9章ー3















「三杉くんだ…」
 反町による裏道抜け道マップをチェックしていたまさにその時に、通信が入ったことを 知らせる表示が出た。
 メッセージの内容はわからない。だが、まだ接続は切れていない。ドアの向こう側に、 今この瞬間三杉が立っているのだ。岬は無意識に緊張していた。ドアを開くことはできな くても、こちらからノックして合図することはできる。ここにいるよ…と。
 でも、それに何の意味があるだろう。岬にはまだここにとどまる必要があった。マダ ム・ブルーの戦略が、今も刻々と進行しているのだ。
 接続は切れた。
 足音が遠ざかることもなく、相手はいきなりはるか彼方に消え去った。岬は、自分が手 を止めたままになっていたことにいまいましく気づかされてしまう。
「とにかく話だけは聞くよ」
 言い訳のようにつぶやいて、さっそく書き込みを開く。発信人はやはり三杉だった。
「なんだって? あのファイルが…」
 岬は画面を切り替えて『双つ身の天使』のファイルメニューを表示させ、確認する。
『一樹からの報告だ。あれはやはり、トロイの木馬だった。しかも、君を二重の罠に導く ための――』
 岬は顔をしかめた。三杉の説明は手短ではあったが、B国大使館に直接忍び込んで調べ たという反町の報告を自分なりに分析したものだった。
 トロイの木馬とはコンピュータへの攻撃を狙って作られるプログラムである。無害な顔 で送り込まれるが、気づかずに実行するとそのコンピュータに侵入して破壊活動を始め る。目的によってはシステムそのものを破壊・改竄したり、外部から誘導できるような 「ドア」を勝手に作り上げることもある。ウィルスのように感染し自ら増殖することはな いが、言わば二重スパイのような存在になるのである。
 これが個人のコンピュータでも大変なことだが、大企業や大学のネットワーク、さらに は政府や軍のコンピュータシステムをターゲットにしたものであれば、被害の規模は甚大 なものとなりうる。『双つ身の天使』がB国に「有用なファイル」として提供されたもの であり、それにミサキを誘導するよう仕組まれていたことが何を意味するのか。
 三杉の報告は、岬のここまでの疑問を裏付けるものとなった。
「ほら、ごらんなさい、きれいなバラでしょう」
 昼食に現われた岬に、夫人はいつものように微笑みかけた。食卓の上に飾られた花瓶の バラを目で示す。
「ここのバラ園にもバラはあるけれど、これは温室咲きの大輪ね。色が鮮やかだわ」
「お話があります」
「まあ、改まって珍しいわね。何かしら」
 夫人が勧める前に、岬は席についた。相手の顔をテーブル越しにじっと凝視する。
「『双つ身の天使』が動き出しました。パスワードを教えてください」
「ずいぶん単刀直入だこと」
 夫人の表情はわずかに緩んだ。それの意味するものを岬は知っていたが、構わず続け る。
「今はまだトリガープログラムの実行寸前でブロックされています」
「ええ、そのようね。それも時間の問題でしょうけど」
 夫人は給仕に食事を始める合図を出しながら軽く受け流す。
「もうあなたにできることはないわ。身代金は届いたの。あなたは十分に話し相手にもな ってくれたし、そろそろ釈放してあげる時ね」
「身代金――」
 岬は繰り返した。
「それを払ったのは誰でもない、ボク自身ってわけですか」
 岬の言葉に、夫人はちらりと目を上げた。しかし黙ってスプーンを口に運ぶ。今日のス ープはグリーンアスパラガスのポタージュだった。
「ボクはずっと首に縄をつけられたウの気分でした。あなたがボクを束縛しながら、魚を 追わせ続けていた、その意味を今頃になって知るなんて、とんだバカでしたよ」
 岬がいつまでもナプキンを取り上げないので、執事が横からそっと取り除けてスープを 置く。しかし岬は見向きもしなかった。
「ボクが進めていた調査と分析――そう、マダム・ブルーの活動についてありとあらゆる 場所から場所へと渡って行ったその作業こそがあなたの狙いだったんだ。決して表にでき ないエリアにボクが入り込めば入り込むほど、その抜け穴の価値は高まる。その気になれ ば超大国の中枢にコンピュータ・ウィルスを送り込む通路にもできるし、自分たちに伸び てくる追跡の手を一切消し去ってしまうための自爆だって可能でしょうね。B国の反乱分 子を利用して送り込んだトロイの木馬――『双つ身の天使』は、ボクをおびき寄せる役目 と、そこにたどり着いた抜け穴を、その先へと繋ぐ役目を持っていたわけだ。自分のエサ だと思い込んでせっせと魚を捕り続けたバカなウを見ながら、あなたはさぞ満足だったで しょう」
