1章ー1






第1章
オリンピック・アジア予選









   『――オリンピック・アジア一次予選A組のリーグ戦が、11月×日からジャ
   カルタで行なわれる。日本オリンピック代表は15日間の国内合宿を終えてイ
   ンドネシア入りし、テストマッチを含む調整期間を経て初戦に臨む。なお故障
   を伝えられる大空翼選手は、この予選には参加しない模様。………』
               (週刊サッカーエクスプレス誌・10月27日号)



「だからさ、そんなの記憶にないんだってば」
 人気のない寮の廊下をどたどたと過ぎる二人分の足音に、けたたましい、それでいて渋 い低音の声がかぶさる。
「俺、3つだったんだぜ、クウェートから帰国したの」
「三つ子の魂…って言うじゃないか」
「島野ちゃーん!」
 ついに反町が音をあげた。
「レポートへのおまえの熱意はよーくわかったって。だけどこれだけは言っとく。俺は協 力したくないんじゃなくて、できないの!」
「……恨むぞ」
 ふっと立ち止まってぼそりとつぶやく島野の声には何とも凄味があった。口先で人を言 いくるめることにかけては東邦一とさえ言われる反町であったが、一方この寡黙さでもっ て他人を圧することにかけては若島津にさえ匹敵するとささやかれている島野正を相手に 回すと、これはやはり「いい勝負」となるのは必至なのだ。この両極端の個性を持つ親友 同士が、日々周囲に娯楽を与える名コンビと言われているゆえんである。
『俺は自分でも手を尽くしたんだ。下界にまで下りて図書館めぐりもしたし、新聞社のデ ータバンクも端から当たってみた。――それでも手に入らなかったからこそ、こうしてお まえに頼んでいるんだろうが』
「し、し、島野ちゃんってば…」
 反町は頭を抱えた。無言のままの島野の言わんとしている言葉が雄弁なまでに頭の中に 伝わって来るのだ。自分の頭脳の優秀さと直感の鋭さを呪うしかない。いや、ただの腐れ 縁と言うほうが正しいのだが。
「何もさ、わざわざそーゆー厄介な資料を使わなくたって、そこんとこ省いちゃって課題 レポートをまとめ上げるくらい朝飯前なくせに…」
 『アラブ文学における韻律の伝統』――これが島野の2学期末用レポートのテーマだっ た。いくらテーマが自由選択でもここまでディープな題材を選ぶとは。あくまで空しい反 論を試みようとする反町の鼻先に、折りシワのついた1枚のメモが有無を言わさず突き付 けられる。
「いいか、おまえが他ならぬイスラムの国で生まれたってのもアッラーのお導きだ。たっ た1節の詩文を俺のために読んでくれないってのか、反町」
 反町はくすん、としゃくりあげるマネをして、しぶしぶそれに目をやった。
「うん、確かにアラビア文字だね。健闘を祈るよ」
 そのままくるりと背を向けようとしたところをがっちりつかまる。島野は東邦の名ディ フェンシブハーフであった。
「やだっ、放してっ! やっとお山に帰って来られたんだぜ。今夜一晩眠って、明日また 成田なんだから〜〜」
 どんな泣き言も島野には通じない。何より同じ部屋で寝起きしている以上、自室に逃げ 込んでも救いはないのだ。それどころか新手の不幸が待ち受けていたりする。
「げっ、一難去ってまた一難!」
「俺はまだ去ってないぞ」
 しかし島野に同情の色はない。パソコンの電源を入れてメールの着信を知らせるメッセ ージにすぐ反応した反町に対し、自分はベッドの上にどさりと座ってただ眺めている。
『やあ』
 開いたメールはいつもと変わらない書き出しで、誰からのものか発信者を確認するまで もない。
『合宿お疲れさま。明日の出発に備えてゆっくり休んでくれ。…と言いたいところだが緊 急に調べてほしいことができたので、連絡入れさせてもらったよ』
「――またこれだ。俺ってつくづく人気者だよな〜。アラジンのランプの精にでもなった 気分だぜ」
