若林の体は激しく壁に叩きつけられた。今上がってきたばかりの階段が視界
の端で波打つように動いている。今やこの家は意志を持った一つの生き物だっ
た。そしてそれを支配する者が誰であるかを侵入者に思い知らせようとしてい
るのだ。
若林は頭を振ってまた立ち上がった。明かりの消えた廊下に等間隔に窓から
の月光が影を落としていた。彼をその先へと導くように。
突き当たりのそのドアを、若林はゆっくりと押した。闇の中で暖炉の火があ
かあかと燃え、それが唯一の光源となっている。そしてその揺らめきを背に、
一つの人影がまっすぐ彼を見つめていた。
「ずいぶん待ったよ。さあ、入りたまえ」
老人の口元に静かな笑みが浮かぶのを若林は見た。視線は外さず、後ろ手に
ドアを閉める。
「待ったのはそっちの勝手だ。それに回り道をさせたのはあんたのはずだぜ」
「そうかね?」
会長はソファーに掛けたまま手を伸ばして、燭台の蝋燭に暖炉の火を移し
た。それからそれを側のテーブルに置く。そこにはチェス盤があり、駒がいく
つか置かれていた。駒はもうわずかしかなく、終盤を迎えていることが一目で
わかる。
「私が考えていたようにはなかなか運ばなかったよ。君たちの動きは時に定石
を大きく外れることもあったからね」
「あいにく俺たちのフィールドはチェッカー模様をしていないんでな」
若林のぶっきらぼうな返事に、会長はくっくっと愉快そうに笑った。昼間見
せていた気だるそうな様子はどこにもない会長はチェス盤に目を移し、白のキ
ングを取り上げた。
「君たちが調べ上げた通りだよ。会社の実権欲しさに悪あがきをしている連中
を私はわざと泳がせておいたのだ。無能は者は所詮無能なつぶし合いをするだ
けだからな」
「エサをちらつかせておいて、か。だが偶然とは言え、シュナイダーはその犠
牲にされたんだ。あんたのその気まぐれのせいでな!」
会長は目を上げて奇妙な微笑を浮かべた。
「偶然だと……思うかね?」
「何だと?」
若林はあっけにとられた。会長は余裕を見せながら手の中で駒を転がしてい
る。
「私の秘書が副社長と共謀して架空取引をしようとしたその一部始終を私は観
察していた。彼らが知らずにシュナイダーの口座を選んだ時、私はちょっとし
た悪戯をしたのだよ」
「な、に…?」
「私はシュナイダーに興味を引かれた。『力』が全く通じない人間を見たのは
彼が初めてだったからね。そうして注目しているうちに、今度は君の存在を知
ったというわけだ」
「じゃあ、まさか……」
「そうだよ、ワカバヤシ」
会長はうなづいた。
「私が最初からターゲットにしていたのは君のほうだったんだ。シュナイダー
ではなく、ね」
蝋燭の灯の上にかざした白のキングが、会長の指の中でくるくると回ってい
た。
「彼のスキャンダルを利用して君を誘い出すのが私の狙いだった。会社の連中
はそれぞれに妨害していたようだったが、君がその全てを排除してここまで来
ると私は信じておったよ」
「つまり、シュナイダーがこんな目に遭ったのも――全部俺のためだったって
言うのか…」
呆然と目を見開く若林に会長はちらりと目をやった。大きく息を吸ってソフ
ァーに沈む。
「私はもう老いた。野心はあっても力がそれに伴わない。無一文から築いたこ
の会社を拡大するために存分に使ってきたが、その力も長くは保てまい」
その言葉とは裏腹に会長の目は強い光を放っていた。そこで口を閉じ、まっ
すぐ若林に視線を止める。
「……そう、私は君のその力が欲しかったのだ」
「なるほどな…」
若林はぎゅっと眉をしかめ、一歩後ろに下がった。部屋の闇が重い緊張をは
らみ始める。見えない片隅でカタン、バタン、と物が揺れ、倒れていく音が響
く。
「俺を新しい道具にするって訳か。だがあいにく俺はじいさんの道楽に付き合
ってられるほど暇じゃないもんでな」
|