Little Magic in the Air
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国立競技場井戸掘り事件 2
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 1年の時から同年代でレギュラーを占めていた南葛に対し、東邦は良くも悪くもスポーツ 名門校の層の厚さを特色としていた。むろん物を言うのは実力のみだが、ここで「南葛」に 不慣れな先輩が数人混じっていたことが東邦の最大のネックとなった。去年の大会、今の3 年生は一人もレギュラーに入っていなかったのだ。キックオフから数分も経たないうちに若 島津はそのことに気づいて舌打ちした。
「クロスを出させるな! 右を押さえろ!」
 両ウィングバックがその3年生だった。南葛ハーフ陣の自由奔放なポジションチェンジに いいように振り回されている。これは技術の問題ではなかった。言ってみれば「教科書にな い」プレイなのだ、南葛の連中は。もっともサッカーにはもともと規範などというものはな いのであるが。
「あいつらは度を越してる」
 それが若島津の見解だった。普段の無表情な寡黙さに対してフィールドでは人格が180 度変わると言われている彼だが、それはキーパーとして当然の職務と言うものだ。とりわけ こういう状況では大声を出し惜しみしている余裕はない。
「下がり過ぎだ! ゾーンを崩すな!」
 長短のパスを自在に織り交ぜてなだれ込んでくる南葛の中心にいるのは言うまでもなく岬 だったが、彼はあくまでパーツの一つとしての役割に徹していた。慣れない者は岬の表面的 なテクニックに目を奪われてついマークを集中させがちになるが、それが命取りだというこ とが3年生にはまだわかっていないに違いない。
「川辺!」
 最終ラインにいた川辺にとっさに合図する。左に駆け込んで来た滝の動きにつられそうに なった先輩を突き飛ばすようにしてきわどくオフサイドに持ち込んだ。
「そろそろ限界、か」
 フリーキックを右ライン側に指示しながら若島津は口の中でつぶやいた。センターサーク ルの向こうに日向が見える。前半も半ばにさしかかり、そのほとんどが自軍でのボールの奪 い合いに費やされて決め手を欠く展開となると、ゴールゲッターとしてのFWのイライラは かなり積もっているはずだ。だが日向がここでディフェンスに関わりすぎればまさに南葛の 思うつぼということになる。
 川辺のプレースキックはセンターを越えた地点でヘディングの競り合いになったもののそ のまま3年生のハーフに渡った。南葛のバックスもしっかり戻って固めているからいったん 島野に戻してからライン際を壁パスで持ち込んで…。
「げ…」
 そんな若島津の思考をいきなりぶっちぎったのはほかでもない猛虎の一吠えであった。
「あーあ、切れちまった…」
 島野に届く寸前でボールが消えた。と思ったらいきなり日向の豪快なドリブルである。意 表を突かれながらもそれを防ぎにかかった南葛バックス陣を彼なりのフェイントでなぎ倒し つつ突き進む。ようやくチャンスらしいチャンスを迎えてバックスタンドの東邦応援席が大 きく沸きかえった。
「…っつ?」
 その時、若島津は頭の片隅にチクリと痛みのようなものを感じた。
「気のせいかな…」
 頭をバサッと振って相手ゴール前に目をこらす。日向のスパイクが空を切って一瞬キラリ と光を反射したのが見えた。と同時に石崎と高杉らしき姿がその前に交錯する。
 悲鳴のような、ため息のような声が応援席から上がった。日向のシュートは森崎の指先に わずかに弾かれて、クロスバーの上をかすめて行ったのだ。
「ヒットのタイミングがズレてたな」
 若島津はぼそりと言った。野生の勘の持ち主にしては珍しいミスのように思えた。あせ り、と言うより気持ちのほうが先走ったのか。コーナーキックに備えて両軍の選手たちがゴ ール前に集まってくる中、ゴールエリアの前で日向はまだ同じ姿勢のまま正面を睨んでい た。睨んでいる先はもちろん気の毒な森崎である。
「逆恨み…」
 同業者として当然の感想をもらす。キーパーがシュートを阻止して何が悪い。それとも日 向は自分のほうのミスだと気がついていないのだろうか。
 しかしこれで日向に火がついてしまったようだった。ファーポストに入ったボールはいっ たんヘッドでクリアされたがすぐ東邦に渡り、ペナルティエリアの前で激しい混線となっ た。徹底したマンツーマン、いや複数のマーカーを日向につける作戦に出た南葛は決定的チ ャンスの寸前で食い止めてはいたが、東邦も分厚いフォローアップで一歩も引かない。戦術 などとっくにどこかに忘れ去られ、ゴールに向かおうとする日向のパワーだけがフィールド を席巻する。
「たいがいにしてほしいな」
「えっ?」
 ボールはぱったりと来なくなった。21人のプレーヤーが南葛陣内に詰めっぱなしという 状態である。それでもゴールキックのたびに律儀に後退してくる今井が、キーパーの独り言 を聞きつけて妙な顔をした。
「どうしたんだ、若島津。静電気か」
「いや……ああ、まあそんなとこだ」
 エリアから出て自陣の真ん中あたりまで遠征している若島津が突っ立ったままうるさそう に髪を払っているのだ。
「おまえも冬場は大変だな」
「まあな」
 今井はもちろん知らなかった。若島津の「大変」は季節など選ばないということを。
(ああ、うるさい…!)
