8章ー4















「公用車でなく、私の車で行きましょう」
 大使館の隣の公邸に戻り、彼らはさっそく現場に向かうことになった。大使夫人と、反 町と松山が乗り込む。
 屋敷の前ではらはらして待っていたアネカは、お祖母さんとようやく再会できて大喜び をした。まだ頑固に居残ると言い張るお祖母さんを説き伏せて、とりあえず一度家に帰る ことになる。彼らは窓越しに手を振って別れた。
「おばさんは運転はしないんですか?」
「わが国では女性は運転免許を取れないんですよ」
「えーっ?」
 アラブ諸国の中でもイスラムの戒律が特に厳しい国なのだと言う。憲法はコーランであ り、民法・刑法もイスラム法に基づいて運用されていると聞くと、二人は驚きを通り越し て感心してしまった。
「いろんな国があるもんだよなー」
「でも私は留学時代に内緒で国際免許を取りましたよ。ただし帰国して以来20年近くペ ーパードライバーですけれど」
 反町は運転席にちらりと目をやった。夫人専用の運転手だそうだ。本国でも、女性はも ちろん家族か使用人の運転でしか車には乗れない。
「そうそう、これを忘れてました」
 夫人が手元から小さい紙片を取り出した。
「リースから預かっていました。返しますよ」
「え、これって、島野のメモだ! 俺んじゃないんだけどなあ」
「大使館でふとあなたの顔を見て、記憶に何か引っかかったんだそうですよ。ぼんやりし た記憶の中から、これを見て急にはっきり思い出したんですね、あの時のアリだって」
 もしやと思って追って行き、倒れていた反町のポケットから見つけたのが、これだった のだという。
「で、何て書いてあるんですか?」
「人が黙せば石が叫ぶだろう――コーランの一節ですよ。真実は、隠しても明るみに出る ものだ、ということです。ああ、よく似た言葉が新約聖書にもありましたっけ」
 お祖母さんにとっての真実は、反町に出会ったことで一気に蘇って来たのだろうか。
「リースは、昔、私の身内の家で働いていました」
 移動する車の中で、大使夫人は事情を話し始めた。
「姫は、留学から帰国してまもなく、密かに結婚を望む相手ができたのです。そして、二 人して家を捨てて逃れる決心をしました」
「つまり駆け落ち…」
 イスラム社会では結婚は親の同意なしには成立しない。庶民でも王族でも、その厳格さ は同じである。
「ところが姫の恋人はギリギリになって心を変えました。逃亡は未遂に終わり、姫は国王 の怒りを避けるために私の一族で預かることになったのです。外に出ることは許されず、 屋敷の奥の別棟に隠れるように姫は暮らしていました。リースはその身の回りの世話をし ていた一人だったのです。そしてアリ、あなたはその家によく遊びに来ていたんですよ。 あなたのお父さまはご自分の仕事の関係でその家とは懇意になさっていて、よく訪ねて来 られていましたから。男性の出入りの許されないその一角にも、小さいあなたは自由に行 き来して、その家の女性たちにそれはもう可愛がられていました。特に、姫には」
「うーん、熱出そう…」
 反町は頭を抱えてしまった。
「あなたのお父さまは変わった方でね、外交官でありながら国の様々な分野に興味がある とおっしゃってあちこちに顔を出されていたようですよ。でもその分、それを快く思わな い人も多かった。領事館でもきっと居心地はよくなかったでしょうね。――それだからこ そ、彼も思い切れたのかもしれません」
「な、何をやらかしたんですか、父さんは…?」
 外交官をクビになった、という事実を知らされたばかりの反町は、おそるおそる乗り出 した。
「外交官特権ってありますね。あれを利用して姫さまのパスポートを偽造し、あなたと3 人で親子を装って出入国審査を強行突破しようとしたのですよ」
「ひー、父さんってば、何てことを…!」
「血は争えないよな、一樹」
 松山はシートにもたれてにやついていた。
「ちょうどクーデター騒ぎのさなかで、空港は戒厳令下にありました。警備はいっそう厳 しく、出国寸前にとうとう怪しまれて逮捕されそうになったのです。逮捕されれば政府側 に引き渡されてそのまま処刑、ということにもなりかねませんでした。警備兵に発砲され て姫は重傷を負いましたが、ちょうど出発間際の飛行機に間に合って、姫だけでも逃がそ うとなさったのです」
「はあ…?」
「でも、アリ。最後に皆を救ったのはあなただったのですよ」
 大使夫人は深くうなづいた。








「警備兵は発砲してきたが、なんとか運良く搭乗ゲートへの抜け道を見つけることができ てね」
 反町氏は思い出しながらゆっくりと語った。
「俺たちはケガはなかった。だが彼女は傷か深く、一刻を争う状態だとわかったんだ。車 椅子を見つけてきてそれに乗せ、必死に搭乗ゲートまでたどり着いて、出発寸前のヨーロ ッパ行きの便に乗せようとした」
「でも係官に見つかりませんか、それでは」
 三杉は眉を寄せた。反町氏はうんうんとうなづく。
「見つかったとも。だが、同じ便に乗ろうとしていたヨーロッパ人医師が、彼女の状態を 見て助け舟を出してくれたんだ。搬送中の患者に紛れさせて、応急処置もしながら責任を 持って自国まで送り届ける、とね。――だが係官は簡単には信じようとしない。もう一度 イミグレーションに照会してからでないと通せないと言う。するとね、一樹のやつが一世 一代の演技をしたんだよ」









