9章ー4















「おかえり、三杉くん」
「…翼くん?」
 日本オリンピック代表チームの宿舎であるスナヤン・プラザ・ホテルのロビーに、三杉 が姿を見せる。それを見てソファーから立ち上がったのは、一人そこにいた翼だった。
「どうしたんだい、こんな時間に――」
「それ、俺のセリフだよ、三杉くん」
 翼は駆け寄って来ると、両腕で三杉の体をぎゅっと抱きしめた。その存在を確かめるよ うに。
「ごめん、翼くん。心配させてしまったね」
 翼は三杉の胸からぱっと顔を上げた。
「連絡、あったよ。あの二人から」
「えっ、本当かい?」
「うん、松山くんの部屋の電話が急に鳴ってさ、俺たちびっくりしたんだけど…」
 無人の部屋に入ってみると、電話の音はやんで、コンピュータが起動していたのだと言 う。
「で、ゲームの画面が出ていたんだね」
「そう」
 翼はくすっと笑った。それを発見した時の日向の当惑ぶりを思い出したのだ。
「意味がとにかくわからなくてさ、どうしようってことになってとりあえず沢田くんが試 してみてくれたんだ」
 日向が尻込みしたのは、キカイの操作そのものではなく、四つ子が感染るのを嫌がった からに違いない。
「君宛てのメールだったから中は読んでないけど、反町くんと松山くんから、ってわかっ て俺たちやっと安心したんだ。あれってただのゲームじゃなかったんだね」
「そう、一樹の苦心の作さ。ゲームの形はしているけれど、通信ソフトの一種なんだ」
 ちょっと「コワイ」一種だが。
「でも、無事でよかった。連絡のつけようがなくて困っていたんだ。さてはここの電話番 号がわからなくて履歴のアドレスに片っ端から転送したんだな」
「…えーと?」
 普通に納得している三杉を見て、やっぱりこの四つ子のやっていることってわからない ――と翼は再確認したようだ。
「おい!」
 松山の部屋のドアを開けて先に翼を入れたところで、三杉は呼び止められた。振り返る と、照明の落とされた廊下に日向が不機嫌そうに立っている。
「――おまえら、大丈夫なんだな?」
「え?」
「どうせ何言ってもきかねえだろうから言わないがな、俺たちのチームのメンバーとして 信じても、大丈夫なんだな?」
「日向――」
 いささか投げやりな感じで日向はこちらを睨んでいた。
「ああ、大丈夫。僕たちはね、フィールドに立つ僕たちでいつづけるために、こういう寄 り道を少しばかりやってるんだ。それだけだよ」
「迷惑な『それだけ』だな」
 確かに、睡眠を削られるだけでも日向はその迷惑を実感している。
「なあ、三杉。翼はな、どうやら厄介なものをここに持って来ちまったようだぞ。岬にそ そのかされただけじゃなくてな。おまえ、なんとかしてやってくれねえか」
 三杉は一瞬目を丸くしたが、すぐに笑顔に戻った。
「そうだねえ、見せつけられるだけ見せつけられて、その上ライバルに塩を贈るなんて真 似ができるほど僕は寛大じゃないんだけどね」
「バカヤロー」
 それがおやすみの意味だということがわかると、三杉はくすっと笑ってドアを閉めた。
「ねえ、これが岬くん? 岬くんのいる場所なの?」
 部屋に入って行くと、翼はノートパソコンではなく三杉が使っていたほうのパソコンの 前に座って画面をじっと見ていた。そこには岬からの最後のメッセージが3日前から何の 変化も見せずに表示されたままである。三杉は翼の背後に立って、一緒にそれを眺めた。
『僕は大丈夫。この先へは一人で行ける――』
「岬くんからはこれ以外の連絡はないの? これっきりもう戻る気はないってこと?」
「いや、岬くんはこのずっと向こうに行ったきりだけど、もちろん帰って来る。僕たちの ところに帰って来るよ」
 三杉は手を伸ばしてコマンド表示に切り換えた。
「ね、こっちから岬くんに連絡できる? メールみたいに」
「ああ。でも、やりとりはできないよ。だからメールと言うよりは伝言板かな。こっちか らメッセージを書き込んでおけば岬くんがそれを読んでくれる形だ。岬くんから応答はな いから、本当に読んでくれているか自信はないんだけれどね」
「それでいいよ。俺、送っていい? どこに書くわけ?」
 さすがは翼、未知のものでも挑戦はいとわない。文字はキーボードで入力するようにと 教えられて、ぽつ、ぽつと言葉を打ち始める。三杉はその様子をじっと見つめ、それから 自分は反町のノートパソコンに移動した。
 なるほど、メールが届いている。おそらくあちこち寄り道して届いたものだろう。
『こちらは二人ともずぶ濡れになったけどケガなし。今、ミスギ・パシフィックに勝手に お邪魔してます。電話番号覚えてなかったので、東京を経由してアドレス履歴をあさって みました。届いたかな?』
 三杉はそれを読んで苦笑し、自分の手帳で調べた番号をダイヤルした。ジャカルタ市内 にある深夜のオフィスに繋がったはずである。
『淳!? やった、淳だぞ!』
『わーい!』
 電話の向こうは妙に盛り上がっていた。人間、一度極限を見ると開き直った挙句にハイ になってしまうらしい。
「光。なぜそんな所にいるんだい?」
『帰れなかったんだって。ほら、ホテルまでは遠かったし金は持ってないし二人ともびし ょびしょだし、どのタクシーも乗せてくれねえんだ。で、おまえんトコの会社を思い出し てな。あとは顔パス♪』
「君のサバイバル精神には感心するよ」
 三杉はため息をついた。
「で、ずぶ濡れって、まさか爆弾と一緒に飛び込みでもしたのかい?」
