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「アネカ!」
どこかから聞こえた声に、アネカはびくっと身をすくませた。そしておどおどと周囲を
見回す。
スナヤン競技場と同じ敷地内にある第二スタジアム。ものものしい警備もさることなが
ら、こんな大きなスタジアムに来たことなど実は一度もないのだ。朝早く伝言をもらって
その通りにやってきたアネカだったが、いつ怒鳴られてつまみ出されるかと緊張のし通し
なのである。
「サッカーの試合、だよなあ」
ピッチ内で試合前のウォーミングアップをしている選手たちを見ても、それだけは間違
いない。しかし、広いスタンドにも実はほとんど人はいなかった。アネカは知らないこと
だったが、テストマッチということで一般客にはチケットを販売しておらず、ここに来て
いるのは関係者か招待者だけということになる。合わせて100人足らずがメインスタン
ドの一角にちらほらと座っているが、届けてもらった招待券は、そのメインスタンドの右
手、ロイヤルボックスを斜めに見上げる位置の席だった。
「アネカー、こっちー!」
やはり空耳ではない。しかも聞き覚えのある声。
「う…?」
アネカは、視線をスタンドからその下に落として息を飲んだ。
「ソリマチ!?」
ピッチから出てスタンド下まで駆けて来たジャージ姿の一人の選手が、彼に向かって手
を振り回している。
「しーっ、ダメダメ、アネカ。俺の名前を呼んじゃダメ!」
「はあっ?」
手招きされて最前列まで降りて来たアネカに、反町はにっこりと笑いかけていた。
「来てくれてよかったー。ギリギリになってごめんな、伝言」
「い、いや、それはいいけど…」
呆然と、アネカは反町の姿を眺める。昨日まで一緒に過ごしたあの反町のはずなのに、
緑のピッチの上にいるその姿はまったく別人にしか思えなかった。しかも、そこにいると
いうことは…。
「サッカーの、代表選手…!?」
「うん。応援してって、アネカ。ただし、名前は呼ばないこと。絶対だよっ!」
「い、いや、ちょっと――あ〜っ!」
まだまだ聞きたいことだらけだったのに、反町はさっさと走って行ってしまった。向こ
うでそれを待ち受けていた別の選手が何やら反町と言葉を交わし、こちらを振り仰ぐ。そ
してアネカを認めると元気よく手を振ってみせた。もちろん、こっちの顔にも見覚えがあ
ってアネカは絶句する。
「き、昨日の木登り少年!」
そう、アネカのベチャに同乗して、一緒に屋台の物売りにもなった、もう一人の反町。
ウォーミングアップの時間は終わり、選手たちはいったんベンチに集合して行った。
それを見送って立ち尽くしているアネカに、さらに背後から声が掛けられた。
「おはようございます。アネカさん、でしたね」
「あっ…」
またも言葉を失う。スタンドの階段を下りてきたのは、こちらも同じ代表ジャージを着
て、そしてその顔も同じ――。
「何から何までお世話になりました。お祖母さんはお疲れじゃなかったですか?」
穏やかに微笑むその相手は、おそらく昨夜、タクシーで現われた正装の少年。アネカに
とっては3人目の反町だった。
「い、いや、祖母は大丈夫、です」
つられてしまって口調が固くなるアネカだった。
「それは何よりです。よろしくお礼を伝えてください。おかげで一樹も試合に間に合いま
した」
「――えーと、でも試合なんて、大丈夫なんですか、ソリマチは」
アネカがそう言うのも無理はない。ベッドから出られるようになったのは昨日のことな
のだ。しかも外に出ていきなりの昨夜の騒ぎ。
「さあ、大丈夫とは言えないかもしれませんねえ。明け方に二人揃ってホテルに帰ってき
て、ギリギリまで眠っていたようですが」
三杉は苦笑する。
「ある意味、罰ゲームみたいなもんですから。一樹にはいいウォーミングアップになって
くれると思いますよ」
そ、そうなのか?
「ああ、そうだ、この上の人、見えますか?」
三杉が指したのはガラス張りブースになっているロイヤルボックスだった。厳重な警備
陣に囲まれて、アラブ服の正装の男性がその中心に見える。
「今日の試合の相手国の皇太子です。サッカー協会の会長でもあるんですが。その隣にい
る大使夫妻が、お祖母さんの当時のお勤め先だったんですよ」
「え…ええええっ!?」
ちらっと見えた黒衣の女性が、こちらに小さく手だけをひらひらと振ったように思えて
アネカは我を失いそうになる。
「ああ、そろそろキックオフですね。じゃあ、ごゆっくり。大会にもご招待しますから、
ぜひお祖母さんも一緒にいらしてください」
アネカを残して、三杉はスタンド通路に戻る。と、そこに一人の少女が三杉を待ち受け
ていた。
「あら、おはようございます、三杉さん」
朝と言うにはもう陽は高く昇り、もはや爽やかとは言えない湿度の中、こちらは本当に
爽やかな顔をして、少女はにっこりと三杉に笑いかけた。
「覚えてらっしゃいません? 反町葉月です」
くるくるとよく動く目が三杉を見上げている。
「君、どうしてここに…?」
「父さんに無理やりくっついてきたんです。父さんったら昨日は着いた途端に取材に出ち
ゃうし、私はほったらかし。今朝も早くから飛び出してって、私一人でここに来るの大変
だったんですよぉ」
いや、親もさることながら、娘のほうも行動力では負けていないと思われる。
三杉は自分の席へと葉月を案内した。そこに座っていた翼が、紹介されて興味深そうに
見上げる。
「反町くんの、妹さん?」
「初めまして、大空翼さん。おケガはもういいんですか?」
葉月ははきはきと挨拶して手を差し出した。
「私も応援に来たんです。だって岬さんが久し振りに代表に戻るって聞いたから」
「えっ?」
なんと耳が早い。と思ったら、葉月は持っていたタブロイド雑誌を二人に示した。トピ
ックスのページに小さく囲み記事があって、この予選では翼はやはり出場を見送ること、
そして岬が復帰することが速報として書かれていた。
「そうか、登録メンバーが発表されたのをもう報道してるんだ…」
日本のサッカージャーナリズムも思いのほか健闘しているようだ。三杉はその記事と葉
月を困ったような顔で見比べ、そしてフィールドに視線を投げる。
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