫌な顔でう なづいた。
「ぜーんぜんチャンスが来ないんすからぁ。若島津さん、なんか調子が悪そうなのに、もっ たいないったら」
「そこへ行くとうちのキーパーは絶好調だな。なっ、森崎」
 皆の話の輪には加わらずに座って顔を拭いていた森崎は、呼ばれてはっと振り返る。石崎 は別に返事を期待したわけではないらしく、話はもう次に移っていた。
「……大丈夫?」
「えっ?」
 顔を上げて目が合ったのは岬だった。真剣な表情がまっすぐ自分をとらえていて、思わず うろたえる。
「あ…。お、俺?」
 もちろん大丈夫、と応じようとした途端の岬の言葉が彼を脱力させた。
「小次郎がムキになってるけど、またなんかやったの?」
 2年前の正月のあの事件の時に居合わせなかった岬は、どうやらあとから情報が捻じ曲が ってインプットされたらしい。さらに始末の悪いことに、インプットした南葛のチームメイ トたちも大真面目にそれを事実だと信じているのだ。
「あ、あのねえ…」
「さっき引きあげて来る時も、若島津と話そうとしただけで小次郎すごい勢いで邪魔してた ろ? 何かあったのかって思って…」
 森崎は肩を落として再びタオルに顔をうずめた。
 試合前もさっきも、話しかけようとしたのは自分ではなく若島津なのだ。俺は何もやって ない。日向のヒステリックな闘志も、若島津の態度が変なのも、俺とは全然関係ないから! …と森崎は叫びたかった。
 ただしそれは彼の願望であって、実際は大いに関係があったんだよね。





 後半に入ると両チームの攻防はさらにヒートアップした。
「若島津ーっ! ち、違うっ…!!」
 そんな中でただ一人ボケていたのが若島津であった。攻守が激しく入れ替わり、攻め込ん でいたかと思うと一気にカウンターを受けて戻ってくる、その反復の中で南葛はスピーディ なパスアンドゴーを多用し、東邦のディフェンスに揺さぶりをかける。
「こっちだってばっ!」
 バックパスされたボールをいきなり新田とそのマーカーのど真ん中にスローしてしまう。 反対側のサイドに下がっていた反町がじたばたと騒いでいるのに、である。
「恋わずらい、かねー」
 その前を走り過ぎながら浦辺が余計な茶々を入れる。
「三角関係だろ、かわいそーに」
 来生は来生で目頭を押さえる…真似をしながら前線に駆けて行く。反町はさあ怒ったのな んの。そういうセリフは彼の専売特許だったからである。
「健ちゃんはね、健ちゃんは浮気なんてしないんだから…!」
 ありがたいことに審判は選手たちの漫才に耳をふさいでくれていたようだ。その証拠に誰 よりも熱心にボールを追っている。今キープしているのは新田からパスを受けた井沢であっ た。そこへ敵味方が入り乱れて押し寄せ、ピピピピッという短いホイッスルが上がる。間接 フリーキックだ。ゴールまで約30メートル。
「わ、やだねー」
 首をすくめたのは小池だけではなかった。ゴール前に上がったクロスは、今度は無難に若 島津がキャッチしたものの、その瞬間、雷鳴が響いたのだ。しかもかなり近い。
「当たっちゃったな、若島津の天気予報」
 こちらも不安げに空を見る川辺であった。ハーフタイムのあたりから空を覆い始めていた 雲が今にも雨を落としそうな色になっている。天気の変わりやすい山の気候に慣れている東 邦のメンバーにとっては雨くらい苦にはならないが、やはり雷は避けたい。
「あ、しまった!」
