9章ー2















「なんだ、瀕死の重傷だって聞いたのに、ぴんぴんしてるじゃないか、ナイーフ」
「ソリマチ、どうやってここへ…!?」
「おまえら以外はホテルから出られるはずはない、ってか?」
 タナ・アブン総合病院の外来フロアでは、医師や看護師が緊張した面持ちで行き交って いた。爆破事件による負傷者が何人も運び込まれているのだ。緊急手術も立て続けに行な われている。幸いこの病院では生命に危険のあるような患者はいなかったが、なにしろ運 ばれて来るのが内外の政財界の名士ばかりなのだ。緊張するなと言うほうが無理である。
 そのあわただしい空気の中、廊下の一角で睨み合う二人の男がいた。
「被害者として抜け出すとはいいアイデアだったな。俺も真似させてもらったぜ。俺は付 き添いだけどな」
「お元気そうでよかったです。もし本当に意識不明などだったら、お話が聞けませんし ね」
 付き添われてきた患者のほうも、その隣に立って笑顔を見せている。ナイーフ氏はむっ としたように黙り込んだ。
「あなたは僕のことをご存じでしたね。と言うより『ミサキ』の顔をね。もともと知って らしたのか、それともジャカルタ警察に出された捜索願をご覧になったってことですか」
 ナイーフ氏は眉を動かした。
「警察にまで手を回して『ミサキ』を奪おうとした。それは何のためです」
「答える必要はないな」
「じゃあ、僕が話しましょう。『双つ身の天使』を動かすためです」
「――おい!」
 無表情を装っていたナイーフ氏はそこでぎょっと顔を上げた。
「あなたは今度の会議でイニシアティヴをとるため、という名目でB国大使にある提案を しましたね。マダム・ブルーの後ろ盾を得る条件として『双つ身の天使』を持ち込んだ。 それを『ミサキ』に委ねるよう命じられたんです。指示通りに脅迫状を出して、ついには 誘拐まで。――でも、もう一つ教えてあげましょう。『ミサキ』は最初からジャカルタに はいなかった。そしてマダム・ブルーはそのことも知っていたんですよ」
「デタラメだ!」
 ナイーフ氏は両手を振り上げた。
「そんな話はどこにもない。何がマダム・ブルーだ!」
「そのわりに顔が青いぞ、ナイーフ」
 反町氏は愉快そうに相手を観察していた。
「ホテルで俺は現場検証の話をちょいと手に入れてね。あの爆発は『見せ』だったらしい って言うんだ。つまり、爆発の規模が大きい割に爆薬は少なくしてあった。殺傷能力はそ れほどじゃない、って鑑識は見てる。じゃあ、何のためだ」
「お父さん――」
 三杉はちょっと咎めるように反町氏を振り返った。いつのまにそこまで情報収集してい たのか。
「あんたたちはたいした被害もないのに病院に逃げ込んだ。そう、逃げたんだ。さっきの はまだ予告編、本番はこれからってことだろ。しかもあんたたちは被害者だから疑われな い。な?」
「……」
 ナイーフ氏は無言だった。反町氏を睨み、そして再び三杉に向き直る。
「ミサキでないなら――君は誰なんだ」
「どう言いましょうか。名前はこの場合問題じゃないですしね。僕は『ミサキ』の身内で す。そしてあなたがたが間違って誘拐してしまったのは、この反町氏の息子ですよ」
「ソリマチの息子、だと? じゃあ、王家のピアスをしていたという話は――まさか、ラ ウラの…!」
「あなたの部下はマダム・ブルーの策略に乗せられて間違った『ミサキ』を捕らえた。で も、別の意味で当たりだったとも言えますね」
 三杉はちらりと反町氏に視線を投げた。
「岬くんはマダム・ブルーの元にいます。最初から彼女はすべてを握っていたんです。あ なたを陥れ、B国を利用して。でもただ一つ彼女が見失っていたもの、それが一樹だった んですよ」
「どういうことだ?」
 反町氏が日本語でつぶやいた。
「今日のお二人のお話で謎だった部分が繋がりましたよ。ラウラ王女はすべてを失って故 国を去った。そして形を変えて戻って来たんです。マダム・ブルーの代表者、いえ、マダ ム・ブルーその人としてね」
「ラウラが…! 嘘だ!」
 ナイーフ氏の叫びは絶叫と言ってよかった。病院の、周囲の人々がぎょっとして振り向 いたほどだった。
 マダム・ブルーは、確かに一つの象徴だった。抽象的な、形のない存在であり、だから こそヨーロッパでそして中東で、絶対的な権力を行使してきたのだ。