「アリ、あなたが姫にとびついて大きな声で泣き出したのだそうよ。『お母さん、死んじ ゃ嫌だ』って。それはもう手が付けられないくらいの勢いで。空港係官たちは半信半疑な がら、あなたのその様子に諦めたのでしょう。お父さまは親切なお医者さまに姫を託し て、あなたと二人、また市街に逃れたということです。リースはお父さまからその話を聞 いてひどく悲しんだそうですけれど、姫の命を助けるためにはこれしかなかったのですか ら、これもアッラーの思し召しですよ」
それって、本気でそう思ったのか、おまえ。それとも…」
 松山はちらっと隣を盗み見る。
「知るかよっ、俺はまったく覚えてないんだって!」
 反町はもう、ぐったりしていた。








「お母さんだと、信じていたわけでもないのに…?」
「そうだな。俺もその時はよくわからなかった。だがようやく彼女を見送って、俺たちも なんとかその場から離れて、その後であいつはまだ半分ベソをかきながら言ったんだ。助 かってよかったね…ってな。まだ3つにならない子供がだぞ」
「伝説ですねえ。彼らしいと言うか…」
 三杉は苦笑した。
「でもお父さん自身はどうでした? 一緒に行こうという気はなかったんですか?」
「あまり後のことは考えなかったな。なるようになれてとこでね。そして本当になるよう になった。そう思うしかないだろ」
 反町氏は椅子に掛けたままぐーっと背を伸ばした。ホテルがとりあえずという形で用意 した別棟のホールでは、一時避難してきた客たちが不安そうにひそひそと言葉を交し合っ ている。
 事件の状況は知らされず、外部との連絡も許されず、もちろんホテルからも一歩も出し てはもらえないという状態では、もう開き直って待つしかなかった。
 伸びをやめると、反町氏は広いホールの向こうに視線を投げた。何を見るともなく。
「なあ、三杉くん。俺にはわかってたんだよ。彼女は俺でなく、一樹のことばかりを見て いた。最初からな。もしかすると俺たちに会うもっと前から」
「……」
 反町氏は顔を上げて、にっと笑った。一樹と、同じだ…と、三杉はふとそう感じたのだ った。












「反町さあん!」
 別室で手当てを受けていたカメラクルー氏が戻ってきた。
「なんか、警察の人が呼んでますよ。事情聴取ってーか、目撃者を集めてます」
「おーし。じゃあこっちから事情聴取やり返してやるか」
 反町氏は立ち上がった。三杉を見返して、黙ってぽんぽんと肩を叩くとゆっくりと歩い て行った。三杉はドアのほうへ目をやって、そこに思いがけない顔を見つけた。
「ハディナタ警部、でしたよね」
「あっ!」
 三杉を見て警部は思いっきり驚いたようだった。そして瞬時に、この相手がこの場所に もふさわしい存在であったことを再確認したらしい。
「とんでもないことが起きてしまいましたね。あなたも大変ですよね、あちこち忙しく て。あちこちね」
 三杉の言外の皮肉に、ハディナタ警部はますます顔色が悪くなった。他の警察関係者た ちに背を向けるようにして三杉に囁きかける。
「いや、その、どうしてもと依頼されましてな。表向きにできない大事な事情、ってやつ もままあることですから…」
 そんな言い訳があるものか、などとは言わず、三杉は笑顔でうなづいた。
「それは別にいいですよ。ただ僕はずっとここで足止めされたままでどうにも時間を持て 余しているもので、退屈しのぎにこの間から僕や僕の仲間に起こっているトラブルのこと をついいろいろ考えてしまうんですよ。ジャカルタでは警察ってずいぶん個人的な対応に 差があるんだな、なんてね」
「う…、いやそんな――あっ、そう、そうでしょうな、はあ」
 金と権力の好きな者ほど金と権力に弱い…という典型をみせて青くなっているハディナ タ警部を脅して――いや、説得して、三杉は一つの情報を得た。
 B国代表団一行は爆発の後、負傷した物もしなかった者も全員揃って病院に向かったと いうのだ。あの時彼らとほぼ同じあたりにいたのだから、特別に被害が大きかったとは考 えにくい。むしろ別の意図があったということになるだろう。
「ああ、お父さん」
 逆取材の成果がなかったのか、反町氏が渋い顔で戻って来た。
「さっきのナイーフ氏ですけれど、岬くんの名前に反応していましたよね。彼は何をして いる人物なんですか?」
「俺が調べた範囲では、本国で石油関連の役職についているらしい。だがこういう国際会 議の代表団に加わってくるところから見て、政府の関係筋にけっこう直結しているようだ な。昔から保身に長けた男と言うか、風向きを読んであっちにこっちに渡り歩く、計算高 い奴だよ」
「ずいぶん辛口ですね」
 三杉は笑うのこらえながら口元を押さえた。反町氏は肩をすくめる。
「俺は1回だけだが、ラウラ王女は2回もあいつのために命を落としかけてるんだぞ。1 回は空港で、もう1回はその1年前、絶望で」
「えっ?」
「あいつはラウラと恋仲になって駆け落ちを約束させ、挙句に裏切った。彼女の苦しみ方 は周りが見かねるほどだったそうだ。結局あいつは自分の出世のほうを取ったってわけ さ。国王側に尻尾を振ってみせてな」
「そうだったんですか…」
 思わぬ事実に三杉は少し考え込んだ。が、すぐに顔を上げると、反町氏に耳打ちする。
「そんなことが、できるのか?」
 目を丸くする反町氏に、三杉は余裕でうなづいた。
「ほら、あそこに立っている警察の人が全面協力してくれるはずですよ。それくらいのこ とならね」
 三杉が指したのは、もちろんハディナタ警部だった。









 BACK | MENU | NEXT >>