 途端、二人は声を上げる。しまったと言っても南葛にボールを取られたわけではない。ボ ールを持っているのは――そしてまっしぐらにドリブルして行くのは――日向小次郎であっ た。
「フォ、フォローしないと…」
 そう、フォローしないと今度こそ人死にが出そうな勢いだった。南葛でバックラインに残 っていたのは高杉一人。ペナルティエリアに入る寸前で迎え撃つ形になる。
 ぽつん、ぽつんと落ちてきたかと思うといきなりザーッと本降りとなった。冬のさなかの 夕立、である。
「…あの時に似てる」
 ついさっきまで自分を取り巻いていた連中があわてて駆けて行くのを見送りながら若島津 はつぶやいていた。
 稲妻が空を走るたび、応援席の女の子たちの悲鳴が上がる。学校関係者以外の観客たちは 急いでメインスタンドのひさしの下に移動を始めていた。
 若島津はまた頭を振った。髪の先からしぶきが散る。が、彼もまた雨のことは目に入って いなかった。
「森崎? …いや、まさか、日向さんの…!?」
 さっき前半終了前に目撃した幻影の余波――エネルギーの塊がすさまじい勢いで膨脹しつ つあった。前半にははっきり聞こえていた森崎の「声」がいつしかそのエネルギーに押しつ ぶされ、もみくちゃにされ、形を失っていた。若島津はただ自分の意識を強く保ち、その圧 倒的な力に押し負けないようにするのに全神経を集中させねばならなかった。
「それにしてもあれは一体…」
 目だけを動かし、若島津はさっき日向と岬がぶつかったその地点に視線を外した。と、そ こに主審のホイッスルが雨をついて高く鳴る。誰もがぎょっと注視した。
「ピ、PK!?」
 ゴール前に日向が倒れ込んでいた。同じく横で転がっている高杉が見える。その二人を見 下ろして、森崎が呆然と立っていた。





 スタジアムの電光掲示板にGOALの4文字が大きく躍った。
 後半22分、ついに均衡は破れたのである。それもあっけない形で。東邦の選手たちは焦 げるようなシュートをきっちり決めた日向に駆け寄ろうとして足踏みをしてしまった。日向 の表情には「不服」の文字が大きく浮かび上がっていたのだ。
 強く降りかかる雨に目を細めながら日向はまだじっとゴールをにらんでいた。ボールは既 にセンターサークルに送られ、試合再開の笛が鳴ろうとしているのに、日向は全く動かな い。黒いユニフォームが、重く雨を吸って日向の全身を鎧のように包んでいた。
「おい…、待ってくれ!」
 日向が凝視する先――そこに立って絶句している森崎を一目見て、いきなり若島津がダッ シュした。
 右手を高く上げた主審は、鳴らしかけたホイッスルをドキリ、と口から離した。スタンド の観衆からも波のようにざわめきが伝わる。地面が、揺れているのだ。
「地震だ!」
 若島津も足を止めた。思わず天を仰いでしまう。日向と、そして森崎のいる位置のちょう ど中間あたり、彼は見たのだ。
 さっきまで知覚神経をかき乱し続けていた。エネルギーの塊が白いオーラとなって空中に 実体化し、渦巻きながら大きくうねっていた。それがこの空間を――競技場の内部ごと揺さ ぶっているのだ。
 地震ではない! 若島津は唐突に理解した。森崎が、日向に応えている――自分に向けら れた敵意を受け止め、そのパワーを必死に押しとどめようとしているのだ。
――森崎は敵意を受けることに慣れていない。サッカーでならなおさらだ。(森崎、すまん …)しかもあいつはまだ自分の力のコントロールが十分じゃないんだ!
