逆襲のスノーホワイト    2
















 東邦学園の職員寮は通称西棟などと無粋な名前で呼ばれてはいるが、首都圏の地価の高 騰とはまるで無縁な敷地面積と最新の設備を誇る実に優雅な代物であった。仙人境に地価 などないと言われればそれまでだが、23区内にでも持って来れば軽く億ションとなるは ずで、これを気前よく独身寮に当ててしまうのだからスケールが違う。家庭を持つ教職員 もその大多数が単身赴任を強いられているだけに――かの北詰誠氏もそうであった――そ の代償という意味もあったに違いない。
 山本和久の実家も渋谷区の緑地面積に大きく貢献しているご立派な家屋敷を誇っていた が、そちらは兄夫婦が手抜かりなく管理しているはずだったし、中等部入学から数えても はやこの山暮らしのほうが長くなってしまった昨今では、この寮がまさに彼のホームグラ ウンドなのだった。
「もうすぐ6時か…」
 京子の機能第一主義をいささか反映しすぎの室内を見回して山本は無意識にため息をつ いた。
「俺の部屋に戻るとすっか…」
 ドアノブにてをかけようとしてはっとする。
「――!?」
 がばっとドアを押し開けた山本の視界をさっと人影が横切った。
「こらっ! なぜ逃げる、反町!」
 外廊下の柱の陰から、へへへと照れ笑いをしながら現われたのは、毎度見慣れたサッカ ー部の芸人FW、反町一樹である。
「どうやって入ったんだ…?」
 自然に声が低くなる。なにしろこの西棟はフルオートセキュリティシステムを導入して いて、所定の磁気カードがない限り建物に立ち入ることさえできないはずなのだ。
「いやー、ちょっとヒマつぶしにマスターキーを作ってみたもんで…」
 平然と言ってのける反町の顔を見ながら、山本は思い出してしまった。去年の秋の東邦 大空襲事件の後、京子がふともらしたことがあったのだ。このままいくと東邦は国際的な システム破りの巣になりかねないと…。
「――おまえ、まさか?」
「俺、パズルは手強いのほど好きなんですよ♪」
 好きなのは勝手だ。しかし仮にも日本代表に名を連ねる選手が昼間の密度の高いハード な練習の後(おそらく深夜に)そういう趣味に精出すことが可能だなどと、想像するだけ で背筋が寒くなるではないか。
「それより、こんな所に何の用だ」
「ご心配なく。別に写真芸能誌に売るネタを拾いに来たわけじゃありませんから」
 その人を食った態度をとことん変えようとしない反町の言葉に一瞬ひるみかけた山本だ ったが、ぐっと腹に力を入れ直してあくまで平静を装う。
「なら何だ」
「小泉先生に情報提供しようと思いまして…」
「こんな時間に、わざわざ不法侵入までして?」
「そういう類いの情報なんです」
 山本はピンと来るものがあった。反町もそのつもりらしい。
「――俺が代わりに聞こう」
「三者会談ってわけにはいかないんですか?」
「彼女は留守だ」
「え…?」
 反町が初めて地のままの表情を見せた。ぽかんとした顔で山本を凝視する。
「ついさっき下界に降りてったが…」
「だ、ダメですよぉ!!」
 びっくりするほどの大声だった。山本は一応人目を考えて、急いで反町を中に引き込 む。
「三杉に会いに、って言ってたぞ」
「淳が…?」
 反町の表情がまた変化した。
「――抜け駆けしやがったな」
 喜怒哀楽を常にはっきり表に出す(出しすぎる?)タイプに思われがちな反町だが、そ こに相応の演技力が加わるだけに、その思考回路を外から測ることは実際非常な困難を伴 う。武蔵の、いや代表チームの頭脳と言われる三杉淳と比するなら、彼が構築する頭脳で あるのに対し、反町は完全に行動のための頭脳だと言えるだろう。だが、常識と言う点で は――その行動で見る限り意外でしかないが――三杉を上回るかもしれない。実際、反町 の奇矯さというのはあくまで常識を意識した上でのものなのだ。ショーアップされた常識 とでも言うのだろうか…。まあ、なんにせよはた迷惑であることに変わりはないが。
「――あのな、反町」
 ゆっくりと、山本が口を切った。
「まさかおまえ達、またここに爆弾やらヘリやら落とす相談をまとめてるって言うんな ら、俺にも考えがあるぞ」
「まーたまた、せんせってばぁ!」
 大ウケにウケて反町が山本の背中をばんばんとどやした。
「俺みたく善意のカタマリの人間がそんなマネするわけありませんよぉ。淳じゃあるまい し…」
