逆襲のスノーホワイト
四つ子の事件簿 第4.5話 
















 深夜近くの国道を西へ向かうダークシルバーのフェラーリ412。
 東邦学園理事の小泉京子は同学園職員の山本和久を助手席に乗せて黙りこくったままヘ ッドライトの先を見つめていた。時折すれ違う対向車のライトが車内の空間を貫きながら 過ぎて行く。
「ちょっとごめんなさい…」
 京子はステアリングを切って車を脇に寄せた。その顔には何か思い詰めたような硬い表 情が浮かんでいた。
「どうかしたんですか、京子さん」
「いえ、何でもないわ。…運転代わってくださる?」
「それはいいけれど…」
 山本はいぶかしげに京子の顔を覗き込んだ。京子はそれに気づくと視線をさえぎるよう に微笑を浮かべた。
「大丈夫。疲れたんじゃないの。ただちょっと…」
「ただ…?」
「ねえ、和久さん」
 京子の声にどこかいらだちのようなものがある。
「私、やっぱり駄目。…やっぱりあなたと結婚できないわ」
 山本は目を見開いた。しばし沈黙し、それから諦めたような笑みを見せる。
「さすがに飽きましたか」
「和久さん…」
 京子は怒ったように山本を振り返ると、右手を伸ばしてその腕に触れた。
「違うわ。飽きたのはあなたのほうじゃないの。あなたってばプロポーズさえしてくれて ないのよ。知ってた?」
「変ですよ、京子さん。そんなにからんだりして」
 たしなめるような山本の口調に、京子の目がかっと炎を宿した。
「私、酔ってなんていないわよ。誰がからんでるのよ。あなたみたいなからみ甲斐のない 人はいないわ。私、怒ってるのよ。あなたが怒らないから、だから私が怒ってるの!」
 山本は困った顔で京子を見つめた。
「ええと、プロポーズしていないのは事実です。でも、既に婚約している相手にプロポー ズするという話はあまり聞きませんよ」
「…そうね、必要ないからしないのね。それとも本当はもう投げ出したいからなんでしょ う。こんな、家同士で決めた政略結婚なんて!」
「ねえ、京子さん」
 山本はため息をついた。つかまれた左腕をずらして京子のほうにまっすぐ向き直る。
「俺はね、あなたがそうやって仕事に打ち込んでいる姿が何より好きなんです。万年婚約 者だろうと、これが夫の肩書きに変わろうと、自分がその特等席にいるんだってプライド はずっと持ってられると思ってるんですがね」
「…随分まわりくどい口説き文句だわね」
「ストレートなほうがいいんですか?」
 ふてくされたようにシートに戻しかけた体を逆に引き寄せられて京子はどきりとする。 が、あっと思った時にはもう山本の両腕の中にいた。
「和久さん…?」
 声を出そうとする前に唇が重なった。京子はゆっくりと目を閉じた。闇が流れる。い や、流れているのはライトだろうか。
「リンゴのカケラは取れましたか?」
 長い沈黙の後、唐突に問われて、京子は驚いて顔を上げる。山本は笑顔を見せて自分の 喉のあたりを指差していた。
「白雪姫の毒リンゴですよ。今夜のパーティで、俺がいない間に食べちゃったんでしょ」
 京子の耳にグラスを合わせる軽やかな響きが蘇ってきた。きらびやかなホールとさざめ く声――。口にした時にはなんでもなかった毒が、おそらく徐々に彼女を苦痛に陥れたの だ。
「――とっくに免疫ができてると思ってたのよ。でもさすがに今夜のは効いたわ」
 京子は小さくため息をついた。優雅な会話、にこやかな社交辞令の中に容赦なく潜んで いる鋭い刃先…。それは彼女の属する社会のごく日常的な構成物のはずだった。完璧な帝 王学教育を受け、またそれを完璧にこなし吸収してきた彼女にも、やはりアキレスのかか とはあったのだろうか。
「姫君というものはいつだって狙われるもんですよ。特にあなたみたいなトラブルメーカ ーはね」
「白雪姫を名乗るには歳を取りすぎてやしない?」
