9章ー1






第9章
再び、ララバイ











「あのな、どっちにしても俺の母さんは一人だけなの。だってさ、実際他に知らないんだ ぜ? 俺にとってもそうだし、母さんにとってもそうなんだから、あと何かマズイことっ てある?」
「血が繋がってるとかどうとかはどうだっていいんだ。少なくとも俺はな。けど、岬はど うなる? その姫だか何だかにつかまっちまって――いや、つかまえようとしてんのか? ――まあとにかく、身動き取れないままでいるんだぞ。手掛かりはおまえにあるんだ、そ れだけは覚悟しろ」
 ホテル近くで検問で止められたため、大使夫人の車はホテルは諦めて病院に直接向かう ことになった。二人はそこで別れて、自力でホテルを目指すことにしたのである。
「覚悟ったってさー」
 反町はぶつぶつ不満を言う。
「父さんも交友関係にはもう少し気を配ってもらいたかったよ。俺にまでとばっちりが来 るんだもんなー」
「そうか? あのおばさんの話を聞いた感じじゃ、おまえのほうが一番の原因かもしれな いぞ。例のマダム・ブルーと直接関わってるって点では」
「それは岬くん!」
「どうだか」
「光、おまえヒトの出生の秘密を知ったからって、態度悪いぞ、まったく」
 などと騒ぎつつ歩いて行くと、前方が賑やかになってきたようだ。消防車の大群がホテ ルの敷地を取り囲んで真っ赤な警告灯をぐるぐると夜景に反射させているし、その向こう では拡声器を使って立ち入り禁止と通行止めをしつこく叫んでいる。
「もぐり込めそうにないな、こりゃ」
「と言いつつ、もうもぐり始めてんじゃん」
 懲りない二人組は、ホテルの脇の別の敷地から抜け道を探そうとした。が、そう簡単に いくものではない。
「誰だ!」
 ホテルの裏庭までもう少し、というところで武装した兵士に見つかってしまう。
「こういう怪しい所で怪しいことすれば、怪しまれるの当たり前だよ!」
 その通り、とにかく逃げるしかない。
「おい、一樹、大丈夫か?」
「ふえええぇ…」
 反町はすぐに音を上げ始めた。
「今日は俺、走ってばっか。昨日までベッドの中だったのに、急にこれってないよぉ」
「腹へってんだろ、おまえ」
 そういう自分はアネカの屋台で十分に栄養補給をしてあるから、フラフラの反町を支え て走るくらいの余裕はある。
「それに、しばらく使ってない筋肉をいきなり使うとな――」
「ケイレン、だろ? もうなりかけてるんだってば」
 試練は続く。二人はとうとうばったりと植え込みにスライディングしてしまった。暗さ が幸いして、すぐ背後に来ていた追っ手だけはやり過ごすことができたようだ。しばらく 草の上で息を補給する。
「こっち、こっちですよ!」
「え?」
 微かな声を聞きつけて二人が見回すと、なんと無灯火のパトカーがすぐそこに停まって いるではないか。が、窓から手招きしているのは見覚えのある顔だった。
「あんたは…!」
 それはジャカルタ警察のハディナタ警部だった。
「よくもぬけぬけと出て来たな、おっさん!」
 松山がかみつかんばかりに睨みつけると、警部は必死に笑い顔を返してきた。見ように よっては泣き顔にも見える。
「大丈夫、大丈夫。そこにいなさい。ねっ」
 何が、ねっ…だと思いながら二人が油断なく周囲の様子を窺っていると、まもなく何人 かの警備兵が走って来た。さっきから彼らを追って来ている顔も見える。二人は緊張した が、ハディナタがそれを呼び止めて何事かを言うと、彼らは不審そうにしながらも立ち去 って行った。
「追っ払ってくれたのかな」
「さあ、もう大丈夫。中に入りたいのなら、ここから行けるからね」
 警部はまた笑顔で手を振った。松山は小さく「べ!」をして歩き出す。反町もおそるお そる後を追った。
「調子のいいオヤジだぜ、まったく」
「誰、あれ? 知り合い?」
 捜索願を出されたほうの反町にはもちろん面識はない。
「あいつだよ、おまえを誘拐した連中に買収されてたくせに、俺たちには俺たちでミスギ の会社の名前にびびっていい顔見せようなんて。あれで警察の役付きだなんて呆れるぜ」
「ふーん」
 反町は、警察なんて信用できない…と言っていたアネカの言葉を思い出しながら、パト カーのほうをちらっと振り返った。
「正面から入るのって、難しいかな」
 覗いてみると、人の出入りは確かに激しいものの、そのほとんどは警察か軍関係者で、 一般人のしかもコドモなどそんな所にのこのこ出て行っては目立ちまくりである。二人は しばらく様子を見るしかなかった。
「すごいリムジンがあるよー、ほら」
「国賓級のお客さんがごろごろしてっからな。お迎えだろうな」
「あー、救急車だ」
 反町が指をさした方向から1台の救急車が到着し、エントランスの端に停車した。爆発 直後に重傷者はいち早く搬送されて行ったはずなので、今頃になってやってきたというの はそれとはまた別口の、ということだろうか。
「あっ!」
 その救急車に、建物の中から何人かが動いて行く。反町はそれを見た途端、声を上げて しまった。
「父さんだ!」
 反町氏はストレッチャーに付き添って、そのまま救急車に乗り込んだようだ。反町は隣 の松山を振り返る。
「光……?」
 松山は呆然とその光景を見ていた。拳がぎゅーっと握られる。
「どしたの」
「――あれ、淳だ」
「えっ?」
 反町にはこの距離ではとても顔まで確認しきれなかったのだが、松山はあくまで断定す る。
「運ばれたの、淳だった。間違いない」
「そんなぁ。じゃ、まさかあいつ…」
 それ以上続けることはできなかった。松山が鉄砲玉のように飛び出して行ったからだ。
「待てよ、また見つかっちまうよぉ!」
 反町もあわてて後を追うが、その二人のずっと向こうで、救急車はサイレンの音と共に 夜の大通りへ消えて行った。
「わ、ほら、さっそく!」
 反町は松山の腕を引っ張ろうとした。が、逆にぐいっと引きずられそうになる。松山の ほうがさらに足を速めたのだ。こちらに気づいて走って来た警備の皆さんから逃げて、で はない。松山は、ただその救急車を追うことしか頭になかったのだ。
「これ、借りよう」
「…おい、光ってば!」
 松山が目をとめたのは、ホテル前にあったリムジンの先導をする白バイだった。周囲の 怒号も気にせず、2台のうちの1台にさっさとまたがってしまう。
「おまえ、残るのか?」
「もーっ、行きますよ。行くしかないだろ!」
 確かに迷っている暇などなかった。松山がスロットルを引いた次の瞬間、飛び掛ってき た警官が宙をつかむ。
「うわー、かわいそ」
 それを振り返って、反町はつぶやいた。あとはもう松山にしがみついているしかない。
 乗っ取られた白バイはぐいーんと加速して真ん中の車線に飛び込んだ。目指す救急車の 赤色灯はもう他の車のライトに紛れてしまうほど遠かったが、風向きのせいかサイレンは 微かに耳に届いていた。
「ねえ、光」
 反町は大声で叫んだ。
「おまえと青葉さん、どっちが安全運転派?」
「もちろん、俺!」
 松山も叫び返す。反町は肩を落としてため息をついた。信用できるわけがない。
「俺さ、おまえとだけはタンデムしたくなかったよ」
 ジャカルタの夜は、むっとするような熱をはらんでいた。









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