エピローグ−1












「アネカ!」
 どこかから聞こえた声に、アネカはびくっと身をすくませた。そしておどおどと周囲を 見回す。
 スナヤン競技場と同じ敷地内にある第二スタジアム。ものものしい警備もさることなが ら、こんな大きなスタジアムに来たことなど実は一度もないのだ。朝早く伝言をもらって その通りにやってきたアネカだったが、いつ怒鳴られてつまみ出されるかと緊張のし通し なのである。
「サッカーの試合、だよなあ」
 ピッチ内で試合前のウォーミングアップをしている選手たちを見ても、それだけは間違 いない。しかし、広いスタンドにも実はほとんど人はいなかった。アネカは知らないこと だったが、テストマッチということで一般客にはチケットを販売しておらず、ここに来て いるのは関係者か招待者だけということになる。合わせて100人足らずがメインスタン ドの一角にちらほらと座っているが、届けてもらった招待券は、そのメインスタンドの右 手、ロイヤルボックスを斜めに見上げる位置の席だった。
「アネカー、こっちー!」
 やはり空耳ではない。しかも聞き覚えのある声。
「う…?」
 アネカは、視線をスタンドからその下に落として息を飲んだ。
「ソリマチ!?」
 ピッチから出てスタンド下まで駆けて来たジャージ姿の一人の選手が、彼に向かって手 を振り回している。
「しーっ、ダメダメ、アネカ。俺の名前を呼んじゃダメ!」
「はあっ?」
 手招きされて最前列まで降りて来たアネカに、反町はにっこりと笑いかけていた。
「来てくれてよかったー。ギリギリになってごめんな、伝言」
「い、いや、それはいいけど…」
 呆然と、アネカは反町の姿を眺める。昨日まで一緒に過ごしたあの反町のはずなのに、 緑のピッチの上にいるその姿はまったく別人にしか思えなかった。しかも、そこにいると いうことは…。
「サッカーの、代表選手…!?」
「うん。応援してって、アネカ。ただし、名前は呼ばないこと。絶対だよっ!」
「い、いや、ちょっと――あ〜っ!」
 まだまだ聞きたいことだらけだったのに、反町はさっさと走って行ってしまった。向こ うでそれを待ち受けていた別の選手が何やら反町と言葉を交わし、こちらを振り仰ぐ。そ してアネカを認めると元気よく手を振ってみせた。もちろん、こっちの顔にも見覚えがあ ってアネカは絶句する。
「き、昨日の木登り少年!」
 そう、アネカのベチャに同乗して、一緒に屋台の物売りにもなった、もう一人の反町。 ウォーミングアップの時間は終わり、選手たちはいったんベンチに集合して行った。
 それを見送って立ち尽くしているアネカに、さらに背後から声が掛けられた。
「おはようございます。アネカさん、でしたね」
「あっ…」
 またも言葉を失う。スタンドの階段を下りてきたのは、こちらも同じ代表ジャージを着 て、そしてその顔も同じ――。
「何から何までお世話になりました。お祖母さんはお疲れじゃなかったですか?」
 穏やかに微笑むその相手は、おそらく昨夜、タクシーで現われた正装の少年。アネカに とっては3人目の反町だった。
「い、いや、祖母は大丈夫、です」
 つられてしまって口調が固くなるアネカだった。
「それは何よりです。よろしくお礼を伝えてください。おかげで一樹も試合に間に合いま した」
「――えーと、でも試合なんて、大丈夫なんですか、ソリマチは」
 アネカがそう言うのも無理はない。ベッドから出られるようになったのは昨日のことな のだ。しかも外に出ていきなりの昨夜の騒ぎ。
「さあ、大丈夫とは言えないかもしれませんねえ。明け方に二人揃ってホテルに帰ってき て、ギリギリまで眠っていたようですが」
 三杉は苦笑する。
「ある意味、罰ゲームみたいなもんですから。一樹にはいいウォーミングアップになって くれると思いますよ」
 そ、そうなのか?
