6章 7









 若林の体は激しく壁に叩きつけられた。今上がってきたばかりの階段が視界 の端で波打つように動いている。今やこの家は意志を持った一つの生き物だっ た。そしてそれを支配する者が誰であるかを侵入者に思い知らせようとしてい るのだ。
 若林は頭を振ってまた立ち上がった。明かりの消えた廊下に等間隔に窓から の月光が影を落としていた。彼をその先へと導くように。
 突き当たりのそのドアを、若林はゆっくりと押した。闇の中で暖炉の火があ かあかと燃え、それが唯一の光源となっている。そしてその揺らめきを背に、 一つの人影がまっすぐ彼を見つめていた。
「ずいぶん待ったよ。さあ、入りたまえ」
 老人の口元に静かな笑みが浮かぶのを若林は見た。視線は外さず、後ろ手に ドアを閉める。
「待ったのはそっちの勝手だ。それに回り道をさせたのはあんたのはずだぜ」
「そうかね?」
 会長はソファーに掛けたまま手を伸ばして、燭台の蝋燭に暖炉の火を移し た。それからそれを側のテーブルに置く。そこにはチェス盤があり、駒がいく つか置かれていた。駒はもうわずかしかなく、終盤を迎えていることが一目で わかる。
「私が考えていたようにはなかなか運ばなかったよ。君たちの動きは時に定石 を大きく外れることもあったからね」
「あいにく俺たちのフィールドはチェッカー模様をしていないんでな」
 若林のぶっきらぼうな返事に、会長はくっくっと愉快そうに笑った。昼間見 せていた気だるそうな様子はどこにもない会長はチェス盤に目を移し、白のキ ングを取り上げた。
「君たちが調べ上げた通りだよ。会社の実権欲しさに悪あがきをしている連中 を私はわざと泳がせておいたのだ。無能は者は所詮無能なつぶし合いをするだ けだからな」
「エサをちらつかせておいて、か。だが偶然とは言え、シュナイダーはその犠 牲にされたんだ。あんたのその気まぐれのせいでな!」
 会長は目を上げて奇妙な微笑を浮かべた。
「偶然だと……思うかね?」
「何だと?」
 若林はあっけにとられた。会長は余裕を見せながら手の中で駒を転がしてい る。
「私の秘書が副社長と共謀して架空取引をしようとしたその一部始終を私は観 察していた。彼らが知らずにシュナイダーの口座を選んだ時、私はちょっとし た悪戯をしたのだよ」
「な、に…?」
「私はシュナイダーに興味を引かれた。『力』が全く通じない人間を見たのは 彼が初めてだったからね。そうして注目しているうちに、今度は君の存在を知 ったというわけだ」
「じゃあ、まさか……」
「そうだよ、ワカバヤシ」
 会長はうなづいた。
「私が最初からターゲットにしていたのは君のほうだったんだ。シュナイダー ではなく、ね」
 蝋燭の灯の上にかざした白のキングが、会長の指の中でくるくると回ってい た。
「彼のスキャンダルを利用して君を誘い出すのが私の狙いだった。会社の連中 はそれぞれに妨害していたようだったが、君がその全てを排除してここまで来 ると私は信じておったよ」
「つまり、シュナイダーがこんな目に遭ったのも――全部俺のためだったって 言うのか…」
 呆然と目を見開く若林に会長はちらりと目をやった。大きく息を吸ってソフ ァーに沈む。
「私はもう老いた。野心はあっても力がそれに伴わない。無一文から築いたこ の会社を拡大するために存分に使ってきたが、その力も長くは保てまい」
 その言葉とは裏腹に会長の目は強い光を放っていた。そこで口を閉じ、まっ すぐ若林に視線を止める。
「……そう、私は君のその力が欲しかったのだ」
「なるほどな…」
 若林はぎゅっと眉をしかめ、一歩後ろに下がった。部屋の闇が重い緊張をは らみ始める。見えない片隅でカタン、バタン、と物が揺れ、倒れていく音が響 く。
「俺を新しい道具にするって訳か。だがあいにく俺はじいさんの道楽に付き合 ってられるほど暇じゃないもんでな」
 ゴオッとうなりを上げて部屋の空気が渦巻き始めた。下ろされていた厚いカ ーテンがあおられて、そのたび窓からの強い月明かりが床で乱舞した。その闇 と光の目まぐるしい交錯が、空間に一つの暗示をかけていく。
「私に抗う気かね? 君のその力で…」
 老人の声が静かに響いた。
「忘れてもらっては困るね、もうチェックメイトはかかったのだよ」
 直接対してみて、若林は相手の力が予想以上に大きい事を改めて悟った。前 へ、少しでも前へ、と全力をふりしぼっているパワーが逆に体ごと押し戻さ れ、ズルズルと後ろへ退いていく。ぶつかりあう激しい力の応酬に呼応して、 また家全体が大きく揺れ出した。
 テーブルの上の燭台がゆらりと倒れ、床に落ちていった。炎が上がり、木の 床をなめるようにしながら広がっていく。
「く、くそ、俺は負けん…、こんなヤツに自由にされてたまるか!」
 口の中が焼けつくように乾く。足元からじわじわと熱が這い登ってくる。感 覚を一点に集中し、それをぎりぎりの所でコントロールする。今の若林にでき るのはそれだけだった。わずかでも意識をそらせば、たちまち押し潰されてし まうだろう。
「どうしたね、あの列車事故の時には私の力をさえぎってみせたじゃないか」
 会長は目の前に見えていた。だが、ソファーに掛けたまま揺るぎもしないそ の姿は、若林の胸の中にこれまで一度も覚えたことのない不安を生じさせた。 それは小さな一点だったが、わずかずつ染みのように広がり始める。
 若林はぎゅっと目を閉じ、それを振り払うように頭を振った。
「違う、あれをやったのは俺じゃない。あの力は……」
『――ゴール前。そこは攻防がもっとも激しくぶつかりせめぎ合う場所だ。守 りの最終地点であると同時に、攻めの最初のスタート点でもある。そこを専制 君主のごとく支配するのがGKだ』
 若林の中で何かが反響し始めていた。記憶…に似たイメージが狂おしいほど に全身を駆け巡る。
『――攻めてくる敵を前にしてGKが持たねばならないものは勇気ではない。 判断より分析より先に自らを突き動かす闘争心だ。尊大で独りよがりで強引 で、その一瞬自分自身に対してひとかけらの疑いも持っていない。ためらい、 迷い、恐れ……そういったものの住まう余地のないほど最大値まで攻撃的に自 らを保ち、そのことによってのみ防御する、それがGKだ』
「……森崎」
 口の中で無意識につぶやいたその名に、若林ははっと我に返る。それはもう 何年も前、彼自身が森崎に言った言葉ではなかったか。
「おまえ、そこにいるのか…?」
 炎の幻覚に包まれながら若林は目を見開いた。幻覚ではない。全てを飲み込 むように渦巻いている赤い炎のその中に、森崎が呆然と座り込んでいたのだ。
「森崎!!」
 叫んだ瞬間に押し合う力の均衡が外れた。二人は激しく弾き飛ばされる。若 林はとっさに手を伸ばすと森崎の腕をつかんで引き寄せ、顔を上げて会長をぐ っとにらみ上げた。
「……ど、どうして俺、ここに?」
 若林にすがりつくようにしながら森崎も身を起こした。目に映る地獄図に絶 句している。
「すまん、俺が…」
 おそらく呼んでしまったのだ。知らず芽生えた自信の揺らぎが呼応して森崎 の瞬間移動を招いたのだろう。
「おや、仲間を呼んだのかね、ワカバヤシ?」
 部屋はまさに燃え落ちようとしていた。会長の椅子と、そして若林たちのい る周辺だけを残して。
「私は君を殺したいのではない。このゲームを早く終わらせて君の協力を得た いのだ。さあ、負けを認めたまえ」
 会長が微笑みながら手を上げかけたその時だった。
「……やめろ、もうやめてくれ!!」
「森崎?」
 こぶしを固めて叫ぶ森崎の体から青白いスパークが弾け始めていた。若林は ぎくりとそれを見つめる。
「もうたくさんんだ! あんたはフリッツをあんな所に押し込めただけじゃ足 りないのか! 若林さんまで…、若林さんまで渡すもんか!」
「――な、んだと?」
 老人の表情が目に見えて変化した。掛けていた椅子のアームに指が食い込 む。
「フリッツは何もない世界でいつもあんたの影に怯えながら過ごしてた。あの 子がどんな気持ちでいたか、あんたにわかるか!?」
「きみは一体……なぜ?」
 会長はゆらりと椅子から立ち上がった。森崎の目からは知らず涙が流れ落ち ている。二人の間で、パワーの波が大きく逆流してぶつかり合い、その波紋が 激しく揺れた。
「フリッツをどこへやった! フリッツを返してくれ、今すぐ!」
「君は…、君の名前は何と言った……?」
 会長の視線が森崎の顔を探るように上下した。明らかに動揺が見られる。燃 えさかる炎の勢いが目に見えて変わり、彼らの頭上から吹き下ろすように荒れ 狂い始めた。
「危ないっ!!」
 その瞬間、彼らのそばの壁が炎の中で大きく崩れる。押し寄せる熱風に視界 が真っ赤になり――そして全てが渦の中へと押し流されて行った。