「人の形をしていてはいけないのに。まして心など持っていてはいけなかったのに――」
「復讐、なんだろうかな。彼女は、王家に…運命に復讐したかったんだろうか」
 呆然とするナイーフ氏を見やりながら反町氏はつぶやいた。それぞれにそれぞれの過去 との繋がりは違っても、衝撃の意味は同じだったかもしれない。
「それは誰にもわからないことです。本人以外には。――でも、岬くんはたぶんその近く にいる。今、まさに」
 三杉の言葉は途中で独り言になった。そしてふっと振り返る。まるで誰かに名前を呼ば れたかのように。
「連絡を、とらなきゃ」
 今度こそ、答えが要る。そして彼らの元に、フィールドに戻ってもらわなければ…。
「彼自身のために――」
 三杉はナイーフ氏に近づいた。
「『双つ身の天使』は、この会議に向けて用意された何らかのサイバー兵器、おそらくウ ィルスですね。教えてください。そのパスワードを。あなたはそれを知っているはずだ」
「ああ、一つはな…」
 ナイーフ氏は虚ろな目を三杉に向けた。
「パスワードは2つある。マダム・ブルーが設定したものだ。私はその一つしか知らされ ていないんだ」
「それは困ったな」
 頼みの綱はあくまでかぼそい。道のりはそこに見えていても、呼びかける相手からの反 応はないのだ。
「まあ、カオル! あなたがなぜ…!」
 その時、背後から声がした。
「私よ、ラウラを預かっていた家の、ナジャです」
 廊下に立っていたのはアバーヤで全身をすっぽりと包んだ女性――であった。
「えっ、ナジャ? ええと、ナジャ・バドゥール・アル・セラーブ、だっけか。すまな い、顔は覚えてないんだが」
 確かに、これで顔を覚えていられたら透視能力者である。
「アル・ナサイブですよ。ほんとに、こんなことが一度に起きるなんて。さっきアリに会 ったばかりなのよ」
 大使夫人は、座り込んでぐったり放心状態になっているナイーフ氏を見下ろした。
「リースはこの人をニュースで見つけて、まっすぐ私のところへ飛んで来てくれたのよ。 姫を助けてくれ、って。本当に、それがどういう意味か私にもわからなかった。でも、リ ースにとってはずっと、姫の失ったものを悲しみ続けてきたのですね。それを晴らす時を 待っていた」
「結局ナイーフが俺たちを集める役をやってくれた、ってことか。じゃあ感謝しなくちゃ な」
 ナイーフ氏は感謝されても嬉しそうではなかった。
「いいえ、感謝はアッラーにですよ、カオル」
「ああ、そうですそうです。アルハムドリッラー、ですね」
 反町氏は、大使夫人に三杉を紹介した。
「はじめまして。いろいろとご迷惑をおかけしました」
「ここにもアリね。もう驚きませんよ。アリはあの時も姫を救ったわ。今回は一度に3人 も現われたんですもの、うまくいかないわけはないわね」
「いいえ、4人ですよ」
 三杉はにっこりと訂正した。
「もう一人、その姫の元にいるんです。フランスでね」
 その通り。もう一人がいる。たった一人、黙したままで。












「メールを送っておいたんだ、淳に」
「忍び込んだ時にか、とことん抜け目ないやつだな」
 白バイで疾走しながら、二人は大声で話を続けていた。
「緊急だったんだってば。あの『双つ身の天使』ってトロイの木馬だったんだ」
「なんだ、それ?」
 松山にわかるように説明するには、走るバイクの上というのは不利だった。
「コンピュータ用の爆弾みたいなもんだよ。個人のコンピュータの中身から、ネットワー クを通じてその全体だって破壊しちまうような。見た目は普通のソフトだけど、油断して インストールしたが最後、中で正体を現わして暴れ出すんだ」
「なんだ、結局、爆弾テロか」
 やっぱり、松山にかかれば大差はないようである。
「とっさだったから詳しいことまでは書けなかったけど、淳なら自分で補ってなんとかし てくれると思ってさ。けど、読んでくれたかな、もう」
「うおおお!」
 反町の独り言は吹っ飛ばして、松山が吠えた。またスピードを上げたのだ。が、救急車 との距離は縮まるどころか広がるばかりだった。
「あれ?」
 その時、松山がメーターの異状に気づいた。
「なんか、変だぞ、この白バイ…」
「何が?」
「――メーターの針が、動いてない!」