 二回目の大きな振動が弾けた。若島津の足元から目に見えない爆発が突き上げる。衝撃は 彼自身を貫き、地を割き、雨空高く噴き上がって行った。
「うわあああああっ!!」
 誰もが叫んでいた。豪雨に身を打たれながら、それぞれその場に棒立ちになる。
 水だった。フィールドの真ん中から、高く、激しく、水が真上に噴き出していたのだ。
「…若島津!?」
 若島津が弾き飛ばされるのを一番近くで目撃したのは島野だった。噴き上げた水がまたな だれ落ちてくるその場所に駆け寄ると、若島津は投げやりに足を放り出してぼんやりと座り 込んでいた。水柱が芝を割って、その下から泥が後から後からあふれ出てくる。島野は急い で腕を取り、ズルズルとその体を引き寄せた。
「大丈夫か?」
 問いには黙ったまま、若島津は髪をかき上げた。が、途中で手が止まる。額の上あたりど こかを少し切ったのか、血で汚れた手を見て若島津は顔をしかめた。
「いい、自分で立てる」
 島野の手を断って若島津は立ち上がった。目の前の、空へ上がる大量の水を改めて見上げ て呆れる。
「さ、下がって! 下がるんだ!」
 主審が声を枯らしているが、雨と雷鳴とそしてその噴き出す水柱の轟音とでまったく届か ない。
「なっ、何なんだよぉ、これは〜!?」
「じょーだんだろ、おい…」
 見る見る水浸しになっていくフィールドの中で、選手たちは行き場を失ってただ右往左往 する。上と下からの水攻めにもう誰もがぐしょ濡れだった。
 主審のところに線審、予備審判たちが水を跳ね上げながらあたふたと駆け寄って来た。と もあれ非常事態だ。人命尊重、という言葉が彼らの頭にまず浮かんだとしても無理はない。 まさかこれで溺れる者もないだろうが、ここまで来るとただの「悪天候」では済まされず、 審判たちも試合の続行を断念するよりなかった。
「監督ーっ!! 助けてくださいよぉ〜」
「だめだ、こっちへ来るなっ!」
 ベンチ方面はもっと悲惨な状況にあった。グラウンドからの出口はスタンドの下へ一段低 く作られているために水が排水溝のごとく流れ込んで激流となっていたのだ。パイプ椅子に メンバー表示のフレームまで流れにぷかぷか浮いてベンチ周辺の人々を巻き込み、今や巨大 な凶器となろうとしている。
 グラウンド上のTVカメラはいち早く撤収して、残るはスタンドの固定カメラの画像だけ がこの惨状に向けられていたが、雨脚があまりに強くて競技場内はもやがかって見えるばか りであった。報道としてはさっぱり役に立ってはいない。
「ゲーム、セット!」
 そんな中で精一杯の声を張り上げて、主審が手を上げた。(ホイッスルは水で既に用をな さなくなっていた) 試合時間はまだ後半を十数分残していたが、審判の決定は絶対であ る。主審から比較的近い位置にいてその声(と姿)が届いた南葛の選手数人はがっくりした 表情で顔を見合わせた。こんな幕切れになるとは誰が予想しただろう。
「終わったはいいけど…」
「どうやって引き上げるんだ?」
 フィールドの中央はまだしも足元が確かだったが、周辺部は水と泥の海である。周囲を見 回しながら妥当な疑問を口にしているのは、たった今敵味方をやめた浦辺と松木だった。
「こ、じ、ろーっ!」
 雷鳴の向こう側で、細く、岬の叫び声が上がった。島野に付き添われてセンターサークル 付近まで戻ってきていた若島津がギクリと振り返る。
「試合は終わったんだよーっ! 止まってよ!」
 岬のそばに駆け寄って、若島津は後ろからその肩を引き寄せた。彼らの前方に、派手な水 しぶきを上げながらドリブルして行く背中が見えた。
「審判の声が聞こえなかったんだ、小次郎…」
 聞こえたかもしれんがな、と心でつぶやきつつ、若島津は一歩前に踏み出す。
「森崎…?」
 日向はともかく、森崎はなぜ引き上げて来ない…?
「あっ、見て! シュートする気だ!」
「……」
 岬の目は確かだった。またピカッと稲妻が走る。水に覆われたフィールドが一面に白く反 射したその上で、日向がシュート体勢に入っていた。ゴールまで約30メートルのあたりで ある。
 森崎が動けない理由はそれしかなかった。





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