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東邦学園の職員寮は通称西棟などと無粋な名前で呼ばれてはいるが、首都圏の地価の高
騰とはまるで無縁な敷地面積と最新の設備を誇る実に優雅な代物であった。仙人境に地価
などないと言われればそれまでだが、23区内にでも持って来れば軽く億ションとなるは
ずで、これを気前よく独身寮に当ててしまうのだからスケールが違う。家庭を持つ教職員
もその大多数が単身赴任を強いられているだけに――かの北詰誠氏もそうであった――そ
の代償という意味もあったに違いない。
山本和久の実家も渋谷区の緑地面積に大きく貢献しているご立派な家屋敷を誇っていた
が、そちらは兄夫婦が手抜かりなく管理しているはずだったし、中等部入学から数えても
はやこの山暮らしのほうが長くなってしまった昨今では、この寮がまさに彼のホームグラ
ウンドなのだった。
「もうすぐ6時か…」
京子の機能第一主義をいささか反映しすぎの室内を見回して山本は無意識にため息をつ
いた。
「俺の部屋に戻るとすっか…」
ドアノブにてをかけようとしてはっとする。
「――!?」
がばっとドアを押し開けた山本の視界をさっと人影が横切った。
「こらっ! なぜ逃げる、反町!」
外廊下の柱の陰から、へへへと照れ笑いをしながら現われたのは、毎度見慣れたサッカ
ー部の芸人FW、反町一樹である。
「どうやって入ったんだ…?」
自然に声が低くなる。なにしろこの西棟はフルオートセキュリティシステムを導入して
いて、所定の磁気カードがない限り建物に立ち入ることさえできないはずなのだ。
「いやー、ちょっとヒマつぶしにマスターキーを作ってみたもんで…」
平然と言ってのける反町の顔を見ながら、山本は思い出してしまった。去年の秋の東邦
大空襲事件の後、京子がふともらしたことがあったのだ。このままいくと東邦は国際的な
システム破りの巣になりかねないと…。
「――おまえ、まさか?」
「俺、パズルは手強いのほど好きなんですよ♪」
好きなのは勝手だ。しかし仮にも日本代表に名を連ねる選手が昼間の密度の高いハード
な練習の後(おそらく深夜に)そういう趣味に精出すことが可能だなどと、想像するだけ
で背筋が寒くなるではないか。
「それより、こんな所に何の用だ」
「ご心配なく。別に写真芸能誌に売るネタを拾いに来たわけじゃありませんから」
その人を食った態度をとことん変えようとしない反町の言葉に一瞬ひるみかけた山本だ
ったが、ぐっと腹に力を入れ直してあくまで平静を装う。
「なら何だ」
「小泉先生に情報提供しようと思いまして…」
「こんな時間に、わざわざ不法侵入までして?」
「そういう類いの情報なんです」
山本はピンと来るものがあった。反町もそのつもりらしい。
「――俺が代わりに聞こう」
「三者会談ってわけにはいかないんですか?」
「彼女は留守だ」
「え…?」
反町が初めて地のままの表情を見せた。ぽかんとした顔で山本を凝視する。
「ついさっき下界に降りてったが…」
「だ、ダメですよぉ!!」
びっくりするほどの大声だった。山本は一応人目を考えて、急いで反町を中に引き込
む。
「三杉に会いに、って言ってたぞ」
「淳が…?」
反町の表情がまた変化した。
「――抜け駆けしやがったな」
喜怒哀楽を常にはっきり表に出す(出しすぎる?)タイプに思われがちな反町だが、そ
こに相応の演技力が加わるだけに、その思考回路を外から測ることは実際非常な困難を伴
う。武蔵の、いや代表チームの頭脳と言われる三杉淳と比するなら、彼が構築する頭脳で
あるのに対し、反町は完全に行動のための頭脳だと言えるだろう。だが、常識と言う点で
は――その行動で見る限り意外でしかないが――三杉を上回るかもしれない。実際、反町
の奇矯さというのはあくまで常識を意識した上でのものなのだ。ショーアップされた常識
とでも言うのだろうか…。まあ、なんにせよはた迷惑であることに変わりはないが。
「――あのな、反町」
ゆっくりと、山本が口を切った。
「まさかおまえ達、またここに爆弾やらヘリやら落とす相談をまとめてるって言うんな
ら、俺にも考えがあるぞ」
「まーたまた、せんせってばぁ!」
大ウケにウケて反町が山本の背中をばんばんとどやした。
「俺みたく善意のカタマリの人間がそんなマネするわけありませんよぉ。淳じゃあるまい
し…」
余計に不審の目つきになった山本にも頓着せず、反町はくすくす笑った。
「実際昨夜は賢明でしたよ、先生。まさか当の小泉理事があそこへ通りかかるとは連中も
思ってなかったでしょうからね」
「――!?」
絶句する山本の顔をちらりと見やってから、反町はそばのソファーに勝手に腰を下ろ
す。
「あいつらを刺激するのはまだうまくないですよね。肝心の『背後関係』が姿を見せるま
では」
「反町…」
その場にいたような顔でどんどん話を進められても答えに窮する。どうやって知ったか
より、どこまで知っているのか、である。カマをかけていないとは限らないからだ、この
四つ子の場合。
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