プロローグ










 日暮れまでにはまだもう少し時間があった。
 街灯の長い影がいつのまにかカフェのテーブルにまで伸び始めている。ピエールは読ん でいた本からふと顔を上げ、無意識にため息をついた。秋の終わりの乾いた風が建物のシ ルエットをぬって吹き過ぎる。いつの間にかやや人通りが増えてきたようだ。
 ピエールはカプチーノのカップを口に運びながら、その人波にややけだるい視線を投げ た。
 学生の街カルティエ・ラタンには文字通り世界中からの留学生が集まっている。むろん 芸術家と呼ばれる別の種族もそれに加わって、肌の色も国籍も宗教も主義主張も異なった 顔がごく当たり前に語り合い、行き過ぎていく。つまりここでは何者であろうとどんな風 体をしていようと取り立てて人目を引くということはないのである。
 個性的な一人一人が、しかし「無意味」という群集となって流れていく。どんなに多く の人がいようと、彼の待つ顔がそこにない以上、その光景は刺激のないただのスクリーン でしかないのだ。ピエールは気づかずにまたため息をついた。
 と、それが合図であったかのように、スクリーン上に小さな表情が灯った。その笑顔は まっすぐ彼に向けられていた。そしてだんだんこちらに近づいて来る。
「ミサキ…!?」
 まるでチェシャー猫だ、と、ピエールは心の中でつぶやいていた。彼の姿は群衆の中に 完全に溶けていた。笑顔が自分に向くまで、彼自身は「見えなかった」のである。
「僕も同じものを」
 カップを宙に浮かせて呆然としているピエールをよそに、岬は向こう側のギャルソンに 声を掛けた。それから椅子に手を置いて改めて問いかける。
「いい?」
「う…、あ、ああ」
 多少意味不明の返事を気にするふうもなく、岬は椅子を引いて腰掛けた。ピエールはは っとなってあわてて小さく咳払いをした。
「僕を、探してたんだって?」
「ミサキ……」
 にこっと微笑む顔はとても彼と同年とは信じられないベビーフェイスだ。しかも、学年 で言えばずーっと上、高校の課程をすっとばして一気に大学にスキップしてしまった謎の 天才少年である。ちょっと見ただけでは無害な日本人としか思えないが、ことサッカーに 関する限り、日本人に対する固定観念は修正すべきだろう。
 何と言っても厄介極まりないのがこの少年、こちらから連絡をつける手段がないという 点だった。住まいは誰も知らない。同じパリ市内に住む実の父親にさえもだ。
 大学にはたぶんしっかり通っているらしく、学生に尋ねればさっきそのへんで見たよ、 と教えられるだろう。だがそれはあくまで不特定の「さっき」、不特定の「そのへん」で あって、いざ探そうとすると絶対に見つからない。
『彼はどこにでもいて、どこにもいない』
というのが大学における岬の定義らしいが、それで支障もなく付き合っている学生たちも なかなかのものだ。
「なるほど、君は誰がどこで自分を探しているのか、全部お見通しらしいな」
 ピエールとて苦情の一つも言いたいところだろう。第一、面と向かってそれを言える機 会だってめったにないのだから。
「ああ、ありがとう」
 岬が礼を言ったのは、そこへコーヒーを運んできたギャルソンにであった。ピエールは 一息間をおくと、改めて岬に向き直った。
「無駄だとは思ったが、君にどうしても一つ忠告しておきたいことがあってね」
 岬はくるっと目を丸くしてピエールを見返した。まるで何も心当たりがない、というか のように。
「――厄介な分野に手を伸ばしていると聞いてる。厄介な、程度ならいいが、それですま ないことは君も十分わかっているはずだ」
「そう?」
 岬はコーヒーを口に運びながらカップ越しに目で笑い返した。持ち札を明かさないのは 彼の流儀だ。ピエールはちょっとむっとしたように身を乗り出した。
「E・S社。あそこの兵器産業部門だ。そうだろう」
 ピエールはまっすぐに岬を見据えて話を続ける。