 多少髪がパチパチするくらいどうと言うことはない。問題はさっきからチクチクと知覚神 経を刺激しているスパークの発生源にあった。
――森崎…?
 数十メートル彼方のもう一つのゴールを凝視しながら、若島津はその共鳴のありかを確認 した。日向の強引なシュートコースに身をさらしながらゴール前の激しい攻防になんとか耐 えている。だが、そのパニックがほぼ同時中継でこちら若島津に響いて来るのだ。
 南葛のクリアボールが高く上がり、ペナルティエリアの隅にぽとりと落ちた。またまんま とこういう位置を嗅ぎつける奴もいるものだ。走り込んでいた反町はニカーッと笑顔になる と、細かいステップでディフェンスをかわしながらコーナー際に迫る。フラストレーション をためていたのはこちらも同様らしかった。
「ほいっ!」
 岸田と中山の間をぽんと抜いて反町は角度のないところから鋭くクロスを上げる。カーブ のかかったその弾道の先を目がけ、日向が噛みつくように飛び込んだ。が、彼の右足がとら えたのはボールではなかった。ぼん、と鈍い音がして芝の上に転がったのは人間である。
「も、森崎! 大丈夫かっ!」
 文字通り日向の足からもぎ取ったボールを腹に抱え込んだまま森崎がぼーっと顔を上げ た。
「えっ?」
 高杉に問われるより先にボールのゆくえを確認し、やっとほっとした顔になる。と同時に 自分の前にいる相手に気づいてさっと青ざめた。
「あいつ、知らずにやってるな」
 巡り合わせというのは怖いものである。日向がムキになればなるほど森崎が――偶然とは 言え――好プレーをしてしまう。そしてそのことがまた日向を必要以上に熱くする。
「悪循環、と言っちゃ森崎に悪いか…」
 そもそもの原因――日向が森崎を敵視する元凶――としての自分の責任がわかっているの かいないのか、若島津はあくまで傍観者としての役割に徹していた。
 森崎はもともと日向の視界には入っていなかったのだ。そこにあるのはただゴールのみ で、キーパーの存在価値は彼の頭になかった、というのが本当のところだった。そう、3年 前のあの事件がなければ今でもそうだっただろう。
 またゴールキックとなって選手たちがざざざーっと戻って来た。若島津もゆっくりゴール 前にポジションを取る。
 若島津はちらりと空を見上げた。まさか空までこのフィールド上の騒ぎとシンクロしてい るわけではないだろう。しかし既に風の「質」が変化しつつあった。一般的に「胸騒ぎ」と 呼ばれるアレだ。
 昨夜の夢、それは明らかに異変を示していた。決勝戦で何かが起こる。ありがたくない予 知だった。それが森崎と関連があると言うなら…。
「これはちょっと手に負えんかもしれんな」
 実は彼らはこれまでこういう形で感覚を共有したことは一度もなかった。実戦に限って言 っても、現にこれまで直接対戦したどの試合でも経験はない。
「――まあ、あの時は例外として」
 例外と言いつつ、若島津は「あの時」の体験に引っ掛かりを感じていた。2年前の正月、 若島津はその手に負えん相手と貴重な、実に異常な体験をしたのだ。とは言え、肝心なとこ ろで若島津の記憶は空白になっている。
 一切を目撃してたはずの若林とヘフナーだが、その証言はどうも危なっかしい。一番深く 関わっている若林でさえ、その事態を正確に把握し切れていないらしいのだ。そして何より も困りものなのが森崎本人の認識であった。
『あいつはああ見えてガンコだからな、一度気がつかない、と決めたらとことん気がつかな いままで通すことになるぞ』
 そういう問題だろうか。若林らしいおおらかな(若島津によると「タガの外れた」)結論 だとは思うが、迷惑を受けるのはこちらなのだ。
 また東邦応援席が沸き立つ。ボールがハーフウェイラインを越えたのも束の間、日向の突 進がまたも南葛ゴールを目指していた。パスは出さない。ただ前だけを見続けて…。
 最終ラインにつめていた岬がその前にまっすぐ走って来た。マーカーの井沢とスイッチす るように日向の進路を交錯する。
 あ、と声を出したかもしれなかった。日向と岬がもつれるように倒れるのが見えた瞬間、 若島津の視界がフィルターが下りたように混濁した。幻のシルエットが波打つ芝の上を交差 し、そして彼が見たものは…。
「だめだ!」
 が、それと同時に響いたホイッスルが若島津の叫びをかき消した。いや、叫んだのも幻覚 か。そばの新田がそんな若島津のほうをいぶかしげに見ている。中央で岬が身を起こしなが らにこっと日向に笑いかけ、日向はそれにそっぽを向くことで応えた。
 ハーフタイム。若島津は気を取り直すと森崎が戻って来るのをライン上で待ち受けた。





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