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「公用車でなく、私の車で行きましょう」
大使館の隣の公邸に戻り、彼らはさっそく現場に向かうことになった。大使夫人と、反
町と松山が乗り込む。
屋敷の前ではらはらして待っていたアネカは、お祖母さんとようやく再会できて大喜び
をした。まだ頑固に居残ると言い張るお祖母さんを説き伏せて、とりあえず一度家に帰る
ことになる。彼らは窓越しに手を振って別れた。
「おばさんは運転はしないんですか?」
「わが国では女性は運転免許を取れないんですよ」
「えーっ?」
アラブ諸国の中でもイスラムの戒律が特に厳しい国なのだと言う。憲法はコーランであ
り、民法・刑法もイスラム法に基づいて運用されていると聞くと、二人は驚きを通り越し
て感心してしまった。
「いろんな国があるもんだよなー」
「でも私は留学時代に内緒で国際免許を取りましたよ。ただし帰国して以来20年近くペ
ーパードライバーですけれど」
反町は運転席にちらりと目をやった。夫人専用の運転手だそうだ。本国でも、女性はも
ちろん家族か使用人の運転でしか車には乗れない。
「そうそう、これを忘れてました」
夫人が手元から小さい紙片を取り出した。
「リースから預かっていました。返しますよ」
「え、これって、島野のメモだ! 俺んじゃないんだけどなあ」
「大使館でふとあなたの顔を見て、記憶に何か引っかかったんだそうですよ。ぼんやりし
た記憶の中から、これを見て急にはっきり思い出したんですね、あの時のアリだって」
もしやと思って追って行き、倒れていた反町のポケットから見つけたのが、これだった
のだという。
「で、何て書いてあるんですか?」
「人が黙せば石が叫ぶだろう――コーランの一節ですよ。真実は、隠しても明るみに出る
ものだ、ということです。ああ、よく似た言葉が新約聖書にもありましたっけ」
お祖母さんにとっての真実は、反町に出会ったことで一気に蘇って来たのだろうか。
「リースは、昔、私の身内の家で働いていました」
移動する車の中で、大使夫人は事情を話し始めた。
「姫は、留学から帰国してまもなく、密かに結婚を望む相手ができたのです。そして、二
人して家を捨てて逃れる決心をしました」
「つまり駆け落ち…」
イスラム社会では結婚は親の同意なしには成立しない。庶民でも王族でも、その厳格さ
は同じである。
「ところが姫の恋人はギリギリになって心を変えました。逃亡は未遂に終わり、姫は国王
の怒りを避けるために私の一族で預かることになったのです。外に出ることは許されず、
屋敷の奥の別棟に隠れるように姫は暮らしていました。リースはその身の回りの世話をし
ていた一人だったのです。そしてアリ、あなたはその家によく遊びに来ていたんですよ。
あなたのお父さまはご自分の仕事の関係でその家とは懇意になさっていて、よく訪ねて来
られていましたから。男性の出入りの許されないその一角にも、小さいあなたは自由に行
き来して、その家の女性たちにそれはもう可愛がられていました。特に、姫には」
「うーん、熱出そう…」
反町は頭を抱えてしまった。
「あなたのお父さまは変わった方でね、外交官でありながら国の様々な分野に興味がある
とおっしゃってあちこちに顔を出されていたようですよ。でもその分、それを快く思わな
い人も多かった。領事館でもきっと居心地はよくなかったでしょうね。――それだからこ
そ、彼も思い切れたのかもしれません」
「な、何をやらかしたんですか、父さんは…?」
外交官をクビになった、という事実を知らされたばかりの反町は、おそるおそる乗り出
した。
「外交官特権ってありますね。あれを利用して姫さまのパスポートを偽造し、あなたと3
人で親子を装って出入国審査を強行突破しようとしたのですよ」
「ひー、父さんってば、何てことを…!」
「血は争えないよな、一樹」
松山はシートにもたれてにやついていた。
「ちょうどクーデター騒ぎのさなかで、空港は戒厳令下にありました。警備はいっそう厳
しく、出国寸前にとうとう怪しまれて逮捕されそうになったのです。逮捕されれば政府側
に引き渡されてそのまま処刑、ということにもなりかねませんでした。警備兵に発砲され
て姫は重傷を負いましたが、ちょうど出発間際の飛行機に間に合って、姫だけでも逃がそ
うとなさったのです」
「はあ…?」
「でも、アリ。最後に皆を救ったのはあなただったのですよ」
大使夫人は深くうなづいた。
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