 余計に不審の目つきになった山本にも頓着せず、反町はくすくす笑った。
「実際昨夜は賢明でしたよ、先生。まさか当の小泉理事があそこへ通りかかるとは連中も 思ってなかったでしょうからね」
「――!?」
 絶句する山本の顔をちらりと見やってから、反町はそばのソファーに勝手に腰を下ろ す。
「あいつらを刺激するのはまだうまくないですよね。肝心の『背後関係』が姿を見せるま では」
「反町…」
 その場にいたような顔でどんどん話を進められても答えに窮する。どうやって知ったか より、どこまで知っているのか、である。カマをかけていないとは限らないからだ、この 四つ子の場合。
「そんな露骨に警戒しないでくださいよぉ。俺たちこれでも情報網にはそれなりの苦労を してんですから」
 反町はあくまで屈託がない。
「幸運だったのは、小泉先生自身があの場で何の疑問も持たずに先生の言葉に従ったって ことです。珍しく素直な心理状態にあったと見えますね…」
「――俺にもプライバシーはあるぞ」
「ふーん、そうなんですか?」
 仮にも朝帰りの現場で出くわした以上、空しい会話であった。しかしめげないAB型、 山本は反町の冷やかしを頭から無視して、立ったまま睨み下ろした。
「連中についちゃ、おまえ達のほうが情報を持ってるようだな、反町」
「声を掛けられたのは光ですからね」
 反町は当然という顔である。トラブルを共同処理するシステムが定着しているらしい。 岬くんのおかげかな。
「形だけでも仲間ということにしておけばグループの格は上がる。サッカーだろうが何だ ろうがやつらは知ったこっちゃないでしょうけど、オリンピックとなれば話は別でしょ。 やつらから見れば今やマスコミのスターだ」
「マスコミの餌食とも言うがな」
 なにしろ主役たちが今回の騒ぎをあくまで傍観している以上、被害はその周辺が一手に かぶることになる。とりわけ取材攻勢の最後の防波堤にされている学校関係者にとって、 疫病神がどちらなのか、判断の難しいところだろう。
「いーんですよ。俺たち、これでサッカーが少しでもメジャーになるなら、人寄せパンダ もいといませんから」
 慰めになっていない。
「ま、要は鼻先にぶら下がったうまそうなエサなんです。ちょっとちらつかせれば短絡的 な連中が食いつかないはずないですからね」
 暴走族の勢力争い。山本は昨夜京子にそう説明した。それは間違いではない。だが、問 題は話がそこで終わらないということだ。反町の語尾にもそのニュアンスが込められてい る。
「ちらつかせた奴、か…」
「そっちは先生の情報を当てにしたいですけど」
 山本は組んでいた手を下ろした。どこまで手の内をさらすか互いに探り合っている場合 ではない。山本もここで直接的な話法に切り替える。
「松山を誘ったグループの背後にいるのはその筋ではけっこう名の通ったイベント屋だ。 しっかり『バックアップ』も確保してあるらしい」
「でー、先生がそこまでムキになってるってことは、小泉理事に何か影響のある要素があ るってことか。その『バックアップ』あたりかな? 先生も大変ですよねぇ」
 他人事みたいに言わないでほしいものだ。おとなしく深窓の令嬢をやっていてくれるな らともかく、それどころが自ら飛び回ってはトラブルを呼び込んでくるのが趣味という婚 約者なのだ。そのガードとなればはっきり言って寿命をすり減らす以外に何の役目がある だろう。反町に指摘されるまでもない。
「今までのとこ、小泉理事に直接接触のあった形跡は?」
 山本は首を振った。
「ない。今朝の三杉は別として」
「淳なら大丈夫。小泉さんにちょっかい出すほど世間知らずじゃありません、あいつは」
 あくまでも真面目な会話のできない体質らしい。反町はそのまま立ち上がった。
「じゃ、行きましょ、先生」
「え、どこへ…?」
「その奇特な『世間知らず』の顔を見に、連れてってくれますよね」
「――それはいいが…。おまえ、授業どうする気だ」
 さすがは教師。立場も忘れていない。が、反町は余裕の表情であった。
「先生方はお気づきにならなかったようですけど、東邦学園高等部の人数が約1名多いん です、ここ3日間」
「何だって!?」
 反町はわざと悲しそうな顔をしてみせる。
「実のとこ、俺、傷ついてんですよね。反町一樹が二人いることに誰も気づいてくれない んですもん」
