PROLOGUE 2








 待ち構えていた報道陣の盛り上がり方は異常とも言えるものだった。ほとん ど「Ja ヤー」と「Nein ナイン」だけで答えを済ませてしまうシュナイ ダーを無理やり引き止めて「本当にスキー競技に転向する気ではないのか」と 何度も確認を取り、とうとう若林が「休息をとらせるので…」と割り込むまで その怒涛の取材攻勢は続いたのだ。
「読めないけど、すごいねえ…」
 妙な感心の仕方をしながら朝刊の山に目を通しているのは森崎だった。ここ ビュンデンがスイス有数のスキー・リゾート地であり、折も折、アルペン競技の 世界大会が開かれていたことを彼らが知らなかったのは幸運だったのか不運だ ったのか。荒天のために2日も日程が延びて沈滞していた現地のムードを一変 させたのが、突然乱入したシュナイダーの大滑降だったのだ。
「ほら、ここも第一面だよ」
 シュナイダーの大きな写真を指しながら森崎は無邪気に驚いている。と言っ ても今朝のスキーのことではない。
「一体いつの間にこんな騒ぎになっちまってたんだ?」
 こちらはドイツ語の記事が読めるヘフナーである。昨日まで「?」付の小さ なローカル記事でしかなかった一連のシュナイダーの人助け行が、日ごとに連 鎖反応でふくらんでいき、ついには堰を切ったような世論の爆発を生んだの だ。
『シュナイダーを救え! 無実を訴える市民の声広がる』
「勢いってのは怖いもんだな」
 人情話に弱くしかも熱血漢という南ドイツの気質は、日本で言うと浪花節的 ということになろうか。今回図らずもそれを発揮してしまったヘフナーを若島 津はちらっと見やる。
「老人や子供を助けただけで八百長スキャンダルをぬれぎぬだと信じられるな んてなあ」
「実際ぬれぎぬだっただろうが!」
 むっとしたようにソファーに沈んだヘフナーは吹き抜けの階段を下りてくる 若林の姿に目を上げた。
「ヘルナンデスと連絡が取れた。昨日は週明けまで待てだの何だのと門前払い をくらわせておいて、今朝早々に資料をくれってあわてて電話して来たそう だ」
 ドイツサッカー協会もバイエルンの理事会もこれだけの世論攻撃を受けては あわてざるを得なかったのだろう。
「つまり俺たちがさんざ苦労して走り回ったのは全部無駄足ってことか。シュ ナイダーは結局自分で解決しちまったことになるもんな」
「本人自覚はないようだがな」
 若林は肩をすくめてちらっと客室のほうを見やった。シュナイダーは急遽あ てがわれたレストハウスの一室でさっそくぐっすりと眠りに落ちている。自覚 はなくても体のほうは標高差2400メートル、全長30キロ余の大滑降の疲 労をしっかり反映しているらしい。
「ま、ヒンツ社の両派閥の重役が逮捕されれば、多少の矛盾点が残ったとして もシュナイダーは晴れてリーグに復帰できるはずだ」
「多少、な」
 ヘフナーがにやりと応じた。その多少こそが彼らが奔走した部分ということ になる。その横で森崎が顔を曇らせた。
「…あ、じゃ、会長はどうなるのかな」
「いいか、森崎。映画なんかだとな」
 若林が意味ありげな表情で振り返る。
「こういう事件の黒幕は結局シッポは絶対につかませずに終わるもんなんだ。 そのまま逃げおおせちまうのさ」
『その通りだ』
 若林の言葉に続いた突然の声に4人はぎょっと顔を見合わせた。
『私は権力争いのダシにされた老いぼれ経営者だからな。後はのんびりと余生 を送るだけだよ』
「フリッツ!」
 最初に反応したのは森崎だった。ガバッと立ち上がって見回すが、もちろん 会長の姿はどこにもない。響いてくるのは声だけだ。
『モリサキ、君ともっと話をしたかったよ。話すことはたくさんあったんだ』
「…フリッツ」
 その言葉は、確かにあの小さな少年のものだった。声は老いても。