 今夜初めての京子の本音だった。もちろんこれを不用意に聞き逃すような山本ではな い。伊達に28年間婚約者をやっているわけではないのだ、お互い。
「それを決めるのは俺だけですよ」
 山本の穏やかな視線を避けるようにぷいと横を向くと、京子はステアリングに置いた自 分の左手に目をとめた。今夜、この指は重かった。もう外してバッグにしまってある指輪 ――誕生石である真珠の重苦しい感覚がまだそこに残っている。日常彼女は指輪をはめな い。今夜も出る間際までかなり迷ったのだ。だが結局、彼女は自らに課題を課すことにし た。しかし、もう一人これを見せつけたかった相手がパーティには遅刻して結局終了間際 まで姿を見せなかったため、彼女のささやかな思惑も空振りに終わったのだった。
「あなたも私が有能な次期後継者でさえいれば満足、ってクチなんだわ、結局」
「優柔不断な婚約者を演じるのもいいもんでね、これが」
 山本は指を鳴らすと、くすくすと笑った。
「俺は確かに小泉家の次期後継者の夫となるべく生まれた時から義務を負ってきました。 そう、あなたと結婚することは確かに俺の意志じゃない。義務ってのは疲れます、まった く。でも俺の幸運は、あなたという人を愛するかどうかって自由だけはいつも保障されて たってことです」
「ずるいわ、あなたって。絶対ずるい!」
 京子は思いきり不機嫌な顔をしてみせた。する権利はあるはずである。毒リンゴを喉に 詰める羽目になった原因は、回り回ってここに戻ってくるのだから。
「まだつっかえてるみたいですよ、京子さん」
 これは誘導尋問であった。京子はふくれっ面のまま目だけを上げる。
「――もう一度試してみるわ」
「それが良さそうですね」
 山本は屈託なく笑顔を見せると、再び京子を抱き寄せた。さっきよりもさらに深く唇を 合わせる。京子の体に回された手にぐっと力がこもった。
「和久さん…?」
 京子が身を引こうとした。が、山本は京子を胸に抱き込むようにしながらそっと耳元に ささやいた。
「動いちゃダメです。気づいてないふりをして――」
 いつのまにか、フェラーリの周囲をぐるりと囲む影があった。ライトを消したバイクの 一団である。
「ふり、はいいけど…」
 闇の中で挑発的にエンジンをふかす音が重なる。
「何してるのよ! 演技過剰よ!」
「役得だなあ…」
 山本は京子の肩からスプリングコートをふわりと落とし、大胆なカットのカクテルドレ ス姿を現わした京子の首筋に顔をうずめた。
「――ちょっと!!」
 京子が大声を出しかけたその時、車のドアを乱暴に蹴る音が車内に響いた。
「いいとこでジャマして悪いけどよぉ…」
 シールドを上げただけのヘルメット頭が窓の向こうでにやついていた。














「ちょ、ちょっと京子さん、やっぱり俺が運転代わりますよ」
「構わないで。私、燃えてるんだから!」
 京子はアクセルに置いた足をまた力いっぱい踏み込んだ。点滅信号の交差点で右折ラン プを出していたトレーラーのクラクションが弾けたかと思うとあっと言う間に遥か背後に 引きちぎられていく。
「あなたもあなたよ。あんな連中振り切るくらい何でもない腕持ってるくせにとことんボ ケまくって!」
 こうなるともう山本は口をはさむことさえ許されない。
「だぁれがオバサンですって〜!!」
 どうやら彼女を一番燃え立たせたのは、言われるままに山本が差し出した現金より、グ ループの頭が最後に言い残した一言だったらしい。
――じゃあな、せいぜいゆっくり続きを楽しんでくれよな、オバサン。
「そりゃ、俺だって残念ですよ。いいとこだったのは事実だし」
 パーティで落ち込んでいた京子相手に、年に数回あるかないかの極甘ラブシーンによう やく持ち込んだのに、結局行き着く先はこの手のトラブルである。
「なんですって〜?」
 前方を睨んだまま京子は声だけを鋭く隣に投げた。
