エピローグ−2












 空がようやく白みかけた時刻だった。
「ミサキさま。コーヒーをお持ちしました」
「頼んでないよ、ボクは」
「……」
「わかったよ、飲むから! そんな目で見ないでくれる? ほんとにもう…」
 執事は銀の盆を静かにテーブルに置いた。
「ああ、そうだ。ここの電話、もう使えるの?」
「はい、どちらへなりと」
 軽く頭を下げて執事は下がって行った。岬は不機嫌そうに電話に近づいて、国際電話の コードを押す。
 わずかな呼び出し音の後、相手が出た。
『やあ……おはよう、だね?』
「そうだよ。こっちは夜明け。寝てないけど」
『岬くん』
 声がほんのわずかに揺れた。
『やっと、生の声で話せたね』
「うん、別にいいけど」
 ちょっと会話がかみ合いにくい。ずっと一方通行に慣れてしまっていたせいか、別の理 由なのか…。
『マダム・ブルーのオフサイド・トラップにはかからずにすんだね。君をふところに呼び込 もうとゲームメイクをしたようだけれど』
「まあ、ギリギリね」
 サイバーテロ計画は寸前でついえた。岬の秘密のネットワークとデータベースと、そし て岬自身も奪われずにすんだのだ。
『攻撃と守備のバランスが大変だっただろう、岬くんでも』
「人のこと言えるわけ…?」
 こちらで小さくつぶやいたところで岬は現実のことを思い出した。
「テストマッチは? 勝った?」
『もちろん勝ったとも。――翼くんのシュートのおかげでね』
「まさか! 翼くんが出たの?」
 片手でコーヒーをつごうとしていた手がびくっと止まった。
『いいや、翼くんは球拾い。最強の球拾いさ。日向には気の毒だったかもしれない』
 三杉は思い出してくすくすと笑った。
「反町はどうだった? もう必要ないのにボクの役をやったんでしょ? 物好きなんだか ら…」
『彼には必要だったんだよ。それに、翼くんにもね』
「翼くんに…?」
 岬は眉を寄せた。
「どういうこと? 意地悪しないで教えてよ」
『翼くんからの伝言にヒントがあったんじゃないのかい? 機密扱いで僕は読ませてもら えなかったんだが。君がダンジョンの奥から出てくる気になったのも、あれを読んだから なんだろう? ゲームを途中でリタイアして』
 岬に届けられた翼からのメッセージ。それが、あのゲームを介しての最後の通信となっ た。岬は自らを拉致から解放したのである。
「あのゲームにはもともと結末なんてないのさ。これからもずっと未完。だから途中なん てものもない。でも、それだからこそ、ボクはこのゲームが好きなんだ」
『君の趣味は理解しがたいなあ。でもそれはそれで尊重するよ。きっとまたすぐに別のゲ ームの別のダンジョンに籠もってしまうんだろうけどね』
「そしたら、また君がそれをわざわざ引っぱり出しに来るってわけ? ――もうウンザリ だよ」
『なあに、僕ばかりじゃないさ。次は翼くんかもしれないだろう? なにしろ僕は今回で 懲りたからね』
「嘘ばっかり」
 その憎まれ口が、岬の復帰宣言となった。