「おまえら、いったい…?」
「英語と数学は問題なかったんです、武蔵と教科書が同じで、しかも向こうがかなり進ん でいたらしくて」
 事件はまず物理の時間に起こった。何の気なしに「反町」を指名した教師はその返事に 絶句したのだ。
『そんなの、わかりません』
 いや、返事自体にはさほど問題はなかった。その態度である。ふてくされた、とまでは 言わないが、あまりに堂々と胸を張って答えられると反応に窮するではないか。前の週に 懇切丁寧に説明しておいた練習問題だったのに。
「――大体、あれで気がつかないなんてあんまりですよ」
「そういうことは、起こりうる状況を前提にして言うもんだ」
 人が言うほど瓜二つとは決して思っていない「四つ子」である。ただそこに悪意という ものが少なからずあるわけで。
「東邦の教室に武蔵の生徒が座ってるなんてことは普通の人間は思わないんだ!」
「先生は、どっち?」
「……やめろ」
 漫才をしている場合ではない。山本は3年生の授業を担当していなかったことを密かに 感謝しながら息を吸い込んだ。
「で、松山に代役やらせておいておまえは合鍵づくりに精出してたってのか」
「まさかぁ。俺、これでも大変だったんですよぉ。淳はなかなか手の内見せてくれない し、情報収集ばかりにこき使われるし」
 その先の話は聞きたくなかった。握った拳がふるふると震え始める。
「俺はな、なるべくなら京子さんにも知らせずに穏便に始末しようとずっと骨を折ってき たんだ。それをおまえらは楽しそうにまぜっかえしに来やがって…!」
 が、反町は心外そうな顔をしただけだった。
「どうしてですか? 俺たちもそれは同じですよぉ。俺たちだってオリンピックには出た いですもん」
「おまえらはおまえらで勝手にやれ」
 山本は根暗く目を上げた。
「――俺はおまえたちより京子さんが大事だ」
「それ、建前ですか?」
 建前の通じる相手なら苦労はないのだ。














「お呼びたてしてすみませんでした」
 助手席に乗り込んだ三杉は、ハンカチを出して濡れた髪を押さえた。今ちょうど降り出 した雨が道路を黒く塗りつぶし始めたところだった。
「こんな時間に面会を申し込むからにはそれなりの訳があるんでしょうね」
 三杉が手で合図したのでそのまま高速に乗る。都心に向かう車の列が見事に数珠繋ぎに なって、ほとんど高速の意味をなさないのはいつものことだ。
「もちろん、ご説明はしますよ」
「正直な話なら聞くわ」
 京子はギアを入れながらきっぱりと言った。制服姿の三杉は、振り返ってにっこりす る。
「信用ないんですね」
「あると思ってたの」
 あっさり決めつけられてさすがの三杉も苦笑した。直接こうして一対一で話す機会はめ ったにないが、やはり無意識に身構えてしまうのは、この切れ味のいい女史の口調や声に 彼がもっとも苦手としている少年を連想させるものがあるせいだろうか。
「で、お願いしていたものはご持参いただけましたか」
「…持って来たわ」
 京子の声に不満が浮かぶ。さっそく話をはぐらかされたのだから無理もないが。
「私とデートでもしようっていうの」
「僕のエスコートではご不満ですか」
 京子はきゅっと唇を引き締めた。この少年がこういう応対しかできないというならしか たがない。何より、彼女が大事にしている黄金世代の一員なのだ。これくらいの手応えは ないと困る、と考えるべきか…。
「とっても珍しい場所へご案内できると思いますよ。でもその前に着替えをお願いしま す。ここに部屋がとってありますからどうぞ」
 三杉の案内で着いた先は緑の外苑を背景にした国際級ホテルだった。京子は眉を寄せ る。一体何を始めようというのか。
 三杉は車を降りると、ドアマンに京子から受け取ったフェラーリのキーを預けた。レセ プションには軽く会釈しただけでロビーを通る。
「未成年者が相手だと、女でも罪に問われるのよ、知ってる?」
「僕は今月で18になりますよ」
 他人に聞かれるとかなり危ない会話を乗せながら、エレベーターは最上階に着いた。客 室係が待っていて二人を部屋まで案内する。どう考えても並の高校生相手の待遇ではな い。もっとも、確かに並の高校生ではないが。
「VIPね、完全に。あなたここの株主にでもなってるの?」