「あなた、やっぱり私を使って遊んでたのね。人がせっかくめったにない憂鬱に浸ってた のに…」
 どっちもどっちだという気がするが…。
「これ以上あなたを煽りたくはないんですが、どうも事態は単なるカツアゲだけで済みそ うにないんですよね」
「なんですって?」
「高速を下りて少し過ぎたあたりに――俺、見たんですよ。いわくありげにたまってる連 中を」
「どういうことなの?」
「俺が今日のパーティーに遅れた理由をまだ言ってませんでしたよね。この車を預かって くれてた俺の友人ってのが実はモーターショップのオーナーやってまして、俺に耳打ちし てくれたんです。この週末のうちにH市内でひと騒ぎあるって」
「ウチの生徒にその手のシュミのある子はいないはずだけど?」
「直接にはね…」
 山本はちょっと顔をしかめた。言葉を選んでいるふうである。
「このへんで一番のグループがここんとこモメてんだそうです。ずっとヘッドやってた奴 が抜けるとかで…。それに付け込んだのが周辺の二番手組で、まあ言わばこの地域で血で 血を洗う抗争が起きてるんですよ」
「早く話をつなげてちょうだい」
 京子は気が長いほうではなかった。時速120kmを超している時にはなおさらであ る。
「オリンピックですよ。奴ら、ハクをつけるのに、話題の高校生オリンピック代表に目を つけたんです」
 京子の頭に一気に灯がともった。
「日向くんたちに何をしようって言うの!」
 いろいろあったがともあれ晴れてソウルに赴くこととなった高校生ばかりのサッカー日 本代表チームは、格好の話題提供者として本番前から盛んにマスコミを賑わせていた。彼 女の東邦からも3名が名を連ねている。
「いえ、ウチじゃないんです」
 山本は少しばかりの良心の呵責を感じつつ言葉を継いだ。
「武蔵のフライング・スウィーパー…」
「松山くん!」
 京子が叫ぶ。
「どうしてあの子が…!?」
「松山自身はこっち来る以前から一切どんなグループとも関わったことはないはずです。 彼の場合、バイクは単なる気分転換、リフレッシュのためだってことですから」
「じゃあ、どうして暴走族の勢力争いなんかに巻き込まれなくちゃいけないの…」
「それがどうもよくわからなくて…」
「もうイヤよ!」
 京子はすかさず叫んだ。
「私、あの4つ子に関わるのはもう金輪際お断り!」
「――誰だってそうですよ」
 山本も口の中でつぶやいた。ジャカルタでの一件はともかく、東邦を大パニックに陥れ た半年前のあの事件は、彼とて一生記憶の底に閉じ込めておきたい代物だったのだ。

















「…あれぇ?」
 山本が目を覚ました時、京子は鏡の前できゅっと口紅を引き終えたところだった。
「どうしたんです、こんなに早く」
 ベッドから半身を起こしかける山本にちらりと目をやって、京子はテーブルの上のキー をつかんだ。
「出かけてくるわ、武蔵野まで」
 山本はぎょっとして、一気に目が覚めたようだった。
「さっき連絡があったのよ、三杉くんから」
「な、何のです…?」
「あなたが言ってたことと、どうやら関連がありそうね」
 あわてて身支度をしようとする山本に、京子は手を振って見せた。
「あなたは残っていて。それと、今日のアポイントメントは全部キャンセルしておいて ね」
 昨夜、東邦登山ハイウェイ始まって以来の猛スピードでここ東邦職員寮まで乗り付けら れたフェラーリが、そのまま再び下界に降りて行く。その音を窓越しに聞きながら、山本 は事態をもう一度頭の中で整理しようとした。
「三杉から、だって…?」
 好むと好まざるにかかわらず、事態はどんどん有り難くない方向へ転がっているようだ った。









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