「……森崎!?」
 若島津は階段の半ばで立ちつくした。今自分の目の前にいたはずの森崎が、 突然すうっと掻き消えたのだ。3人で会長の部屋へ向かおうとしていたその時 に…。
「何かあったのか、若林に…?」
「ワカバヤシに、だと?」
 足をやや引きずりながら追いついて来たヘフナーは煙にむせながら低くうな る。ホールの吹き抜けでは地下から逃げて来た見張りの男たちが降ってくる火 の粉を避けながら外へ飛び出そうとしていた。
 上の階から出たらしい火は瞬く間に屋敷全体に燃え広がった。それに気づい て彼らは急いで若林に合流しようとしたのだったが…。
「駄目だ、ヘフナー。これ以上進むのは無理だ!」
「畜生…!」
 吹き抜けを透かして、階上が真っ赤になっているのが見えた。壁も、柱も、 見る見る黒く焼け落ちていく。この階段が火と煙に閉ざされるのは時間の問題 だった。
「待て、何か聞こえる…」
「なに?」
 腕で顔を覆って煙を防ぎながら、ヘフナーが振り返る。
「子供の、泣き声だ…」
 壁や床が上から崩れ始めていた。燃え落ちる破片が次々に降りかかってく る。
『世界をさいなみ傷つけているのは、怒りや憎悪でなく、悲しみだ。だから悲 しみはいつになっても救い上げられない。心の暗闇に吹き寄せられ、澱んでい る…』
「……森崎?」
 周囲を見回す若島津の髪が、風にあおられて不気味に動く。二人は全身を赤 く染めながら炎の前に立ち尽くした。
「――ああ、崩れていく!」
 呆然と遠巻きにしている男たちの間から誰ともなく声が上がった。周囲の雪 を、そして未明の空を赤々と染め上げながら、屋敷は音をたてて焼け落ちてい く。
「か、会長が……」
 雪の上に座り込んだまま、専務が悲痛な声を出した。
「なんてことだ…。あああ――」
「今になって何を言ってるんだ」
 ゆっくりとそこに現われたのはヘフナーと、そして若島津だった。ギリギリ で脱出を果たしたらしい。
「ヤツの正体も知らずに、自分が仕切ってるつもりだったようだがな」
 取り乱す専務を冷たく見下ろしてから、ヘフナーはもう一度屋敷を振り返っ た。じっとその最期の姿を見つめる。若島津もその隣に立った。
「ヤツなら大丈夫だ。森崎が一緒なんだ」
「…俺が心配なのはそこだ」
 ヘフナーは大きくため息をついた。
「あいつの力には見境がない。その上いつも自分のことは後回しと来やがるか らな」
「じゃ、言い直そうか。…森崎なら大丈夫だ。若林が一緒だからな」
 若島津は人の悪い笑顔をヘフナーに向けた。
「おまえ、親バカも度が過ぎてるんじゃないか? 早くフィールドに戻って勘 を取り戻せ。老けこむぞ」
「…放っとけ」
 ヘフナーは足元でおとなしく待っているエリーザベト3世をごしごしと撫で た。それから、専務のアウディのドアを開けて振り返る。
「行くか、とりあえず」
「気がすすまんな」
 シュナイダーの元へ。そう目で促すヘフナーに、若島津はぼそっと答える。
「…おまえの運転ってのがなあ」
「なんだと?」
 ヘフナーが睨み返そうとしたその時、運転席の無線装置がピッピッと音を立 てた。点滅するランプに気づいて、二人は顔を見合わせる。
『――た、大変なんです!』
 ヘフナーが手を伸ばしてスイッチを入れると、ようやく通じたことで必死に なっているらしい山小屋の見張りが、相手も確かめずに一気にまくし立て始め た。