「そうね、楽しかったわね、本当に」
 ようやく顔を上げた夫人は、そう答えながらむしろ悲しそうな表情を見せた。
「あなたの仕事ぶりは素晴らしかったわ。計画は望んだ通りの結果を得られたし。でも、 たった一つ、私の思い通りにならなかったものが――手に入れられなかったものが、岬、 あなたよ。あなた自身」
「ボク…?」
 岬は目を見開いた。
「私はあなたと直接顔を合わせて、あなたと会話して、時には格闘までして――あなたが 戦おうとしているものが、おぼろげにでもわかったのよ」
 夫人はここで一つ大きな息を吐いた。ため息のように。
「あなたはここに監禁されて、毎日を過ごした。でも、逃げようと思えばいつでも逃げら れたのよ。庭の向こうはそのまま農地が広がっているだけ、塀すらないわ。コンピュータ の中でも同じ。研究も調査も放棄して包囲網を力ずくで突破すれば、どこへ行こうと誰と 連絡を取ろうと自由だったはずよ。あなたはそれを知っていたはずなのに、決して逃げよ うとはしなかった。ここにこうして監禁されている自分は自分ではなく、ただの影でしか ない…とでも言うように」
「そうですね、本当にそうなのかもしれない」
 岬はむっつりと同意した。
「光源が増えれば影は四方に増えるだけです。ボクがどんなボクであっても、それを求め る相手から見ればそのたくさんの影の一つでしかないのかもしれません。本体さえも、そ の影たちの一つに紛れてしまって、ね」
「あなた自身にもわからないって言うの?」
 岬はその言葉に反応した。夫人にしっかりと視線を合わせる。
「そうかもしれませんよ。ボクはどこにでもいる代わりに、どこにも存在しないのかもし れない」
 ふと言葉を切って、岬は自分の右手に目を落とした。指をゆっくりと動かしてみて、そ してぎゅっと握りしめる。
「そのバラ…」
 目を落としたまま、岬はつぶやくように言った。テーブルの上に飾られたバラに、夫人 もちらりと目をやる。
「そのバラはどうしたんですか?」
「わかってたんでしょう? お客さまが届けてくれたのよ。ボルドーからのお客さま」
 岬はようやく顔を上げた。夫人の最初の言葉通り、大輪の真紅のバラがこぼれそうに花 弁を競わせている。
「今朝早く訪ねて来られたようね。私は会っていないけれど」
 岬がくるりと向き直ると、そこに立っていた執事は軽く頭を下げる。
「そのバラだけを置いてお帰りになりました。またおいでになるとのことです」
「何度来ても同じなんだろ? どうせオバサンは会う気はないんだし」
「あなたはどうなの?」
 夫人はグラスを持ち上げた。白ワインであった。ボルドー物ではなさそうである。
「あなたを迎えに来てくださったんでしょう? さっきも言ったように、あなたはいつで も帰れるのよ。彼と、帰る?」
「いいえ」
 岬は微かに目を細めた。
「彼は危険だからと止めると余計に飛び込んでくるタイプです。プライドが高くてね。だ からこそ今は甘えるわけにはいきません」
「あなたも頑固ねえ、見かけによらず」
「それに、まだボクにはやることが残っていますよ」
 岬は今気づいたというようにスープに目を落とした。夫人のほうは既に次の皿に移って いる。鴨の背肉ソテー、マスタードソース添えである。
「このまま魚を横取りされるわけには行きませんからね、ウとしても」
「でも、パスワードがわからない限り、これ以上『双つ身の天使』には手が出せないんじ ゃなくて?」
「そうですね。でも安心してください。もう暴力であなたを脅すつもりはありませんか ら」
 岬は夫人から視線を離さないままいきなり立ち上がった。
「手掛かりはあります。あなたが過去に置いてきたものに。ボクに本体がないって言うな らあなただって同じでしょ。でも、あなたが忘れたと言った過去のあなたは決して消えち ゃいない。ボクを見るあなたのその目が、それを証明していますよ」
「岬…?」
「あなたが欲しがったボク自身は、ここにいない代わりに別のどこかできっと今頃動いて いますよ、たくさんの影の姿でね」
 岬はテーブルに身を乗り出すと、中央に置かれたパンかごからひょいとパンを一つさら った。いたずらっぽい目で夫人にニッと笑ってみせ、そのまま部屋を出て行く。
「まあ」
 夫人はあっけにとられ、それからくすくすと笑い出した。
「本当に、困ったイタズラっ子ね。アリも、あんななのかしら」
 岬が開けっ放しにして行ったドアを閉めながら、執事はわずかにため息をついたのだっ た。









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