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深夜近くの国道を西へ向かうダークシルバーのフェラーリ412。
東邦学園理事の小泉京子は同学園職員の山本和久を助手席に乗せて黙りこくったままヘ
ッドライトの先を見つめていた。時折すれ違う対向車のライトが車内の空間を貫きながら
過ぎて行く。
「ちょっとごめんなさい…」
京子はステアリングを切って車を脇に寄せた。その顔には何か思い詰めたような硬い表
情が浮かんでいた。
「どうかしたんですか、京子さん」
「いえ、何でもないわ。…運転代わってくださる?」
「それはいいけれど…」
山本はいぶかしげに京子の顔を覗き込んだ。京子はそれに気づくと視線をさえぎるよう
に微笑を浮かべた。
「大丈夫。疲れたんじゃないの。ただちょっと…」
「ただ…?」
「ねえ、和久さん」
京子の声にどこかいらだちのようなものがある。
「私、やっぱり駄目。…やっぱりあなたと結婚できないわ」
山本は目を見開いた。しばし沈黙し、それから諦めたような笑みを見せる。
「さすがに飽きましたか」
「和久さん…」
京子は怒ったように山本を振り返ると、右手を伸ばしてその腕に触れた。
「違うわ。飽きたのはあなたのほうじゃないの。あなたってばプロポーズさえしてくれて
ないのよ。知ってた?」
「変ですよ、京子さん。そんなにからんだりして」
たしなめるような山本の口調に、京子の目がかっと炎を宿した。
「私、酔ってなんていないわよ。誰がからんでるのよ。あなたみたいなからみ甲斐のない
人はいないわ。私、怒ってるのよ。あなたが怒らないから、だから私が怒ってるの!」
山本は困った顔で京子を見つめた。
「ええと、プロポーズしていないのは事実です。でも、既に婚約している相手にプロポー
ズするという話はあまり聞きませんよ」
「…そうね、必要ないからしないのね。それとも本当はもう投げ出したいからなんでしょ
う。こんな、家同士で決めた政略結婚なんて!」
「ねえ、京子さん」
山本はため息をついた。つかまれた左腕をずらして京子のほうにまっすぐ向き直る。
「俺はね、あなたがそうやって仕事に打ち込んでいる姿が何より好きなんです。万年婚約
者だろうと、これが夫の肩書きに変わろうと、自分がその特等席にいるんだってプライド
はずっと持ってられると思ってるんですがね」
「…随分まわりくどい口説き文句だわね」
「ストレートなほうがいいんですか?」
ふてくされたようにシートに戻しかけた体を逆に引き寄せられて京子はどきりとする。
が、あっと思った時にはもう山本の両腕の中にいた。
「和久さん…?」
声を出そうとする前に唇が重なった。京子はゆっくりと目を閉じた。闇が流れる。い
や、流れているのはライトだろうか。
「リンゴのカケラは取れましたか?」
長い沈黙の後、唐突に問われて、京子は驚いて顔を上げる。山本は笑顔を見せて自分の
喉のあたりを指差していた。
「白雪姫の毒リンゴですよ。今夜のパーティで、俺がいない間に食べちゃったんでしょ」
京子の耳にグラスを合わせる軽やかな響きが蘇ってきた。きらびやかなホールとさざめ
く声――。口にした時にはなんでもなかった毒が、おそらく徐々に彼女を苦痛に陥れたの
だ。
「――とっくに免疫ができてると思ってたのよ。でもさすがに今夜のは効いたわ」
京子は小さくため息をついた。優雅な会話、にこやかな社交辞令の中に容赦なく潜んで
いる鋭い刃先…。それは彼女の属する社会のごく日常的な構成物のはずだった。完璧な帝
王学教育を受け、またそれを完璧にこなし吸収してきた彼女にも、やはりアキレスのかか
とはあったのだろうか。
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