「ねえ、ピエール、もう少しましな乗り物はなかったの? 君ならスポーツタイプの車で さっと乗り付けてくるかと思ったのに」
 岬は粉屋の麻袋の積まれた上にうつぶせになって、不満を言い続けていた。ピエールは その横に座ってすまなそうに頭を振る。
「そうできたらよかったんだけど、問題は僕がまだ運転免許を取っていないってことだ よ。バスの来る所まではこれで我慢してくれ」
「う…ん」
 岬は自分の腕に顔をうずめて、小さくあくびをした。
「眠いのかい? ずっと眠ってないんだろう、どうせ」
「まあね」
 岬の返事はどことなく投げやりだった。馬車の揺れに合わせて、荷台の彼らも体が上下 に跳ねる。
「ル=ヴォワニー夫人に挨拶しておかなくてよかったのか? あんなに追い詰めておきな がら…」
「あのオバサンを追い詰めるなんてとてもとても。今回の火種の元を一つくらい消したか らってマダム・ブルーにはたいした痛手にはなりっこないさ。世界の時計は動き続けるよ。 歯車をぎしぎし言わせながらね」
 屋敷を去る時も、夫人はとうとう現われなかった。
――アリによろしく。
 コーヒーの盆にあったカードにその言葉だけを残して。
「そうかな。周囲の慌てぶりは今回ただごとじゃなかったよ。警察まであんな無理をさせ て。それだけ君の一撃は彼女にはキツかったんだと思うが」
「そんなことはないよ」
 半ばうわごとのように岬はつぶやく。
「――貪っても、貪るだけ、癒されない。貪ることそれ自体が、癒されないことを自覚し ているんだ」
「ミサキ…?」
 顔は伏せたままで、岬はぱちりと目を開いた。
「でも――、料理は確かにおいしかった。ワインもね」
「ワイン? まさかブルゴーニュかい?」
 ボルドーの人間としてはそこは譲れないらしい。ピエールの目がきらりと光ったように 見えたのは気のせいか。
「いろいろだよ、いろいろ――」
 荷馬車はブルゴーニュの田園を吹き抜ける朝の風の中、なだらかな丘から丘へと続く道 を進んで行く。
「マダム・ブルーはあくまでも組織なんだ。一個人じゃない。生身の人間であることは弱点 にしかなりえない。僕は、その弱点を確かに目の当たりにしたかもしれないけれど。彼女 は強いよ。自分を自分だと見なしていない。生身の人間であることを今までも、これから も拒否し続けるだろう」
 人の命を奪うための産業が、国家を、あるいは世界経済を支えるものとして成立してい る。文化を、歴史を、経済基盤を、そして誇りを守るために、他人のそれを破滅させるこ とを正義だと讃えられる。
 そうしてマダム・ブルーは動き続ける。そんな世界の仕組みを支える存在として。一人の 人間であることをやめ、過去を切り捨て、記憶の底に再び子守唄を封じ込めて。
「……そうか、なんだか君に似た人物なんだな」
「なんだって?」
 ふとつぶやいた言葉に敏感に反応して岬が鋭い目を見せた。自分に似た人間が嫌い、と いうのはピエールも覚えておいたほうがいいだろう。
「あ、い、いや、君はもっとずっと人間っぽいよ、もちろん。頭が良くてサッカーも一流 で、でも時には間違うし失敗もする。泣いたり怒ったり、それにけっこうワガママだし」
「それでほめてるつもりなの」
「ああ、そうとも、ミサキ」
 ピエールは力を込めてうなづいた。
「君は生身の人間だよ。17才の、サッカー好きの少年だ。そうじゃないのか?」
「君って、時々すごくやなやつだね」
「ふふ、君にそう言われるってことは認めてもらってるってことになるかな。嬉しいよ」
 岬の返事はなかった。が、ピエールが覗き込むと、岬はむっとした顔のまま何事かを考 えている様子だった。
「翼くんが、迷子広告を出したんだよ。ボク宛ての、メッセージに。――迷子がいます、 この子の本体を見つけてください、って」
「本体?」
「迷子はボクのほうだと思っていた。でも翼くんは、その迷子を待っている自分のほうこ そが迷子だって言ったんだ。ボクがどこにいて、どこに行こうとしてても問題じゃないん だ。ボクを待っている場所があって、そここそが迷子の本体の、ボクの本体の帰る場所な んだよね」
「ツバサが、君を見つけたいのではなくて――」
「ボクが、翼くんを見つけたかったんだよ。ボクの帰る場所をね」
 ピエールの表情がゆっくりと晴れていった。
「ミサキ、代表に戻るんだな?」
「うん、ソウルを楽しみにしてて。君も応援に来てよね……」
「僕は選手として行く!」
 ピエールはむっとしたように、しかしきっぱりと言った。
「ミサキ…? 眠ったのか?」
 しかし岬の声がだんだん小さくなっていったのに気づいて、ピエールはそっとまた覗き 込んだ。岬は顔を伏せたままうなっている。
「う…ん、やっぱり眠い。でも眠れない――」
「よし、僕が子守唄を歌ってやるよ。これでぐっすり眠るんだ」
 その言葉を聞いたとたん、岬の顔がガバッと現われる。
「やめてよね。ボクは眠いって言ってんだよ」
「だから歌うって言ってるだろ」
「ん、もう……好きにしてくれよ」
 荷馬車の上で、岬はぶつぶつ言いながら揺れている。揺れながら、何か聞き覚えのある ようなメロディを聞いている。フィドラーのフィドルの音色に合わせて。
 岬くん。ここに君の迷子がいる。
――僕はどこにでもいて、どこにもいない。






【END】









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