「いいか、ミサキ。E・S社はほとんど国営企業のようなものだ。単に自国の経済振興や貿 易収支のためだけじゃない。中東との外交上のパイプ役として不可欠な存在なのもわかっ ているだろう。君の学問としての研究だと言うなら、何もわざわざ危険なアプローチを選 ぶことはないんだ。あの会社に手を出せば、政府より他の何よりも、彼女を刺激すること になる」
「彼女?」
 岬は意味ありげに繰り返した。
 フランス語では女性名詞となる「会社」には当然その代名詞が使われる。が、ピエール があえて伏せた別の存在を、岬はいたずらっぽく受けてみせた。
「女性については確かに君のほうが詳しそうだものね、ピエール。僕も今のうちに君にい ろいろ教わっておこうかな」
「ミサキ!」
 珍しく厳しい声を上げたピエールは、そのまま沈黙して岬と視線を合わせる。
「――なぜなんだ、なぜ今、あえてマダム・ブルーなんだ。君は既に挑戦状を叩きつけて しまったんだぞ。好奇心なら尚更だ。一刻も早く手を引くんだ。でないと…」
 岬は微かに肩をすくめてそれに応え、カップをソーサーに戻した。
「好奇心じゃないよ。まして告発しようというつもりもない。これが僕のやり方なんだ。 それだけだよ」
 言いながら立ち上がろうとした岬の手を、ピエールはテーブルの向こうからガシッと押 さえた。強い視線が下から投げられる。
「僕は想像で物を言っているんじゃない。E・S社とマダム・ブルーは言わば表と裏の関係 だ。経済も、政治も、そんな存在を抜きには動かない。つまりは必要悪だ。それに近づく というのがどういうことか、君にわからないはずはない」
 マダム・ブルーと個人名のように伝えられるその組織は、その実像が深い闇の中に隠さ れたまま、しかし公然の秘密として語られてきた。フランス国内にとどまらないその強大 な影響力は、各国の表にできない力関係を操るとさえ言われている。――死の商人。そん な古典的な名前こそがふさわしい、実態の見えない存在だった。
「………」
 岬は静かにその手を振り払うと席を立った。ポケットを探りながら片目をつぶる。
「僕にはもともと失うものはないからね。経済とも政治とも利害関係のないただの学生だ もの。君んちの会社と違って、何のリスクもないってこと」
 ピエールは気勢をそがれて言葉に詰まってしまった。いつものこととは言え、岬の会話 はどうにも捉えどころがなかった。真実を語っているにせよ、決して本心は語らない。
「――この、ガンコ者」
「ふふ、翼くんにもよくそう言われるよ」
 うなるピエールに笑顔を返して、岬はテーブルにコインを置いた。
「ツバサに言われて直らないなら、僕が言っても無駄だな」
 ピエールは空を仰いでから自分も立ち上がった。岬の分と合わせて支払いをし、その後 を追う。
「えっ…!?」
 ほんの数メートル先を歩いていた岬の後ろ姿がいきなり消えた。ピエールがあわてて駆 け寄ると、パン屋の立て看板の陰から裏通りに抜ける狭い隙間のような通路があり、その 向こうへ人影がいくつか足早に去って行く。
「待て!」
 暗い通路の先に大型の乗用車がエンジンをかけたまま停車していた。コートを着た大柄 な背中が岬を抱えるようにしてドアへ押しやっているのが見え、ピエールは思わず大声を 上げていた。
「ミサキに何をしてる! おいっ!?」
 ゆっくりと向き直ったのは岬だった。その表情が意外なほど冷静で、ピエールは意表を 突かれる。
 岬は軽く微笑みさえ浮かべて、何か口を動かした。それから大きな男を見上げ、そのま ま車に乗り込んだ。
「ミサキ……」
 裏通りに走り出て、空しくテールランプを見送る。ピエールが岬の言葉に思い当たった のは、その後だった。
「――しかたないな」
 しかたがない、と岬はそう告げていたのだ。








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