 反町はがっくりとうなだれてから、今持って帰ったばかりのバッグを開き、ごそごそと ノートパソコンを取り出す。合宿所に持ち込んでいたものだ。ランプの精の必携道具らし い。
「おまえは全身隠し芸だけの人間だからな。せっかく腕を見込まれてるんだ。誇りに思え よ」
「……俺、たまには本業でも評価されたい」
 ぶつぶつとつぶやきながらディスクをセットする。三杉がプライベートな――つまりそ れは三杉自身と反町を指すのだが――通信専用に作った自前のソフトだ。公共のネットワ ーク回線はできる限り避けて、つまり接続記録を人目につかせないための手段というわけ である。
『パリ方面から何か連絡は入ってないかい? 彼のことでちょっと気になる噂を聞いたん だ』
 三杉は、国内合宿には最初の数日、顔見せ程度に参加しただけで後は自宅で体調調整を するという話だったが、しかしただのんびりしていたはずはないことは誰もが承知してい た。反町にはそれ以上その内容を追及する気はなかったが。
『毎度お引き立てありがとうね。でも、俺、本気で疲れてんの。どうせ明日会えるんだか ら、その時じゃダメ? 夕食まで一眠りするから、おやすみー。――Kくんより』
「あ〜ぁ。……あ?」
 送信しておいてパソコンに背を向けた途端、聞き慣れたアラート音が鳴った。反町のあ くびが出るか出ないかの早業だった。ぱっと向き直ったその画面に、『パスワードをどう ぞ』の文字が出ている。
『こら淳! 待ち伏せしてやがったな!』
『今日のパスワードは乱暴だねえ。疲れてるっていうのは本当みたいだね』
 むろんそのパスワードについては三杉の冗談である。メッセージボードからチャット交 信に勝手に切り替えただけで、パスワード入力など最初から設定されてはいない。ともあ れ、リアルタイムの会話に強引に持ち込んだわけだ。
『本当だっての。俺はマジメに合宿の刑期を務め上げたんだ!』
『そうだね。サッカー以外にも深夜にがんばっていたみたいだし』
 キーボードを叩く反町の手がぴくっと止まった。振り返るとベッドで頬杖をついている 島野と目が合う。
「俺、こいつ、嫌いっ!」
 パソコンを指差して叫んでも空しい。案の定、島野は動じなかった。
「あまり大声は出すなよ。三杉のことだ、しっかりどこかで悪口を傍受しているかもしれ ん」
 同じ年齢ながら、同級生たちには「ダンナ」と呼ばれている男だ。反町はあきらめてチ ャットに戻った。
『で、何、俺に用って』
『ああ、せっかくお山に戻ったばかりのところを悪いんだが、今から来てくれないか。僕 は明日、ジャカルタ行きに同行できないからね。今夜はうちに泊まって、明日成田へは直 接行けばいいだろう』
『も〜っ、やめてくれよ! 俺、眠りたいんだってば!』
 しかし反町の主張は届きそうにない。
『実は迎えをもうやっているんだ。もう着く頃だと思う。荷物ごと運んでくれるから、安 心して来てくれたまえ』
「おー、あれ、ハーレーだ。すげーな」
 いつの間に移動していたのか、島野が窓から外を見下ろしている。反町は椅子から弾け 飛んだ。
「嘘だろーっ! 俺、光とタンデムなんて命知らずなことは絶対お断りだぞっ! ……お や!?」
 窓にへばりついた反町の顔がパカッと緩むのを島野は横目で見た。
「やほーっ、青葉さーん! わざわざこんな山奥まで悪いねー、よろしくー!」
 さすがの豹変ぶりである。見え見えのエサでも、味さえよければ食いつきますから、と いう男なのだ。
 窓を開けて手を振り回している後ろから、島野がとんとんと肩を叩いた。
「なーに?」
「ああ、ささやかだが俺からの餞別だ。アッラーのご加護があるように、遠征のお守りに でもしてくれ」
 強引に胸ポケットにねじ込んだのは、さっきから話題のメモであった。
「俺はイスラム教徒じゃない! 神に誓って無神論者だっ!!」
 反町の叫びが東邦寮に空しく響いた。友情の味は時に激辛でさえあった。










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