「あンの野郎…!」
 乗用車よりましだったのか、若島津は決めかねていた。風を切って寒さが直 撃するのはこの際問題ではない。大きな犬を膝に抱えた状態で、とにかくこの 運転に耐えられるか。スノーモービルから振り落とされないようにするにはひ たすらしがみついているよりなさそうだった。なにしろ運転手はさっきから一 人叫び続けているし。
「どこまで方向音痴なんだ! さんざ人を振り回しやがって!!」
 ヘフナーにとってこの数日は最悪な状況だったと言っていいだろう。彼自身 の表現を借りれば『悪魔が大挙してやって来た』日々だったからだ。実の父親 を悪魔呼ばわりしていいのかは別として、継母の弟ジノ・ヘルナンデスを筆頭 に、日本からやって来た3人のGK、そして事件の主役である天才的方向音痴 の元チームメイト――。平穏な学生生活を送っていたはずの彼には、はた迷惑 をはるかに上回る事態だったに違いない。
「その上、スキーだと!? 一人で降りてっただと…!」
 無線が伝えた緊急報告はまさにとどめだった。逆上するヘフナーという、と ても珍しいものを目撃した若島津は、ともあれこれを傍観することに決めたら しい。
「シュナイダーはスキーくらい軽いんだろ?」
「だといいがな、少なくとも俺の知ってる限りあいつにスキーの経験があるな んて聞いたことがないぞ」
「降りたルートってのは?」
「途中で方向転換しない限りはライン河源流のビュンデンの町あたりにぶち当 たるはずだ。ただしあいつがターンのやり方を知ってる保証はないがな」
 止まり方も知らないんじゃないか、と言おうとして若島津はやめておいた。 これは冗談にならない。十分考えられる話ではないか。
「明るくなってきたのが唯一の救いだ。あとは天候が崩れなければいいが…」
 そう、とにかく祈ることしかなかった。






【第六章 おわり】









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