「ああ、そうだ、この上の人、見えますか?」
 三杉が指したのはガラス張りブースになっているロイヤルボックスだった。厳重な警備 陣に囲まれて、アラブ服の正装の男性がその中心に見える。
「今日の試合の相手国の皇太子です。サッカー協会の会長でもあるんですが。その隣にい る大使夫妻が、お祖母さんの当時のお勤め先だったんですよ」
「え…ええええっ!?」
 ちらっと見えた黒衣の女性が、こちらに小さく手だけをひらひらと振ったように思えて アネカは我を失いそうになる。
「ああ、そろそろキックオフですね。じゃあ、ごゆっくり。大会にもご招待しますから、 ぜひお祖母さんも一緒にいらしてください」
 アネカを残して、三杉はスタンド通路に戻る。と、そこに一人の少女が三杉を待ち受け ていた。
「あら、おはようございます、三杉さん」
 朝と言うにはもう陽は高く昇り、もはや爽やかとは言えない湿度の中、こちらは本当に 爽やかな顔をして、少女はにっこりと三杉に笑いかけた。
「覚えてらっしゃいません? 反町葉月です」
 くるくるとよく動く目が三杉を見上げている。
「君、どうしてここに…?」
「父さんに無理やりくっついてきたんです。父さんったら昨日は着いた途端に取材に出ち ゃうし、私はほったらかし。今朝も早くから飛び出してって、私一人でここに来るの大変 だったんですよぉ」
 いや、親もさることながら、娘のほうも行動力では負けていないと思われる。
 三杉は自分の席へと葉月を案内した。そこに座っていた翼が、紹介されて興味深そうに 見上げる。
「反町くんの、妹さん?」
「初めまして、大空翼さん。おケガはもういいんですか?」
 葉月ははきはきと挨拶して手を差し出した。
「私も応援に来たんです。だって岬さんが久し振りに代表に戻るって聞いたから」
「えっ?」
 なんと耳が早い。と思ったら、葉月は持っていたタブロイド雑誌を二人に示した。トピ ックスのページに小さく囲み記事があって、この予選では翼はやはり出場を見送ること、 そして岬が復帰することが速報として書かれていた。
「そうか、登録メンバーが発表されたのをもう報道してるんだ…」
 日本のサッカージャーナリズムも思いのほか健闘しているようだ。三杉はその記事と葉 月を困ったような顔で見比べ、そしてフィールドに視線を投げる。
「――せっかく来ていただいたんですが、実は岬くんは…」
「いいえ」
 葉月は明るく言った。同じくフィールドを見つめながら。
「ちゃんといるじゃないですか。あそこで、11番をつけて」
 確かに、11番はいた。ミサキ、とユニフォームにも書かれている。始まった試合でゲ ームメイクらしきものもしているが、そちらはもっぱら同じMFに入っている井沢に押し 付けて、自分は攻撃的(オフェンシブ)ハーフとして盛んに攻め上がろうとしていた。な ぜか時々足がもつれるようなシーンも見られるが。
 葉月の言葉に三杉は目を見開く。
「えっ、でも、あれは――」
「岬さんですよ、絶対。確かに出来はイマイチだけど、まあなんとかギリギリ岬さんです よね」
 葉月は可笑しそうにくすくすと笑った。
「ねえ、三杉さん、私って母には似ていないんです。父親似で。そして、兄さんは父さん には似ていなくて母親似。――どういう意味か、わかります?」
「……?」
 唐突な告白に、三杉は戸惑いを見せる。この少女が屈託なく話すだけに。
 互いに子連れ再婚だった反町の父と母。つまり、彼女と反町は血の繋がりはない兄妹と いうことになるはずだ。
「バラバラに暮らしてるけど、うちってとりあえずは似た者家族ってことで、いいと思う んです。そうじゃないですか?」
 葉月はそんな三杉の反応を楽しんでいるようだった。
「じゃあ、一樹と君とは、まさか――」
「ええ、イトコなんです」
 三杉がさっきのなぞなぞの答えに行き着いたのを見て取って、葉月はあっさりと答えを 明かした。――血の繋がった、イトコ!?