 任務についていたのだから整備は万全のはずである。松山に奪われる前には。
「一樹、ちょっと後輪のほう覗いてみてくんねえか。どうもそっちで変な音がしてんだ」
「ええー?」
 反町はしがみついていた手を片方離し、おそるおそる体を乗り出した。松山は逆側に体 を寄せて重心のバランスを取る。
「――んー、なんかさ、カウルの内側みたいな隙間に、黒いものが…引っ掛かってるって いうか……あっ!」
 反町は目をぱちくりする。
「これって、バ、バクダン? プラスチック爆弾じゃないのぉ!」
「なんだってー!?」
 松山は急いで前輪をチェックする。前かがみになって足先を使って探っている。どちら にしても高速走行中にやっていいこととは思えない。
「くそー、こっちもだ! しかもトルクの配線に直結してるっぽいな。マズイぞ、こいつ は…」
「ど、どーゆーことっ?」
 今度は松山が解説する役になってしまった。
「回転数が一定の数値に達したら、それを感知して起爆するようにセットしてあんだよ! つまり、一度上げたスピードから少しでも減速した時点で――爆発する!」
「ひえ〜!」
 今のこれでも十分すぎるほど刺激的な状況なのだ。これ以上の刺激材料はお断りした い、絶対に。
「どーすんの、光ぅ!」
「くっそー、これじゃ追っかけて行けねーよ!」
 いや、そうじゃなくて。
「今でもこのスピードだぜ、このまま突っ走ってろってことになるじゃんよ! 俺、ここ から飛び降りろなんてやだからな!」
「俺もだ」
 松山はまっすぐ前を向いて、歯を食いしばっていた。
「こんな街の真ん中で爆発させるわけにもいかねーしな。とにかく、この大通りからは外 れるしかねえ」
「外れて、どこか行く当ては?」
「知るかよ。俺はジャカルタは初めてなんだ!」
 まだ深夜なだけ幸運だったかもしれない。渋滞に巻き込まれなどしていたら悲惨なこと になっていただろう。
「これって、あのリムジンの先導の白バイだろ? そいつにこんな爆弾が仕掛けてあった ってことは…」
「狙いはリムジンのVIPか」
 白バイは右折してガジャマダ通りから別の道に入った。当然信号は無視したが、白バイ だから許してもらおう。周囲で起きる急ブレーキの嵐を縫いながら、とにかくひたすら北 上する。
「止まれない、ってことはこのままどんどんどんどん走って、地球一周!?」
「バカ、その前に海だ」
 松山は正しい。ジャカルタは海に面した港町である。ビル街は遠ざかり、植民地時代の 雰囲気が色濃くなる。かつてジャカルタがバタビアと呼ばれた時代に賑わったエリアであ った。
「なんてぐちゃぐちゃな道だ!」
 この一帯は狭い道が入り組んで、鉄道の路線が何本も走り、その隙間を埋めるように多 くの運河が縦横に流れている。まさにジグソーパズルであった。
「ひ、光…?」
「話しかけんな、集中してねえと何かに突っ込んじまう!」
「うえええ!」
 カーブでも右折左折でもスピードは落とせない。高速のまま突っ切るというのがどうい う恐怖かを反町は後部座席で身をもって味わった。車体をギリギリまでバンクさせること になり、ほとんど横倒しの体勢でふと見ると路面が顔の横に迫っていたりするのだ。もう こうなると松山の腕にすべてを任せてしまう以外ない。暴走白バイは、路地や交差点ごと に周囲のクラクションを渦巻かせながら、さらにさらに走り続けた。
「あー、前っ!!」
「くそー、どいてくれ!」
 運河沿いに倉庫が並ぶ地区に入る。路上に木枠の貨物が無秩序に積まれていて、白バイ は何度もきわどいところを擦り抜けなければならなかった。
「ひえー、こっち、塞がってる〜!」
 運河の橋を突っ切るが、その先で行く手を塞ぐトラックに突っ込みかける。松山は大き く芳香を転じた。が――。
「わーっ!!」
 白バイは突然すべての摩擦を失った。道はそこで途切れ、その先は運河の水面である。
 ザッパ〜ン!
 派手な、派手なダイビングを見せて、白バイは真っ暗な水面に叩き付けられた。大きな 水しぶきと波が立って、運河のはしけがゆらゆらと激しく揺れる。
「あーあ」
「もったいねー」
 運河のヘリに手を掛けて、二人はしずくをぽたぽたと垂らしていた。









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