『大当たり! 今は濡れてないけどな。ここのオフィスの洗面所をちょいと借りてシャワ ー代わりにしたんだ。服は――おい、これって会社の制服?』
 電話の向こうで確認しているようだ。
『ロッカーのを適当に借りちまった。ははは。一樹は腹が減ったって言うんで、ここの常 備食をいただいております』
「はははじゃないよ、まったく」
 おそらく朝出社してきた社員は、深夜の間に台風が通り過ぎたのを発見することになる だろう。
『淳? 俺だけど』
 電話が代わった。
『太郎ちゃんからメールが来てるよ。見た?』
「えっ、まさか。本当かい?」
 受話器を持ったまま、もう片方の手を伸ばしてキーを叩く。ゲームバージョンのままだ ったので、礼拝堂の窓にとまっているハトの姿になっていた。このハトを中に連れて行 く。
『お城の塔に閉じ込められていたお姫さまは、ついにパワーアップして暗黒魔女に変身し てたんだな』
「一樹…」
 こういうヘビーな事態の時くらい真面目になれないのだろうか。しかも、自分自身の過 去が関わっていることなのに。
『――三杉くん、業務連絡です』
 岬のメールはごく短く、しかも抽象的だった。
『彼女は過去を見ない。でも、子守唄だけは今も歌い続けている。僕はニセモノなのに。 キーワードは、14年前の彼方に隠れたままだ』
「そうか、やっぱり」
『やっぱりって、わかんの? 俺にはさっぱり』
「一樹、君のことじゃないか」
 三杉は苦笑した。
「ル=ヴォワニー夫人は亡くした子供と君を重ねていたんだね、クウェートにいた頃に。 アリっていうのは、その子の名前でもあったんだよ」
 三杉は一度言葉を切った。
「彼女を裏切った恋人は、B国の政府要人となっていた。在インドネシア大使にマダム・ ブルーの協力を吹き込んで今回の偽テロ事件を仕組んだのもこの人物だ。マダム・ブルー の過去が自分に繋がってるなんて夢にも思わずに」
『俺だって夢にも思ってなかったってばー』
「うん、そうだよね」
 三杉は一瞬、今夜の反町の父の見せた表情を思い浮かべた。が、すぐに我に返って手元 のメモに目を落とす。
「その人物から、キーワードの一つは聞き出した。『レラレラレドゥン』――インドネシ アの古い言葉らしい。病院で、その場にいる人たちに確認してみたらみんな知ってたよ。 地元の子守唄の、『ねんころり』みたいな、子供をあやす言葉だったんだ」
『――え、子守唄?』
 反町も驚いた声を上げた。
『アネカんちでおバアちゃんがいつも歌ってたの、そんな言葉を言ってたような…。俺 が、そのクウェートの家でも歌ってもらってたんなら――』
 反町の記憶の底で、遠く響く声があった。ふと思い出して、自分のピアスに指を触れ る。亡くした子供(アリ)と、もう一人の別れる子供(アリ)。ぼんやりとした輪郭が次 第にはっきりと形を取り始め、それが夢うつつに聞いたお祖母さんの歌と重なった。
「一樹?」
『くっそー』
 一度途絶えた反町の声がいきなり弾けた。
『思い出したぜ! 淳、俺が聞いた歌の歌詞だ。最後のリフレインで、その言葉と交互に 繰り返すんだよ。グンドゥルウォ――鬼の名前なんだ。鬼が、自分の子供に歌う子守唄で さ、これ、これに間違いない!』
 その確信に満ちた声に、三杉もうなづく。
「わかった、スペルを調べてすぐに試してみよう」
『うん、急がないと』
 既に動き出しているプログラムだが、岬の何重ものブロックはまだ破られていない。木 馬に隠れた兵士たちはまだその腹の中で身を潜めている状態だ。今なら、マダム・ブルー の手にすべてが支配される前に阻止することができる。
 手早く照会をしておいてから、三杉は問題のファイルに2つのパスワードを試す。
「よし、開いた」
 開いたプログラムは一見して三杉の手に負えるものではなかったが、その解析は急ぐこ とはない。後で岬に委ねればいいだけだ。今はこれを止めることが最優先だった。
「一樹、君のドラゴンがいてくれて、よかった」
 詰めていた息を、三杉は大きく吐き出した。ファイル内のすべての時計が止まる。
 静寂。画面の向こうに訪れた静寂は、まさに平和の静寂だった。双つ身の天使は、見え ない天に飛び去ったのだ。
『――淳? おい!』
 その静寂に真っ先に耐えられなくなったのは松山だったようだ。電話を奪い返して、必 死に呼び掛けて来る。
『いいか、もうおまえ一人で何もかも全部やろうとして無理すんじゃないぞ。岬もいるん だ。あとは全部あいつにやらせろ。おまえは休むんだ、いいな!』
「君こそ。君たちは明日、スタメンだよ」
 三杉は苦笑しながら答えた。
『わかってるさ。俺たちは試合に間に合えばそれでいい。だけど――おまえは絶対眠れ』
 力いっぱい念を押して、松山は電話を切った。スタジアム目指して、これからジャカル タ市内縦断の深夜ウォークでもするのか。
「三杉くん、できたよ」
 翼が背後に立っていた。
「送ってくれる?」
「もちろん。読んでもいいかい?」
「あ、ダメ! ダメだよ、目つぶって送って」
「はいはい」
 目をつぶるまでもなく、翼のメッセージは入力したそのまま秘密の壁に書き込まれたは ずだ。
「岬くん、きっと答えてくれるよね」
「もちろんだよ。こうして僕たちに連絡もくれたんだ。君の呼びかけなら絶対に効き目あ るさ」
「効き目?」
 三杉はただ笑顔を返しただけだった。









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