 三杉と、そして翼は、反射的にフィールドに目をやり、そしてすぐに葉月に視線を戻し た。葉月は嬉しそうにフィールドを見つめている。左サイドからゴール前に切り込んで行 こうとしてディフェンス相手に競り合っている11番の姿を。
「母と、兄さんのお母さんが姉妹なんです。そっくりなんですよ、これが。兄さんと母が 似ちゃったの、当然ですよね」
 葉月は振り返って三杉を見上げた。
「私の父は私が生まれてすぐに亡くなったんですけど、父さんがちょうど日本に帰国して 来たもので、親戚一同が必死に引き止め作戦をとったらしいんです。再婚っていう。ま あ、籍だけ入れてすぐスペインに仕事見つけて行っちゃったんで、引き止めは失敗でした けどね。母は母で、周囲のプレッシャーに負けてうっかり承知したんだって言ってますけ ど、私の想像では、あれでけっこう一目惚れだったりするんじゃないかって――」
 葉月は唇に指を当てながら、ふふふと含み笑いをした。
「私も一目惚れ体質だから、カンですけど」
「……」
 かわいそうな一樹くん。三杉でもつい同情してしまうほど。
「ねえ、三杉くん」
 そうこうするうちに試合は既に後半。食い入るように戦況を見ていた翼がふと口を開い た。
「あれって、まずくない?」
「え?」
 スコアは1対1。共に決め手を欠く展開だが、相手が守りを固めているせいだけではな く、日本の攻撃も最後の決定機にあと一押しがない。中でも、日向の動きにいつもの切れ が見られないのだ。
「ああ、日向か。あれはコンディションのせいじゃなさそうだ。何か厄介なこだわりでも あって、それを解決できないままになっているんじゃないかな。ねえ、翼くん?」
「え、なに?」
「俺も、同感だ」
 なんと、思いがけないところから声がした。彼らのいるスタンドの真下、ベンチ後方の アンツーカーのところで一人ウォーミングアップをしているジャージの選手。そう、若島 津であった。
「しかも、自分でもそれに気づいてるもんだから、余計に自分にイラついてるんだろう、 答えが出せなくて」
「答えって、まさか、俺のことで…?」
 翼の目がきらりと光ったようだった。突き刺さるような視線が、ピッチの上の日向に向 けられる。
 その時、相手チームに傷んだ選手が出て、プレイを止めるためにわざと大きくクリアボ ールが蹴り出された。ボールはこちら側のラインを大きく越え、スタンドまで飛び込んで 来た。
 翼がそれを両手で受け止める。そして、回収に来た係員の声を無視したままボールに目 を落とした。
「答えなんて――俺のワガママは俺のものなのに、日向くんが答えを捜す必要なんてない のに――」
 翼は怒ったように顔を上げ、大きく深呼吸をした。
「――よーし、行っけーっ!!」
「翼くんっ!」
 止める間もなかった。この不安定な場所から、翼はボールを思いっきり蹴ったのだ。ボ ールは芝をえぐるように飛び込んで、ライン際からコーナーの外側へとぐんと伸びて逸れ て行った。ライン上でプレイ再開を待っていた、日向のすぐ目の前をかすめて。
「翼くん! …大丈夫かい?」
 三杉はあわててスタンドから身を乗り出す。勢いでスタンドから転げ落ちてしまった翼 はそこにいた。若島津にがっちりキャッチされて。
「ははは、ごめんごめん」
「まったく…」
 あきれつつも若島津はそれ以上は言わず、抱え直した翼をまたスタンドに押し上げる。
「つ、ば、さ〜、おまえって奴は…!」
 主審も含めて、ピッチ上の人々も何が起きたのかわからないまま呆気にとられている。 代わりに切れたのが日向だった。
「そ、(…りまち、じゃなく)…岬! 俺にボールをよこせ!」
「――ふ、ふあいっ」
 スローインから再開された試合。
 その迫力に押されて、思わずゴール前に上げたボールに、日向は最初で最後の大爆発を 見せ――それがこの試合の決勝点となった。
「は、葉月ぃ?」
 試合終了後の挨拶もそこそこに飛んできたのは11番だった。
「おまえ、どーしたのっ! なんでここに…!?」
「岬さーん」
 葉月は手すりから身を乗り出すようにしてにっこり笑いかけた。
「おめでとう。最高のカムバックですよね」
「こら、葉月、何をわざとらしいこと言ってんだ。まさか父さんにくっついてジャカルタ まで来たっての?」
「はい、お祝いのキス」
 質問は一切抜きの問答無用で両手を伸ばし、引き寄せた頬に葉月は勝利のキスを贈る。
「岬さん、これ、岬さんにことづけといてね。よろしくっ」
 そう言って、葉月はくるりと身を翻し、スタンドから鮮やかに消えて行ってしまった。 翼さえもため息で見送る。
「すごいねー、彼女」
「本当に」
 三杉も苦笑しながらうなづいた。
「も〜」
 ぶつぶつと文句を言いながら、ニセ岬の顔はへらへらと笑っている。
「どーやってことづけるんだよ。俺が太郎ちゃんにキスでもしろって?」
「がんばれば?」
 松山がその頭をぽかりと殴る。
 そんな様子を自分の席から見下ろしながら、アネカが思い切りため息をついていた。









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