 二部屋続きのスイートを奥のベッドルームまで入る。京子のスーツケースを下げてつい てきた三杉はそれを無造作にベッドに置くと、皮肉交じりの冗談にごく真面目に答えた。
「僕は招待状をもらってますから」
「あのね…」
 訳もわからないままペースに乗せられて嬉しい人間はいない。何よりそんな自分に腹が 立ち始める。言いかけた言葉も飲み込んで、京子はぷいと横を向いた。クローゼットの扉 の姿見が彼女の姿を映し出している。
『どうしたんです、あなたらしくもない…』
 昨夜の山本の言葉がふと耳元に響く。京子は小さく息を吸い込んで、さっと三杉を振り 返った。
「着替えるから出ていてちょうだい。ただし、時間がかかるわよ」
「わかりました。ごゆっくりどうぞ」
 三杉は静かに微笑して隣室に戻って行った。京子はスーツのジャケットを脱いでブラウ スのボウタイをほどき、もう一度鏡の中の自分を見た。
「私らしくない、か…。ほんとに、そうみたいね」
 窓の外、東京の街は灰色の雨のカーテンに遮られて輪郭のない無秩序な集合体になって いた。
「――そう怒るなよ。じゃ、また後で連絡する」
 受話器を置いたのと、ドアノブが回る音がしたのとが同時だった。顔を上げるとドアの 前に京子が立っていた。
「お邪魔だった、三杉くん?」
「いいえ、もう終わりました」
 ソファーから立ち上がった三杉はフォーマルなディナージャケット姿になっている。振 り返って目を見開き、返事にわずかな間ができた。
「…意外と早かったですね」
「これでよくって?」
 イブニングドレスの裾を滑らせるようにして京子が歩いて来た。鮮やかな赤のシルクシ フォンが体の線にぴったりと沿っている。大胆にカットされた胸元にはコスチュームジュ エリーの大ぶりなアクセサリーが光っていた。
「一番刺激的なの、ってご注文だったけど?」
「これは……僕ではまだまだ修行不足ですね」
 三杉はため息をついた。華やかなだけでなく、威厳、に近い気迫がこの女性をいっそう 際立たせるのだ。
「あら、冗談じゃないわ。あなたこそその年齢でそういうフォーマルが体になじんでてい いと思ってるの。おとなしく代表ユニフォームでいてくれればいいものを…」
「どうも…」
 三杉はくすっと笑いを漏らした。それから京子の手元に目をやる。
「なあに?」
「――小泉さんも6月生まれなんですね」
「あ、ええ」
 京子は左手の指輪に目を落として答えた。
「自分で自分に買ったプレゼントよ。最悪だわ」
「見事ですね」
 京子の許可を得てその手をとり、指輪をじっくりと眺める。
「黒真珠、ですか。これほどの大きさのは初めて見ます」
「ああ、そう言えばあなたも6月生まれなのね」
「ええ、それに光も」
 三杉は微笑した。その名を口にする時、普段はなかなか見せない年齢相応の少年っぽさ が一瞬浮かんだことに京子は驚く。
「松山くんは――」
 京子はそんな三杉の反応を確かめるように言葉を切った。
「聞いた話だけど、迷惑なスカウトを受けてるんですってね。今日の『これ』もその件と 関係あるのね」
「そうですね、ぜひ小泉さんの力が必要だったものですから」
 三杉は部屋の時計にちらりと目をやってから、京子をドアへと導いた。廊下をさっきと は逆に進み、別のエレベーターの前に立つ。
「こんな朝からイブニングドレスだなんて常識を疑うわね」
「いいんです。どうせ非常識なパーティですよ」
 憎たらしいほど平静とはこういうことを言うのか。
「肝心の松山くんを一人放っぽっといて大丈夫なの?」
「そんな危険なことはさせませんよ。彼はちゃんと安全な場所にいます」
「安全な…?」
 三杉の目がいたずらっぽく光った。京子は嫌な予感を覚える。
「…まさか?」
「ええ、猛虎にお守りしてもらってますから心配ありません。それに東邦は天然の要塞で すし」
 誉めてもらってもあまり嬉しくない。着いたエレベーターに乗り込みながら京子はちら っと三杉の顔を見上げた。
「あの二人を一緒にしておいて無事に済むと思って?」
 変な意味ではない。もちろん。三杉は小さく笑ったが、その返答は閉じた扉の向こうで 見る見る降下して行った。
 しかし、これに限って言えば、京子の予想は大当たりとなってしまったのである。










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