『君にとってはわずかな間だったかもしれないが、フリッツは五十年、君と一 緒にあの場所にいたのだ』
「お、俺…」
 森崎の目が何もない宙を泳いだ。思いが巡るばかりで言葉にならないのだ。
『――ゲーテは「ファウスト」を五十年かけて書いたのだよ。五十年間一つの 夢を見続けた……さぞ長い夜だったことだろう』
 声は穏やかに漂っていく。人は人の夢を追うことはできない。しかし、本当 に伝えたいこと、伝えたい想いは、自分の手を離れてもきっと誰かの中に残る のだ。
「フリッツ、俺、忘れないから。きっとまた会えるよ」
『…モリサキ』
(おい、いつからモリサキはあんなじいさんをファーストネームで呼ぶ仲にな ったんだ?)
 ひそひそとヘフナーが若島津に耳打ちしている。
(…さあ)
『――そうだな、それは楽しみだ』
 こちらでは話が静かに続いている。
『いや、それよりいっそ、君を養子にして会社を代わりに継いでもらうのも悪 くない』
「え…えええっ!?」
 絶句する森崎の横で、若林がにやにやと笑っていた。
「悪くはないが、無理だな。森崎はいずれ家業を継ぐことになってる。それに その前に、俺たちにはやり残してる夢があるんだ。諦めるんだな、じいさん」
 直接対決で甚大な被害まで出した間柄だったはずだが、じいさん呼ばわりし て若林は平然としている。若島津がそんな若林をじろりと睨んだ。
(ワールドカップ優勝が俺たちの夢だ、なんてここで言い出すなよ…)
『そうか、それは残念だ。しかし気が変わったらいつでもそう言っておくれ、 モリサキ。遊びに来るのはいつでも歓迎するよ』
「あ、ありがと、フリッツ」
 戸惑いと、それと安堵の混じった笑顔で森崎はうなづいていた。
 そこへ、ドアがノックされる。
「――あの、日本から国際電話が入っていますが」
 おそるおそるという様子でレストハウスの職員が顔を覗かせた。只者ではな い、と思われる一行に怖気づいているらしい。
 指名電話だということで手渡されたのは若島津だった。コードレスの受話器 をいぶかりつつ取る。
『このバカ野郎! 勝手にいなくなっちまいやがって、おまえ、そんなとこで 何してやがんだ!!』
 あまりに耳慣れたその怒鳴り声に、若島津は思わず電話を耳から離す。
「そんなとこってあんた、何でここがわかったんです」
『わかるもわからんもあるか、合宿所で晩メシ食ってたらいきなり衛星中継で おまえらが映ったんじゃねえか!』
 見かねて代わったらしい反町の説明でようやくわかったのは、さっきのヘリ に大会の国際衛星中継のTVチームが乗り込んでいて、謎のスキーヤーのダイ ナミックな滑りと共に、それを出迎えた4人組の姿もしっかり電波に乗せてし まったということだった。
 代表キーパーが揃って消えたユース合宿がどれほど日向小次郎のフラストレ ーションを招いたかは反町に言われるまでもなく想像がついた。が、再び電話 を奪い返した日向の言葉は、そばで心配そうに耳を寄せていた森崎を青ざめさ せるに十分なものだった。
『いいな、おまえらへの借りは大会でちゃんと返してやるから待ってろ。森崎 にもそう言っておけ!』
 今度のユース大会には若林は招集されないことが決まっている。少なくとも 日向のエサに供することは不可能というわけだ。
 若島津は電話を握ったまま静かに森崎を振り返った。
「な、森崎。今度はフィールドに井戸を掘るのはやめような」
「わ、わかしまづぅ……」
 ようやく覚めた長い悪夢の果て、そこにはそれを上回る現実が待ち構えてい たのだった。






【「ワルプルギスの長い夜」・完】











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