EPILOGUE
「――モリサキ」
遠く、老人の声が反響した。
森崎は顔を上げる。
「君が…、生身の、実在の人間だったなんて。まさか本当にまた会えるとは…
思いもしなかった」
彼の前に老人が立っていた。その表情に、どこかで見た悲しみが漂っている
ことに森崎は気づく。
「私が、わからんかね?」
炎の熱さも、渦巻く轟音も、ここにはなかった。代わりに白い、深い空間が
彼らを含んでいる。
音もなく波が打ち寄せてきた。時の波…。森崎ははっと目を見開く。
「――フリッツ!」
叫んだ声が彼自身を驚かせた。
「フリッツ、ま、まさか…!?」
『――夢に色はあるだろうか。夢に形は…。そして、夢はどこへ行くのだろう
か』
老人は黙って森崎を見つめた。その横で若林が静かに起き上がる。
「どういうことなんだ、これは」
「若林さん」
老人は目を閉じた。そして穏やかに語り始める。
「先の大戦で私は両親を失った。私の目の前で両親は炎に焼かれて死んだ。幼
かった私は悪夢に悩まされ、記憶を失った…」
深いため息が老人の口から漏れた。
「私はたった一人で、恐怖と悲しみに耐えねばならなかった。長い苦しみだっ
た。その悪夢の中に突然現われてそこから救ってくれたのが、モリサキと名乗
る異国の少年だったのだ」
「…そ、そんな! だって、俺は…」
おろおろする森崎の肩を、後ろから若林がつかまえた。
「五十年。…その歳月を、あんたは自分を欺きながら生きてきた。たとえばフ
リッツという昔の自分を押し込めることで。…違うか?」
老人は黙っていた。森崎が呆然と若林を振り返る。
「森崎、おまえが行っていたのは無意識の世界だ。そこには時間はない。空間
ですらない。おまえが会ったフリッツは過去のフリッツであり、同時に現在の
彼の深層心理でもあったんだ。おまえは共鳴を起こしていた。会長の『力』
は、封印された良心、つまりそのフリッツに依っていたんだ」
若林の言葉に、老人は目を開いた。
「そうだ、私は私の力を忌むものとしてとらえていた。だが同時にそれはこの
上なく便利な道具でもあった。私は全てを忘れることで…、かつてモリサキに
救われたフリッツを心の奥底に封じ込めることでここまで生きて来たのだ」
「…無意識」
森崎はまだ信じられない様子だった。
「でも、フリッツの中にもう一人フリッツがいて…。そこにどうやって行けた
んですか、俺」
「森崎、人の意識は確かに個人単位のものだ。一人一人確固とした垣根があ
る。だが無意識層というのは、そういった垣根をもともと持たないと考えられ
ている。おまえが行ったのは会長の深層心理であり、おまえ自身の深層心理で
もあったんだ。だから若島津もその共鳴を利用しておまえと会うことができ
た」
「じゃ、シュナイダーは…」
森崎ははっと顔を上げた。
「シュナイダーは、シュナイダーはどうなんです! 俺、何度も影を見まし
た。若林さん、共鳴って言いましたよね。シュナイダーは誰と、何と共鳴して
たんですか!」
「そうか、シュナイダー…」
若林は眉を寄せた。
「まずいな。俺はあいつが他人の意識と共鳴するなんて思ってもみなかった。
失踪の原因がそこにあるとしたら――フリッツが消えたことでシュナイダーの
向こう側の意識は宙に浮いてしまうことになる」
「フリッツ(わたし)が消えても、モリサキがいるよ」
「え?」
会長と目を合わせ、若林は一瞬ぽかんとした。だが、会長は促すようにうな
づく。
「意識にこだわる限り彼は感知できない。となればあとはモリサキだけだ、自
分で共鳴を起こせるのはね…」
老人の声が遠ざかる。いや、遠ざかりつつあるのは彼らのほうだった。見え
ない風が二人を押し流していく。
『モリサキは優秀なセンサーだよ。悲しい心を引き寄せる…』
「どう、なったんです、俺たち…」
森崎は若林の腕の温もりを感じながら、まぶしそうに周囲を見回した。どこ
か一方向から光が差し始めていた。
「空間移動だ。シュナイダーの所へ今近づいているはずだ」
「フリッツは…」
森崎の胸が大きく息を吸い込んだ。
「…フリッツは泣いていました、いつも。そして帰りたがっていた、自分の故
郷に。俺は何もしてやれなかったけど、フリッツは帰れたんですか、これで」
消えた、と会長は言った。フリッツは長い悲しい夢を見続け、そして自らの
中に戻ったのだと。
「なあ、森崎、あの時ヘフナーが言ってたことだがな」
若林はためらいながら口を開いた。
「つまり、隠してたわけじゃなくて、おまえがそのうち自覚するのを待って
た、って言うか…」
「いえ、俺、わかりました」
その言葉をさえぎるように森崎が顔を上げた。
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